話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

委員長的・PTA的オタクたち

 また更新がかなり滞っていました。たぶん今後もこういうペースになると思います。

 前回「ネタが尽きたとかではなく」とか書いてたような気がしますが、尽きてました、ネタ。すみません。

 

 

まなざし問題についての委員長

 ネタというか、邪悪な気持ちが尽きてたんです。このブログは、タイトルからもわかるとおり若干邪悪な気持ちを糧に書いてたようなところがありました。もとは邪悪な気持ちがどんどん湧いてくる2ちゃんねるをやめるために始めたブログですが、いまではすっかり治療された感じです。

 ただ、さいきんちょっとだけ邪悪な気持ちになることがあったので、今回はそれについて書いてみたいと思います。

 

 まなざし問題ってありますよね。碧志摩メグとか、最近だと『女子高生探偵シャーロット・ホームズ』という海外の小説の日本版について似たようなことが起きていたり。

 こうした問題に対してオタク達は「自分の個人的な不快感を、社会正義や他人・原作者の不快感に置き換えて押し通そうとしている」などといったロジックで反論するわけです。

  なるほどたしかにそういうことは往々にしてありそうです。

 太宰メソッドなども該当しそうですが、社会正義や他者、原作者の不快感を装って自分の不快感を押し通そうとするやり方を、委員長的あるいはPTA的方法と呼んでみましょう。オタク達はつねにこうした委員長的・PTA的方法と闘ってきたわけです。

  とはいえしかし、こうした方法は本当にオタク批判側の専売特許でしょうか?

 

 

ベッキー問題についての委員長

 僕が嫌いなのは2ちゃんねる的な、批判が好きで好きで仕方ないというタイプのオタクです。

 むろん、オタクすべてがそうであるわけではない。とはいえなかなか無視できない数の2ちゃんねる的なオタクがいます。

 僕が彼らを嫌うのは、彼らがアウトローだからではありません。むしろその逆、あのせせっこましい狭量さ、窮屈でつまらない旧弊的な規範しか認められない平凡さが本気でいやなのです。言ってしまえば、彼らは委員長でありPTAであり「いい子ちゃん」でしかない。

 ベッキーに対する批判などを見てもわかる。彼らが「知るか、他人の不倫とか、本人で解決してろ」や「不倫くらい自由じゃねぇの? 気に入らないなら本人が仕返せばいいんじゃねぇの?」と思えるほどアウトローならどれほどよかったか。実際には彼らは、いかにも親切に「被害者のためを思ってますよ」と、いい子ちゃんを装っておせっかいな批判を繰り返すしかないわけです。

 彼らは「人それぞれ」や「いやなら見るな」といった言葉が嫌いです。何故か。問題を個人的な好悪や不快感の問題に還元されるのを嫌うからです。個人的な感情なら「あっそ」で終わってしまう。だからこそ、社会正義や他者、原作者の不快感を装わざるをえない。委員長的・PTA的方法はむしろ、批判の一般的な形式と言っても言い過ぎではないかもしれません。だとすれば、批判が大好きな彼らはやはり典型的な委員長でありPTAでありいい子ちゃんであるわけです。

 

 

セカイ系的欲求

 要するに「まなざし村」とその批判対象でありかつ反論者であるオタク達は、結局同じようなことをやってる同じ穴の狢に過ぎないわけです。

 そもそも原作者を憑依させてその不快感を代弁するふりをしつつ自分の不快感を押し通すやり方は、「原作レイプ」という言葉が大好きなオタク達の専売特許で、まなざし側が真似したといってもいい気がします。

 ラディカルな(まなざし村的な)フェミニズム2ちゃんねる的なオタクたちは、互いの方法を学び合ってることもあり、方法の面では一致している。なにが違うかと言えば、なにが好きでなにを嫌うかという、個人的な好悪、つまり党派性が違うだけの話。なんだと思います。

 彼ら彼女らは自分の好悪や不快感を、単なる個人的なものに留めておくことができない。他者を憑依させたり社会正義というもっと大きな問題に仮託したりせずにはいられない。こうした欲求の在り方を「セカイ系的欲求」と呼んでみたい。

 もしかしたら間違った解釈なのかもしれませんが、最近いわゆる「セカイ系」について思うのは、それは「自分とセカイが一致していて欲しい」という欲求の表現形式の一つなのかな、ということです。

 小さい話で言えば、自分が悲しいときには雨が降っていて欲しい、と思うこと。あるいは、自分にとって危機的な恋愛は、セカイにとっても危機的であってほしい、と思うこと。

 まぁ古くはセカイと自己が完全に一致していた幼児の頃への回帰でしょう。*1

 しかし実際には、セカイと自己は一致しません。自分がいいと思うものが世の中では評価されず、世の中で評価されているものが自分にはいいと思えない。そういうことは往々にしてあります。セカイは自分でないのだから、当たり前です。それはそもそも変えられるようなものではないし、自分と完全一致したセカイは心地よいかもしれませんが、同時にそれはすごく気持ち悪いものです。他者がないのだから。

 むろん、部分的には変えられるでしょう。とくに世間的に評価されていないが自分はいいと思うものに対する見方を、批評によって世の中に広めるのはかなり有益なことです。一方で自分がつまらないと思うものを、それまで楽しめていた世の中にまで楽しめなくすることに、なにか意味はあるのでしょうか? 僕にはわからないし、大抵そういう試みは失敗します。それは往々にして「セカイと自己が一致して欲しい」セカイ系的欲求からくるわがままに過ぎないからです。

 ここで唐突に確率の話をしてみましょう。袋の中にボールがあり、その中に白いボールがあるかもしれない。袋の中からボールを引いては戻します。ここで赤いボールを「つまらない」、白いボールを「面白い」とします。一度ボールを引いてみると赤だった。このとき袋の中に白いボールがない可能性は依然としてあります。つぎに引いてみると白だった。これで袋の中に白いボールがない可能性は消えます。そのあとどれだけ「つまらない」赤のボールを引こうが、袋の中に「面白い」白いボールがある事実は覆せません。試行を繰り返せば、大数の法則により白いボールの出現頻度は真の確率に近付きますが、一度白いボールが出る限り0になることはない。

 面白く見られる可能性のあるものを、わざわざつまらなくみることに、すくなくとも僕は意味を見出せません。(むろん、かといって頑張って面白く見る必要も必ずしもありませんが)

 ただ、「自分が嫌いなものはセカイも嫌って欲しい」というセカイ系的欲求の持ち主なら、そこに意味は見出せずとも、ついついやってしまうことはあるかもしれません。

 そしてそれは、ハッキリ言ってくだらないと思います。僕は。

 

 

 商品になること

  さて、ここからはすこし話の色を変えます。

 そしてここからがこの記事の気持ち悪くて「邪悪な気持ち」の部分です。

 悪魔合体です。

 一方にベッキー批判を置く。すこし古いですがAKBメンバーの恋愛スキャンダルでもいい。いずれにしろ「他人が口出しするようなことではない」ことであり、「有名税」や「芸能人=商品なのだから、そうした(おせっかいな)批判も甘んじて受ける必要がある」と正当化されがちな批判です。

 もう一方に「萌え」への批判を置く。深夜アニメのエロシーンや残虐シーンへのPTA的な批判でもいいし碧志摩メグ批判でもいい、あるいは「犯罪者が普段見ていたアニメ」の報道でもいい。

 このふたつを合体させてみたとき、見えてくる問いは「萌え絵は商品か?」ということです。

 YES。ですよね。

 萌え絵は商品なんですよ、アニメであれなんであれ、アイドルや芸能人と同じように。だったら。芸能人と同じような理不尽な叩き方されても文句言えませんよね?

 有名税

 もちろん、本来のターゲットでない視聴者からの批判に晒されることもありえます。ベッキーやAKBの批判者は必ずしもファンではなかったでしょう。同じように、深夜アニメなど見ない層から不快感が噴出することもある。

 残された選択肢は「「商品」への理不尽な叩きを許容する/しない」です。もちろん「商品」のなかには萌え絵もベッキー達芸能人も入っている。ベッキーを批判し続ける限り萌えへのまなざし的な批判もまた許容せざるを得ない。また萌えへのまなざし的な批判を理不尽だと批判する限り、ベッキー達芸能人への「おせっかい」な批判もやめざるをえない。

 

 僕は「まなざし村」的な過度のポリティカルコレクトネスの侵攻には危惧を覚えますが、一方でほの暗い喜びもまた覚えます。なにしろ、これによってようやくオタク達は「~な批判はやめるべき」という理屈を考える必要に迫られたのですから。このとき、とある批判が理不尽である条件を、彼らが普段行うあらゆる批判に適用すれば、どういう結果が出るでしょう?

 それを想像するとき、なんかちょっと邪悪だなぁ、よくないなぁ、と思いつつも、うくく、と笑えてくるのを止められないのです。

  ほんとよくないですよね、こういうの。

 

 

 

 

 

*1:鏡像段階の前、と言ってみたいが、間違ってたら怖い……

帰ってきましたご無沙汰ですカクヨムにSF創作講座に書いてました書いてます書いていきます

 ご無沙汰しております、荻上3です。

 

 もうずいぶん更新が滞っていましたが、死んだとかネタが尽きたとかではなく、実のところ意図的なものでした。

 さて、どこから書けばいいのか。といってももうずいぶん更新がないこのブログを見てる人も少ない、もしくはいないでしょうから気ままに、思いつくままに書いてみたいと思います。

 

 じつはいま、カクヨムに小説を書き、ゲンロンSF創作講座に参加しております。名倉編という名前で。*1

 ずっとこのブログには書かないようにしていたのですが、僕の趣味は小説を書くことです。ブログにそのことを書かなかった理由はいくつかあります。

  • ブログを書いてることがリアルの知り合いにバレたとき、小説を書いてることまではバレないようにするため
  • 作品を論じるにあたって、純粋に読み手としての立場で書きたかったため
  • 炎上などした際に簡単に切り離せるようにしておくため
  • 単純にハズい

 ……などなど。まぁ要らぬ心配が大多数を占めてるような気もしますが、元来心配性なので念には念を入れていた結果でした。

 ともかく僕はこのブログを書きつつ、裏で小説なども書いて過ごしていたわけです。

 さて、そんな自分にとって見逃せないイベントが二つありました。ゲンロンSF創作講座のスタートとカクヨムの誕生です。

 ぜひともどちらとも参加して腕を磨きたい。そう思ったとき、このブログはどうしようか、と思いました。

 いま思えばこれも杞憂に過ぎなかったわけですが、このブログで先入観持たれるのもなあ、とか、そのときはいろいろ考えて、一旦このブログはやめようと思いました。しばらくは「小説を書く」モードでいこう、と。

 

 そんなわけで結構長い間更新をストップし、カクヨムやSF創作講座に小説を書いていたわけですが、続けるうちにだんだんと、このブログや荻上を隠す必要性を感じなくなってきました。このブログにもそれほどヤバいことを書いていたわけではないし、それに、このブログでゲンロン批評再生塾の道場破りみたいなことをしていた関係で知り合った方達がSF創作講座にも参加していたりして、自分が荻上であることを知っている人が周囲にいたので、なおさら隠す意味が薄れていきました。

 そんなわけで、今日、この報告を書いてます、といった感じです。

 

 もちろんここにこうして報告する理由はそれだけではありません。

 当然ながら、自分の書いた作品をもっと読んでもらいたい、という気持ちがあります。それに、自分だけでなくSF創作講座にはいろいろ面白い方々がいて、面白い小説を書いてます。もっと読まれるべきだなあ、と思うわけですが、とはいえ、自分にできることはほとんどない。微力も微力。ほとんど無力と言っていいほどです。ただ、たまにはてなにログインしてみると、なぜかこのブログの読者となってくださる方が増えていたり(もちろん同時に減ってもいると思いますが、たしかこのブログの更新を止めたときよりは増えているはずです)、なんとなく「もったいないなあ」と思っていたわけです。

 ああ、それから、このブログの更新を止めてからしばらくしたタイミングで、仙田学さんの『ツルツルちゃん』をとりあげた本ブログの記事

q9q.hatenablog.com

  について、なんと、仙田学さんにツイッター上で言及して頂く、というものすんごいこともありました。仙田学先生、ほんとうにありがとうございました。

 

 

 さてさて、そんなわけで戻って参りました荻上

 今後このブログにどんな事を書いていくのか、そもそも更新していけるのか、まだ自分でもよくわかっていませんが、ひとまず、再開してみたいと思います。

 

 ではとりあえず自分の書いた小説や、SF創作講座でオススメの作品を紹介してみたいと思います。

 で、突然なんですが、最近うわさの「フリースタイルダンジョン」にハマっていまして*2、韻を踏みながら紹介していきたいと思います。*3

 とりあえずノリやすいように聞く音源はここに置いておきますね。ご自由にお使いください。(これじゃなくてもいいです)

 

  自分の書いた作品紹介、トリにもってくのもったいない

 つうかやらしい、やらしいつうか、痛覚あるならイタイタしい

 ちゅうわけでまずは紹介するぜ、招待するぜ、オレのカクリヨ

 カクヨムの中に隔離した、オレの脳領域、すべて総動員

 

カクヨムに書いてるもの

 まずはこれです。

kakuyomu.jp

 

 YO!『異セカイ系』、カクヨム連載している長編小説です。

 更新は、止まりがち、Because a SF講座ガチ、

 超忙しい、けれど、なんとか書いていきたいと思ってます。

 YO!ウェイヨー! もうええよ、言い訳ええから内容どう?

 タイトルに、書いとるね、異世界転生、プラス、セカイ系

 書いてる主人公、小説世界に飛ばされて、どうなる!?

 この作品、当ブログの、「実践編」という位置付け

 二次元との恋、興味ある奴は来い! 本で読め!

 ほんで嫁、寝取らず娶れ! ヘドめ! それなんてエロゲ? このロリコンどもめ!

 とモメ、つつ萌え、つつ惚れ、つっこめ、ずっとね、Good End、目指しつつ、読め!

 

 

 ハイ、というわけでございまして、この作品はこのブログにもたびたび書いてきた僕の個人的な問題意識を小説に落とし込んだ「実践編」です。

 自分の書いた小説世界に転生したあほんだらの物語。メインテーマは、自分の小説に書いたキャラクターとの恋、つまり「二次元との恋は可能なのか?」そして「書くことの暴力性」です。前者は特に下記の記事

q9q.hatenablog.com の問題意識を煮詰めたものですね。そして後者も、書かれた「モノ」を「ヒト」として恋愛対象に含めることで、逆に浮かび上がってくる暴力性を対象としています。

 また、これまでの展開ではあまり出せていませんが、今後は宇野常寛さんが「セカイ系」批判の文脈において使う「レイプファンタジー」をもうすこし一般化した形で提示しようと目論んでいます。

 

 

 

  では次はコレ

kakuyomu.jp

 筆舌に尽くし難い、『筆舌尽くし』は短編集、まずは

 してみろ一周、作品数、少ねぇから……読むの一瞬

 オススメは「強いトリック」、すごいコミック、思い出すはずだ

 ズバッと解決する探偵、は出ない短編、だけど安定

 

 

 ほいでは次

kakuyomu.jp

 机上の空論、批評の空論、空疎に嘯くその空想

 クソに塗れたクリティーク、批評空間のミミック

 初心者くん、送信さす、オリンパスに映るゴミッカス

 逃さず捉えよう、たゆまず Try on、テマティック批評、手間BigにGo!

 

 

 ちゅーわけで短編とか批評とかも書いてます。あとSF創作講座に出す梗概のボツ案も公開してます。よろしければ、そちらもどうぞ。

 

SF創作講座に書いたもの

 お次はおすぎ と見せかけてピーコ*4*5、ではなく、SF創作講座の課題に出したなかでオススメの一作です。

 SF創作講座ではまず梗概(あらすじ)を提出し、これは!というものが3、4作選出されます。選ばれた人は次回までに梗概に書いたストーリーを実作にし、さらに実作が講評されポイントが割り振られる、といったシステムです。

school.genron.co.jp

 本当なら選出されてからこのブログに「じつは荻上でした」と書いた方が格好良かったのですが、やはりそう簡単には行かず、未だ選出されておりません。ただし、ただしです。第2回課題「『変な世界』を設定せよ」の実作講評会では、高木刑さんの「チコとヨハンナの太陽」

school.genron.co.jp

が選出作の中でも10ポイントと大幅にリードしたのですが、なんと、この課題に提出した僕の実作*6が、「同じくらい面白かった」と講師の大森望さんに言って頂けたのです。

 というわけでいまのところ書いた実作の中で(といってもまだ2作しか出していませんが)いちばん自信のある作品が以下です。(「梗概」「内容に関するアピール」は飛ばして、「実作」から読んで頂けると幸いです)

 

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 YO!「真心眼シャッフル」、読みは「マシンガン シャッフル」つまり

 ふたり、の人間の入れ替わり Shuffle のマシンガン ズダダダダ!!!

 そのさままるであみだくじ、アリアドネ、ありがとね、I love him.

 お前が俺で? 俺がお前で? 傷付くところ、見たくない

 なに言ってんだ? って思うかもしれんが、大切なもの、それは Tender

 $10じゃない、やさしささ、ええいああ、君から、貰いなKiss!

 

 

 この作品もこのブログの「実践編」と言えそうです。このブログで度々書いてきた「やさしさ」についての問題意識、それと社会をどう繋ぐか考えながら書きました。

 

SF創作講座提出作品のオススメ

 さて、では他の受講生の方のオススメも紹介してみましょう。(勝手に紹介・オススメしてしまいますが、作者の方、気に入らなければ消しますので、その場合はお知らせください)

 

 まずは第2回課題で問答無用でトップに躍り出た、文句なしの一作です。

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 「チコとヨハンナの太陽」、文から感じるぜ体温

 Ride on! 「変な世界」、タイダル・ウェイヴのよに乗りこなしてく態度

 ガイドなしで付いて来い、ちょいグロテスクに美しいテクスト

 の快楽、Final! 天蓋をぶち抜くその展開、展望の、美、マジでBuono!

 

 

 

 次は同じく第2回課題への実作で、僕がかなり好きな作品です。 

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 「彼岸」? これイーガン? これってなんのこと、書いてあんの?

 もしかして? これもしかしてあれ? ヒューマン? もしくは、ユーモア?

 空想か? それか幻想か? あるいはまさか現実か?

 現実化? 幻術か? ポリシーに宿るポリティクス!

 

 

 

 お次は第一回課題実作のトップ。これもかなりクオリティ高いです。

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 「饒舌な屍肉」シニカルに皮肉、な文体、マジ アブンナイ

 Cool Guy、が暗い廃墟、クライムで喰らい、腐乱してく屍体

 雰囲気ある、クリーチャー、またはクリーナー、グリッチ・アートのように

 クリティカル! 狂いな? 周到に用意された、被写体の罠をシュート!

 

 

 

 選出されなかった梗概でも、実作がすごく面白いものもあります。つぎはそのひとつ、いってみましょう。

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 「ミンフンのみず」ってなんだ? ひとはミンフンのみに生きるにあらず

 からずーっと我慢してる、かかわらず、たまらず、固唾、を飲む、必ず

 ミンフンはエロい、コレ重要、重度の患者、のような衝動

 共同性に穿つ穴、贖う、みずを出す、二つの穴

 

 

 

  つぎも選出はされなかったが、間違いなく面白い一作です。

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 「オールドスクール・ブレイクス」、ゾンビは抜け出すグレイヴス

 フリークス、のようにおどろおどろしくはない、ゾンビ、人と見分けはつかない

 日々繰り返すゾンビ、を殺す毒ガスのような《独学者》

 あの子はゾンビ? なんかじゃ、ない! だとすればどうして? 謎解き明かす!

 

 

 

 ……なんとなくはじめてみましたが、やれば意外とできるものですね。

 といってももちろん、やはり拙いですが……。

 さて、ほかにも面白い作品はいくらでもあります。

 梗概だけでも面白い作品もあります。

 ぜひとも、SF創作講座、チェックしてみてください!

  それでは!

 

 

(執筆者:荻上a.k.a. 名倉編

*1:すこし前までは三三三三(みとりさんぞう)という名前でした。

*2:といってもあまりチェックできていないのですが……

*3:むろん、これはただの遊びではありません。言葉遊びです。というのも言葉遊びなのですが、というのも、僕は西尾維新が大好きでして、小説を書く上でもかなり影響を受けています。言葉遊びも多用していきたいと思っています。というわけでラップを学習することは言葉遊びの腕を磨くひとつの手段になると考えているわけです。

*4:古い

*5:ボーボボ

*6:梗概が選出されなくても実作を提出することは出来ます。僕は基本的に梗概と実作、全回全提出を目指しています。

弱肉強食バトルロイヤルブロッコリー

 一番許し難いのは中途半端さだなって思うわけだよ。

 「所詮この世は弱肉強食」って感じで暴力もなにもかも肯定してしまえるなら自分が他人にふるう暴力や有形無形の加害、罵詈雑言にしたってまぁなんとなく、共感はできなくても理屈はわかる。でもそうじゃない。単にいくじがないだけだから筋が通っていない、深く突き詰めるほど理屈が通らなくなって分からなくなって最後には投げ出す。いや、投げ出すこと自体はいい、それもまた弱肉強食的な態度であってそれを貫き通せる人間ならなるほどとは思うよ。でもそれでもない。一体なんなんだ。

 わかんねぇ。

 なにがって、まぁ2chとかまとめサイトとかそういうとこにいるそういうやつですよ例によって例の如く。

 弱肉強食はいいよ?

 誰をどんな作品をどんな風に馬鹿にしたってかまわない、差別なんて概念すらない、不倫も剽窃もなにもかも自由だ。一体この自由をまともに受け止められる人間がこの世の中にどれだけいるだろうか?

 要するに、中途半端なんだよ、彼らは。

 自分の気に入らない人間や作品を馬鹿にするわりにはあまりにもナイーヴ、耐えられない、すこしでも。不倫を許すことはできない、剽窃を許すことはできない、悪を許すことができない、正義の執行者。しかし悪ってなんだ?どういうつもりで言ってるのかなああれは?自分のしてきたことを、自分が悪であることを忘れたんだろうか?いや、もちろん世の中には悪じゃない人間だっている。他人を傷付ける言葉を吐かない、批判をする時も相手を気遣うことのできる人間ってのはいるし何人か知ってる。でもそういう人間でもない。あれほんと不思議なんだけどあの人たちって自分は悪だって自覚はあるのかな?

 小悪党なら悪じゃないとでも思ってるんだろうか?いやまさか、自分が悪であることよりも小悪党であることを信じてなさそうだ。もちろん小悪党なんだが。いやでも実際そっちの方がいいよ、マシだよ。まだ自分のことを大悪党だと思ってる方が気持ちがいいよ。でもそれですらない。どこにいるんだ本当に?

 

 例えばだ。

 「批判は必要だろ」って話はある。特に作品に対して、批判が無いとその界隈は腐るという根拠のよくわからない話は腐るほどある。

 それを海女さんの萌えキャラやのうりんポスターや男根のメタファーに適用してみよう。「批判は必要だ」。ほら、あまりにも簡単なんだ。ほんのすこし手を動かすだけで彼らの嫌う種類の「余計な」批判まで正当化できる。

 彼らは批判する側に立ってる時はかなり調子に乗って弱肉強食的だからいくらでも材料はある。彼らは嫌いな作品はとことん貶す、それでなにが悪いんだって思ってる。じゃあポルノを見るのが嫌いな女性が二次元の萌え絵を批判してなにが悪いんだ?

 なんで彼らの論理がこれほど脆弱なのかっていうとまぁ単に頭が悪いんだろうけど、もちろん「彼ら」がひとりの人間じゃないってこともある。とはいえ、最初はそうでもネットに入り浸るうちにネット的な価値観を内面化してしまって、ネットの矛盾をひとりで上演しちゃってるような人間はいくらでもいるがな。「ネットにいるのは一人の人間じゃない」と言って互いの矛盾を誤魔化し合うせいで検証もできないから、矛盾を取り込みやすい場であるわけだ。もちろん自分の頭が良ければそれは避けられる。避けられる弾だ。が、避けられない。

 

 それは論理の不徹底の一形態だ。

 もちろん彼らに限った話じゃない。そもそも論理が徹底されてる場なんてほとんどどこにもない。にもかかわらず「論理」「論理」と口々に言ってる奴はまぁ僕も含めて大半は詐欺師だ。が、そんなことはどうでもいい。

 問題は、論理はわりに簡単だってことだ。そりゃ難しい問題はいくらでもあるが、大抵の問題は簡単に片付く。問題はそれを受け入れる心の準備はあるか?ってことだ。問題が多いな。

 もちろん論理を徹底すれば価値判断は消え失せ良いも悪いもなくなる。それ自体は簡単だ。そこにたどり着くいろんな道がある。短い道が。でも全面的にそれを受け入れられる人間はあまりいない。受け入れられるつもりでもどこかでチョンボをする。せざるをえない。参加せざるをえない。

 不倫を許せない、剽窃を許せない、悪を許せない、劣を許せない、劣があると思ってる、信じてる、劣を、だから、劣を悪を批判するのはいいことだと無邪気に本当に信じてるのか?信じ難いな。流石にそんなに馬鹿なのか?

 ただともかく彼らにおいて論理が徹底されることはない、わりに他人には論理を求める、中途半端なんだ。馬鹿が付くほど。

 

 彼らを正当化する道はもちろんある。

 弱肉強食だ。

 だがもちろん、それを持ち出せば彼らは器が小さいだけの糞しょうもない人間になる。弱肉強食だっつってんのに他者を糾弾することなんかできるはずないだろっつっても彼らはわからない、んか?んだろうな、きっと。弱肉強食の世界でそれでも自分は「正しい」とか相手は「間違ってる」とか批判する「権利」とか考えてるんだダサいったらない。弱肉強食という描像の中での彼らの位置は本当に中途半端でダサい、というより痛々しい、なんというんだろう、正確に自己認識できていないというか、なんか勘違いしちゃってる痛々しさがある。誰もがする勘違いとはすこしズレたそれ。

 まるで政府があると信じてる羊だ。犬とかライオンとか虎とかに咬まれてる最中も「政府が~政府が~」と言い続ける。助けを求める声なのか呪う声なのかはわからないけど、政府なんて無いんだと彼らに教えてやらないとこっちまで恥ずかしくなるので困る。もし本当に弱肉強食なら。の話。

 

 弱肉強食でないなら、要するに俺達は保護されてるってことだ。保護されつつ弱肉強食を装って弱肉強食のルールのままに他者を傷付けてるってのはもちろん甘えだ。ニートの内弁慶な暴力・罵言に似てる。

 どっちを選ぶかって話。弱肉強食か、そうじゃないか。前者なら傷付けていい代わり傷付けられるし、断罪できない、善悪も優劣もない。後者なら保護があり、その前提のもとに善悪や優劣がとりあえずゆるやかに仮構されてる、むろん、信じなくてもいい、その代わりそこはもう弱肉強食じゃないんだから、他人に気遣わなければならない。ちゃんとそうやって生きてる奴はいる。前者は少ないだろうが、後者はいる。人を傷付けないように生きる人。つまり可能だ。できないことじゃないってことだ。じゃあ、やらないのは当人の甘えに過ぎない。簡単な話。

 

  いつまでもわがままを言うのは可能だ。実際それがいま。だからこうなってる。彼らってる。だが、そういうのを乱す言葉がないわけじゃない。というよりそれはそこらじゅうに落ちてる、彼らが落とした、彼らはよく落とす、矛盾を、ゴミのように、実際ゴミだ。批判はすべきだから二次元も批判されるべきだし、嫌悪感を根拠に叩いたって構わない、表現の自由なんてただ便利だから使ってるだけで誰も信じてないなら無視していい、それでなにが悪い?不倫が何故悪い?人を傷付けるから?正解だ、では普段のあれはなんだろう?不思議だよね。とどんなところからでも矛盾がどばどば流れ出てるので拾い放題汲み放題。こんなのは一例にすぎないし、望めばいくらでも出てくる。

 当たり前の話だが、人間がいなければ善悪もない。善悪は人間に先んじてあるわけじゃない。どうしてそうなるんだろうな?人間がなにか特別なんだろうか、ってまぁ特別で、人間は楽しんだり傷ついたりする、根拠はそれだけだ。そこが価値判断の源泉であり論理とは関係ない。だから、人が傷付いたりすることを考えに入れてない善悪観や正義感なんてのは都合のいい嘘に過ぎない。善悪とか正義とかってのは、言い換えれば「傷付けるかどうか」それでしかありえない、ありようがない。

 つまりどれだけ御託並べようが傷付けたらそれまで、正義とかアホらしい、どんな顔して信じてんだよアホかって話で、もちろん本当は信じてるわけじゃないって言い訳は受け付けるし実際そうなんだろう。やりたいからやってるだけ。弱肉強食だ。ホラ回ってきた。ホラが回り回ってきた。

 

  どこまででもこんなことは続けられる。

 彼らが愚かで甘えん坊の中途半端である限り。

 

 

 (執筆:ラック荻上

 

政治音痴が政治について語ってみる

 前に似たような記事を書いたような気もしますが、ともかく、政治について最近ふと思ったことを書いてみたいと思います。

 おおまかには、「党派性」についての話です。

 

党派性の起源

 僕は党派性というものが嫌いです。いろいろなしがらみを抜きにすれば、あまり好きな人はいないんじゃないでしょうか。しかしにもかかわらず、党派性はあらゆる場面でついて回ります。特に政治においては。

 党派性の何が問題と言えば当然、発言内容より発言者やその所属する組織によって受け止め方/受け止められ方が左右されてしまうことでしょう。簡単にいえば「敵か味方か」という思考に沿ってすべてが受け止められるので、同じ発言でも発言者や陣営が違えば全く違った意味に受け止められてしまう。これは論理的には単なる不正です。

 一方で、特に政治においては仕方がない側面もある。というのも日本は間接民主制を採用していますから、有権者が政治のすべてをコントロールすることは不可能で、必ず操作不可能な部分が生まれます。この操作不可能な部分を少なくとも予測可能な範囲に収めようとすれば、使える情報は党派的な情報くらいしかない。つまり「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予測が可能な余白がどうしても生まれてしまうわけですね。こうした党派情報をもとにした予測を基準に行動すれば、もちろんまったく同じ発言に対して発言者や陣営によって全く違った意味に受け取ることも自然と出てきます。その意味では理に適っているわけですね、党派性は。

 言ってしまえば、間接民主制が党派性の一つの起源だと考えられるわけですね。もちろん他にもあるのでしょうが。

 

好き嫌いの政治

 党派性はある程度仕方のない問題であることが分かりましたが、一方で放っておくわけにもいきません。要するにそれは、相手のことを好きか嫌いかで相手の言っていることを好意的に解釈するか、悪意を以って解釈するか決めてしまい、あまつさえそれをもとに批判や擁護などを行う態度に結びつきかねないわけですから。あまりにも子供じみています。

 それにもちろん論理的にも問題です。いくら「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予測を立ててもそれは予測に過ぎません。たいした根拠はないし、対立するグループと共有可能な認識ともならないでしょう。とすればただの水かけ論しか生まないし、その単なる予測をもとに実際に行動に移せばダブルスタンダードの誹りを免れ得ません。

 いま政治について起こっていることの大半は、結局はそれだけのことなのかもしれません。単に互いに党派性を発揮して、相手のいうことをわざと悪く解釈し、大袈裟に騒ぎ立てる、それで問題だけやけに大きく見えているだけなのかもしれません。

 結構無益ですよね。

 一方で党派性を無くすことは可能かと言えば、そりゃ原理的には可能でしょうが、実現可能性はほぼ無いと言えるでしょう。それはつまり「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予想を(いくらできそうでも)一切しないことであり、ために結局どの局面でも「判断」と呼べるものは何もできないでしょう。判断材料が少な過ぎるからです。*1

 結局のところ無党派性というのは単に政治無関心に他ならない、ということにほぼなりそうです。

 ではどうすればいいのか?

 もちろんこの大きな問題に解決を付けるには僕という人間はあまりに矮小ですが、一つの案は出せるかもしれません。

 

政治的糞DDの提案

 「糞DD」という言葉がアイドルファン界隈にあるそうです。

 「DD」とは「誰でも大好き」の略で、構成員多数のアイドルグループがほぼ前提となっている現代において特定の「推しメンバー」を決めずメンバー全員グループ全体を愛するタイプのファンを指し、これを侮蔑する意味を込めて「糞DD」と呼ばれているそうです。

 まず個人的にこの「DD」という態度にはものすごく共感を覚えます。それが「糞DD」と侮蔑されることも含めて、なにか奇妙な居心地の良さがありますよね。

 そんなことはともかく、党派性です。つまり、党派性を一つ持つのではなく、一つも持たないのでもなく、いくつも持ってしまえばいいのではないか? 党派性の問題とは要するに偏りの問題ですが、多頭は無頭、複数に平等に偏れば、それはつまり偏りがないのと同じです。

 実際には難しいかもしれません。それはつまり、今持っていない党派性を手に入れるということですから。今敵視している陣営も含めて「誰でも大好き」になることの前には大きなハードルがあることでしょう。

 でもそれが一つの「成熟」ではないでしょうか?

 いい加減個人的な「好き嫌い」は脱却して、好き嫌いを超えて政治を見る目を眼窩にそっと挿し入れるべきではないでしょうか? もちろん「糞DD」よりうまくやれるというならそれに越したことはありません、多党派性ではなく本当に無党派性を手に入れられるなら、「誰でも大好き」ではなく「誰のことも好きではない」になれるなら(そしてその上で「判断」と呼べるものを実行できるなら)そちらの方が好ましいことは確かでしょう。とにかく、無党派か多党派か、どちらかの方が一つの党派性より幾分マシだと思うのです。

 

 最後に、これは意識的に行おうとしなければ行えることではないでしょう。

 とても人工的な操作です。

 こういう人工的な操作によって判断を矯正できるのが人間の理性の強みだと思っています。

 単一の予測ではなく複数の予測を並列に実行してそれぞれを互いに惑乱させ、最後まで共存させること。それは政治に限らず可能性に関する思考一般に適用できるものではないかなと考えています。

 

 

 

(執筆:政治はからきし荻上3)

*1:逆にいえば我々の「判断」の多くは曖昧な予想を判断材料に多く採用した、論理的にはまったく不正なものが大半だと言えるでしょう。

男根のメタファーの嫌な思いの萌えの以下略の絶倫(ノーリン)のしぇしぇしぇのインフィニット・ストラトスのMbleMのディスコの気持ちのリア充の2chの読者の決断主義の2chの龍騎のきゅうべえの矢口のお前の憎しみはおれの憎しみでお前に向かってるぞ

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 俺はこの言葉をコピペとしてしか知らないけど、俺にとってこの言葉こそが2ちゃんねるの象徴だったし今もそうだ。

 今日は(この「今日」は原理上どの「今日」でもありうるのだが)順序立てずにやってみよう。論理は時間的な形ではなく空間的な形をしていると思う。

 

 「男根のメタファー」の話があった。

 ぼくはわりと好き。ああいう読み方。読むことの無限性を突き付けられてるみたい。悪意がなければ。悪意がなければよかったのにな。残念だな。

 しかし本当に悪意だったのか?悪いだったのか?彼女は少なくともとても抑制して書いている。あからさまに「やめろ」とは言っていない僕の見る限り。

 提示しよう。楽器が男根として読み替えられるように、彼女の抑制された言葉も悪意の籠った罵言に読み替えられる。「フェミニズム」のイメージを通して。それは言語一般の機能だったか?

 まず*1男根のメタファーが唯一の読みでないことを確認しておこう。それはあまたある解釈の一つで、そのように読まれてもよかった、読まれなくてもよかった。西洋の視線は絶対ではない。どちらが優先されてもいい。

 すべてが相対化され自由な世界で特定の読みを特権化し「唯一の読み」を僭称させてしまうのはなにより欲望だと思うんだよね。

 

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 どうでもいいならなぜわざわざ傷付けるんだろうか?かまって欲しいかのように?

 しかし問題とされているのはむしろ、傷付けようとしていないのに傷付けてしまうこと、傷付けられてしまうこと、だったはずだ。

 

「(え)―――――――ッ」

「㋓ロ同人 デビュー」

「なにそれ」

「そ… そんな……」「いくら なんでも それは……」

「大丈夫 です」

「だいじょーぶ だいじょーぶ」

「うわぁ」

「まずは―― あのね――」

「アニメ系専学か 美大の漫研アニ研に入ってだなー 仲間を探せ」「微妙に「ボクはホントはエロっぽい のも描いてみたいんだヨ」的な オーラ出してる奴を探せ」

「おすすめは水着の女の子がアイス棒不自然にくわえてる絵描いてる奴」「絶対いるから」

 

  ☹*2*3

  ようするにこういうことっしょ?

 

 海女さんのイラストにせよのうりんのイラストにせよ悪意はないけど人を傷付ける。それは事実だろ。ところで少なくとも後者は「童顔ナイスバディガール」ではない単なる「ナイスバディガール」のように見えるが、それはつまり日本的なロリコンとは違う西洋的に健全なものとしても解釈できるがそんなことはよか。事実は「男根のメタファー」という解釈もまた誰かを傷付けるということだ。しかもこっちはおそらく悪意ないしは害意がある?どうだろうね

 

 根本的な疑文はどのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?

 人を傷付けてる奴なら傷付けていい?ソレスタルビーイング私刑?姿形嗜好による死刑?悪意がないなら傷付けていい?しかし男根のメタファーの解釈や海女さんとのうりんへの女性側からの非難は悪意の無い行動に悪意を付与する。自覚を生む。相手が傷付くことを自覚して行われる行為に悪意があるとするなら。

 

 ISは思っていることだろう。

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 ISに乗じてイスラム教を叩く者達は思っていることだろう。

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 どのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?

  空爆してる奴なら傷付けていいか?テロリストなら傷付けていいか?テロリストと同類なら傷付けていいか?他人の宗教を攻撃する奴なら傷付けていいか?

 傷付けていいか?

 傷付けるぞ。

 

 ボクは募金しない、僕はこう思っていることだろう。

 

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 このようなロジックに支えられた資本主義国家の人間は、テロリズムの同様のロジックを批判しうるか?夢を見る?

 我らの無力感はココに個々に起因する。異なる価値観/キモい/bakha

 

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

  俺は嫌な思いしてないからこの記事を書く。唯物論。同系の模型。

  エムブレム/炎上/バカッター/バックアタック/敵と味方/安倍/Abe A GOGO/ワカンナイ

 それはリアルでの繋がりがないから ネットにおける多くの態度は畢竟リアルにおける関係性を特権化する。自爆。ヌクモリティは幻想ティ。しってる。お前ら自身の手によってネットにおける関係性はゴミ同然の代物に成り下がる。

  キモいなら傷付けていい。オタクなら傷付けていい。にわかなら傷付けていい。萌え豚なら傷付けていい。硬派厨なら傷付けていい。弱者なら強者を?強者なら弱者を?弱悪強罰強悪弱罰ニーチェへの手紙。届け/傷付けさせろ。

 

  みんな同じロジックで生きている。

 

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 男根のメタファー。この文が。この悪意が。もしくは無関心が。傷付けることそのものが。飲み込まれてるぞ?

 リアルでの繋がりなんか関係ねぇよリアルでも傷付けるし傷付けられたから傷付け返してるんだろ?なに被害者面視点のリア充ども悪意の無い悪意だってあるんだぜお前のせいだ

 

 暴力をすべて「暴力」という言葉に収束させて個々の差異を無くすのは明らかに暴力だ。暴力の中にも程度とか差異ってものがある。ホントに?リアル?ガチれば余裕だろ、暴力の中にも程度とか差異ってものがあってある暴力は許される。どのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?

 

 俺には誰かを傷付ける自由がある

 って信じてるやーつ。2chでよく見た批評。読者には誰かを傷付ける権利がある作者には誰かを傷付ける権利は無い。お客様は神様。貧乏神だって得意げに言ってる2chの貧乏神の

 

 いっさいは許されている。

 空飛ぶスパゲッティもんすたあ。笑うポルノ。笑え、他人の宗教を、笑え。大義名分の御旗のもとに。ああ~マロニエの~、嘔吐。子供を教育しろ。どのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?俺は被害者。『僕は悪くない』

 矢口真里よくやった。メシウマ。他人の幸福でメシがうまい。誰かの幸福は誰かの不幸だから。どのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?お前のメシウマで俺のメシウマがうまい。うまいうまい。あーうまいうまい。はいはいうまいうまい。うまいから。峯岸ィ!指原ィ!よくやったよお前ら。褒めて遣わす。坊主!亜豆美保人を傷付けていいならなにやったっていいぜ!ババ抜きでな!

 オタク相手ならどれだけ殴ってもいいからさ、オタクは誰をどれだけ殴ってもいいんだよグリーンダヨ!知らねーよお前の奨学金なんか、悪意がすべての一番なんだ。俺はそれを学んだぜ、学校のありが登校。団塊のメタファー。階段の踊り場。バレンタインクリスマスポルノ。傷付いてる人だっているんですよ!どのような条件が揃えば人を傷付けてもよいか?もちろん、メタファーとはメタファーのメタファーだ。

 加害者であることを意識しろよお前だよお前これ読んでるお前お前のことを言ってる加害者の俺のおれのオレの憎しみはお前の憎しみで俺に向かってるからな

 許せサスケ

 傷付け!傷付く奴が無敵だ。傷付くことで他人の行為に悪意を忍び込ませて傷付けて禁止してbanできる。バンバン!弱者ほど強者。些細なことで傷付け!「些細」という言葉に傷付け!その限りでお前は無敵だ俺が保証する。お前が信じる俺を信じろ!シンジ!掟ポルシェ!傷付かれることに傷付け!お前の敵の

 

 お前ら非難するお前ら。

 鏡よ鏡よ鏡さん この世でいちばん鏡なのは鏡?

 ナニよナニよナニさん この世でいちばんナニなのはナニ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 蛇足だ、すべて。すべて説明できる。

 

俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

 

 おれたちって人を傷付けるために生まれてきたんだろ?*4

 

 

 

 

 

 

(執筆:ブラック荻上はこの記事を定期的に改変しなかったぜ)

*1:この時間的な接続詞は必要ない

*2:上記は平野耕太『以下略』第十四話「暴走機関車」p.109からの引用。筆者の手元にある本書には上記のセリフを反映していると思われるあきまん氏の手によるアイス棒をくわえた栗原麻紀(本作のヒロイン、かわいい、眼鏡っ子)のイラストが推薦文とともに載せられた帯がついている。(水着姿ではない、残念!)

*3:余談だが第十四話「暴走機関車」では本町店長(イケメンダメ人間)のアナル拡張に関心を寄せる栗原麻紀が描かれる。マキ…おそろしい子ッ。つまり女性側から男性側への性的な消費の形態までもが描かれる。加えて『げんしけん 二代目』などにも見られる腐女子という記号の消費は性的ではないにせよ、「性的な消費」の消費であることが勘案されるべきであろう。

*4:俺は嫌な思いしてないから
それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない

欲望というリソースについて

 今回は僕に似合わず自己啓発的なことを書いてみたいと思います。

 最近やけに批評(というつもりの)記事が多かったので、もうちょっと書くことのヴァリエーションを増やさないとなと前々から思っていたのです。

 といってもやることはいつもとさして変わりません。いつも通りちょっとした思いつきをもとに牽強付会、それらしいようなそれらしくないようなことをつらつらと書き連ねるのみです。

 いつも通り「誤る」ことを恐れずに書きますのでそのつもりで。まぁ自己啓発というものは過程の正しさより結果的にプラスの感情に繋がることが重視されるものというのが僕の印象で、多分きっとそういうものになるでしょう。

 今回は「欲望」の話です。

 

ワイルドカードの欲望

 欲望は常にズラされる、というようなことはよく言われることで、実際もっともなことと言えるでしょう。

 欲望の対象を知っていることは欲望の条件ではありません。僕達が「自分はこれこれを欲望している」というとき、既にしてなにか不自然で余計な仮定が含まれています。

 「欲望があるなら、その対象があるはずだ」と思ってしまう。

 しかし例えば、これまでミルクを飲んだことのない赤ん坊が泣き叫び、ミルクを飲ませてもらって満足げに泣き止んで笑ったとき、赤ん坊は予め「ミルク」の存在を知っていたと言えるでしょうか? あるいは「空腹」という概念についてさえも?

 今から考えれば世界は欲望の対象となりうるものであふれているのに、それらについて一つも知らずに僕らは生まれてくるわけで、とすれば、僕達はそれがなにか知らずにただ求める、というようなことは往々にしてある。

 ここからさらに推し進めて「欲望にはそもそも対象がない」と言ってみることが可能でしょう。つねに「何か」をそれがなんなのか知らずに求めており、満足とはこの絶え間ない欲望が一時的に忘却される瞬間であると。

 考えてみれば当たり前のことです。世界には欲望の対象となりうるものが膨大にあるのに、生まれる前からその情報をいちいち蓄えることは不可能です。欲望が多彩でありうるためには、ひとまず最初は、対象が決まっていてはならない。どんな欲望にもなれる(それゆえどんな欲望でもない)「*」(ワイルドカード)の欲望が様々な欲望の条件と言えるでしょう。

 

欲望の対象が決まる瞬間

 こうした考え方はしかし絶望的です。対象の無い欲望を一体どうやって満たせばいいのでしょう? 欲望は常に満たされることなく湧き続け、僕達にできることはそれを一時せき止めることで「満足」する以外にない、ということになってしまう。

 そして僕達はきっと、このどうしようもない「*の欲望」が一時止まったことを見てとって、「ああ、僕が求めていたのはこれだったのか」と事後的に欲望の対象を認定することでしょう。

 こうして「欲望は常にズラされる」わけです。

 そもそも対象がないものに対象を認定するから「ズレ」が生まれる。余計に満たされない。ただ一時的に忘れるだけ。かといって「*の欲望」をそのままにしておくわけにもいかないでしょう。「ズレ」があろうがなんだろうが、とにかく対象を決めなければ忘れることさえできない。

 なるほどどんどん絶望的です。

 

欲望のモデル化

 ここにきて「自分がなにを求めているのかを知り、それを満たそうとする」戦略自体が間違っていたことを認めざるをえません。知るもなにも、僕達はなにも求めておらず、ただ求めていたわけですから。

 ではどうすればいいか?

 それを探るために欲望を簡単にモデル化してみましょう。

 

 まず「*の欲望」を定期的に鳴るアラームだとします。

 このアラームが鳴るたび僕達はどうしようもなく対象の無い「飢え」に苛まれる。

 このアラームを一時的に一定期間止めてくれるものが一般に「欲望の対象」と考えられている様々なもので、これらを「欲望の対象」であると錯誤することで、僕達はこれらを能動的に求め、結果的にアラームを止める手段を日々確保しています。

 

 至極簡単には、このようにモデル化できるでしょう。

 ここで対象の無い「飢え」に苛まれる時間を最小限化することがひとまずの目標として考えられます。そのために考えられる手段は二つ。

 

 1.アラームを鳴らす装置を壊してしまうこと

 2.「欲望の対象」を常に与え続けること

 

 手段1が考えるだに恐ろしげなものであることは恐らく誰にとっても明らかでしょう。それはつまりなにも欲望出来なくなってしまうことであり、そうなってしまえば、もはやどんな行動であれ動作であれ行う理由を失くしてしまい、多分なにもしなくなってしまいます。

 となればやはり手段2しかないのか……。

 ところで上記の欲望のモデルでは考え落としているというか少なくとも表現されていないものがあります。僕達が日々確かに感じている「快楽」や「幸福感」といった類いのものです。

 現在のモデルでは「欲望」と「快楽」「幸福感」は直接には関係しないものということになる。しかし一方で「欲望の対象」と「快楽」「幸福感」を起こすなんらかのものが重なりやすいことは恐らく事実だと観察できる。とすると、「欲望の対象」が一時的にではあれアラームを止めうるのは、「快楽」「幸福感」の効用によってではないか?

 例えばアラームを目覚まし時計を止めるようにスイッチを切るのではなく、別のアラームを一時響かせることで一時的に聞こえなくさせ、忘れさせると考えてみれば。

 なるほど悪くなさそうです。

 

 常に鳴り響く欲望のアラームと、

 それを一時妨害する快楽と幸福感のアラーム。

 どちらが聞こえているかが重要だとすれば、もちろんやることは相も変わらず「快楽」「幸福感」の原因=「欲望の対象」を与え続けることなのですが、その戦略に微妙な違いが出てきそうです。

 

欲望という手段・リソース

 欲望を満たそうとすることはなるほど絶望的です。対象が無い限りそれが満たされることもない。

 しかし欲望の無対象性(それゆえ多対象性)は利用することもできるのではないでしょうか? なんでもないために、なんにでもなることができる。つまり、

 僕達は「自分がなにを求めているのかを知ろうとする」ことで「欲望の対象」を限定し小さくしていくよりも、

 むしろ「自分がなにを求めているのかを捏造する」ことで「欲望の対象」を拡張し多数的にしていくほうがずっといい、

 ように僕には思えます。戦略的に、そっちではないかと。

 従来の考え方では「欲望の対象」を増やすことは即ち「飢え」の可能性を広げてしまうことであり危険でした。しかし欲望が無対象だとすれば、それがズレる先がいくら増えたところでアラームは常に一つです。リスクが消える。

 また「欲望が無くなれば、多分なにもしなくなる」とも書きました。つまり欲望は行動を促すガソリンみたいなもので、行動を起こすための大切なリソースだと考えることが可能です。

 欲望を満たすべき目的ではなく、別の行動を起こすための手段・リソースとして考えることで、「欲望の対象」を多数化するメリットが見えてきます。

 

人生の目的

 欲望を満たすことを目的にしないとすれば、ではなにを目的にすればいいのか? 言い換えれば、欲望というガソリンを使ってなにを達成しようとするべきなのか?

 それについては、人それぞれ、としか言いようがありません。

 まさかすべての人のすべての人生の目的を僕などが規定できるとはとても思えません。各々に人生の目的があり、それを果たすために欲望というリソースあるいは「欲望というリソース」という考え方が利用できる、少なくともそう言うことができる、ということです。

 一方でしかし、すべてとは言わなくとも一部にちょっとした指針らしきものは示せるかもしれません。つまり、欲望が目的となりえないとすれば、残っているのは「快楽」「幸福感」ではないか?

 「快楽」「幸福感」を日々得るために、欲望というリソースを利用すればいい、ということは言えそうです。こう単純化してしまうと食欲や性欲のような簡単な「快楽」ばかりを求め続けることを推奨してしまいそうで危うげですが、単純な「快楽」は飽きが来るでしょうし、なによりサスティナビリティがありません。往々にして生活の持続を脅かすのが欲望の問題であって、そのためにこそ欲望を多数化することでうまく乗りこなすことが必要だと言えるでしょう。

 

まとめ

 欲望は「*の欲望」であるために、どの「欲望の対象」で「満足」させても構いません。だから「欲望の対象」を増やすことは武器を増やすことに等しいと言えるでしょう。

 もちろん空腹時に別の欲望――例えば睡眠欲――を「満足」させても無意味ですが……いや、案外悪くないかもしれませんね。もっとも本当にそれを続けていたら餓死するだけなので、やはりサスティナビリティを意識して欲望を運用することが重要です。

 結局のところをまとめれば。欲望を目的ではなく行動するための手段・リソースとして利用しようということと、欲望を多数化しよう=いろんなことに興味を持って、楽しもうということですね。なんだか当たり前です。

 でもきっと、自己啓発とはそういうものでしょう。一般的に自明に良いと思われていることに自分を向けるために繰り返されるある種の言い訳の群れ。多少シニカル過ぎるような気もしますが、でもそれで悪いことは特にありません。言い訳をしてでもやりたい・やらなければならないことがあるなら言い訳をすればいいわけです。(ダジャレです)

 

 そうそう、書き忘れたことがありました。

 「欲望があるなら、その対象があるはずだ」と思ってしまうと書きましたが、それはきっと僕達が社会化されているからでしょう。

 すこし前に読んだウィトゲンシュタインの『青色本』でも、すこし似た話が出てきました。欲望に対象を求めてしまうのは、恐らく文法的な誘導による錯誤なのでしょう。

 また例えば数学者が感じる数学に対する愉悦を、多くの人は「欲望」としてうまく理解できない。それはやはり「欲望」に対する先入観によるものでしょう。でも「*の欲望」という考え方を通れば、少なくともそれがありうることは理解できる筈です。

 つまり社会化によって僕達の「欲望の対象」は大きく制限され規定されてしまっている。無論悪いことばかりではありませんが、そこから抜け出すこともまた必要でしょう。

 社会的な文脈ではなく自分自身の感覚・感性を信じて、自分なりの「欲望の対象」を拡張していくこと、人生をよりよくするために必要なのはそういうことなのかもしれません。

 

 

 (執筆:荻上2)

批評について本気出して考えてみた

 これまで本気を出していなかったというわけではもちろんないし、僕の本気などたかが知れていますが、一度、まぁ、自分の本来の思考に沿ってそろそろ考えてみようかなと思い書いてみます。

 というのも僕はもともと理系出身で、思考の傾向もそっち寄りでして、「理系文系の区別はナンセンス」という方もいらっしゃいますが、理系の人間が人文知に触れてみるとこれまでになかった種類の面白さがある、なんて状況に出くわしますと、やっぱりあるのではないかと、いい意味で。

 で、これまでは一応自分なりに文系的に、順応して考えようとしていたわけです。実際それで楽しかったしこれからも続けるつもりですが、別の方法があることもまた事実。

 といって、僕自身よっぽど理系的かと言えばそうでもなく、もともとかなり中途半端な人間ですから、なにか微妙な結果が出ることうけあいですが(もしかすると結果と言えるものはなにも出ないかもしれませんが)ひとまず、やってみましょう。

 

Step1.昔の自分を思い出す

 まずはいまよりはずっと理系的だったと思われる昔の自分について思い出してみることで<彼>を再び僕の中に召喚してみましょう。

 僕はその昔、わりと単純で素朴な唯物論者でした。文系領域で「唯物論」がどのように用いられているかすこし知ったいまでは「あまりに深みが無いなぁ」と思えるほど単純に素朴な唯物論者でした。

 そんな自分が「批評」というものをどう見ていたかと言えば、まぁ「軽蔑」が大半だったと言わざるを得ないでしょう。一方で昔から小説は好きでしたので「なにか今の自分には計り知れない「なにか」があるのかもしれない」という畏怖・畏敬に似た感情も一部にはあったような気がします。

 そんな<自分>に今から戻ります。

 

Step2.「評価」型批評についての軽蔑

 これは今でもほとんど変わらないことだが、俺は「評価」というものを殆ど軽蔑していた。

 なにしろどう考えても評価をするための基準は恣意的にならざるを得ないからだ。要するに結局は個人の「好み」でエイヤッと決めるしかないし、従って極めて主観的な、客観的にはなりえない「評価」しかありえない。

 価値判断は必ず根拠なしに行われる。ここで「自分の感情を根拠にしている」とか「社会的な背景を根拠にしている」と考えてはならない。自分の感情とか社会的な背景といったものを評価の根拠とする根拠が無いからだ。それはいつでも別様でありうる。別のものを採用してもよかったし、別のものを採用すれば結論が変わってしまう以上、その結論に論理的・客観的な信頼は置きようが無い。

 一方で「評価」「批評」という言葉はそのあるはずの無い論理性・客観性・一般性を装っている。その不正が非常に腹立たしい。氏ね。あと評価主体を省略しようとすんな。「あの作品はつまらない」じゃなくて「あの作品は俺にとってつまらなかった」だろうが。それ絶対わざとやってるだろ、隠蔽しようとすんなよ個人的・主観的であることを。

 要するにさ、不可能なんだよ「評価」なんて。「批評」も「批判」も*1

 可能だと思ってる奴は勘違いしてるんだ、論理とか、世界のありようといったものを。ある種の宗教だよ。

 そもそも科学的な見方とはある個別の現象とある個別の現象の中に共通性を見出して点と点を線でつなぐように関数にすることだろ。一面を言えば。法則が個別の現象より上位にあるってのは理想的にはそうだが、実際には(実験的には)逆だよ。発見した法則がある個別の現象を説明できなければ、法則の方が間違ってるんだ。修正しなければならないのは個々の現象ではなく法則・理論の方だ。当たり前だろ。

 お前がどれだけ馬鹿馬鹿しいと思おうがワンピースで感動した奴の感動は確かに現象としてあったし、それを否定できる法則や理論なんてものは存在しないんだよ。むしろその感動を通れる関数、説明できる理論こそが必要でそれ以外は端的に間違ってるんだ。いい加減気付けアホ。そもそも理系に文系がまだ「隙間の神」として守れてる感じなのはクオリアとかコギトとかだろ? ワンピースへの感動とかまさにそれじゃん。それ否定してどうすんの。単純に戦略的に間違ってるよ。自殺だ自殺。

 

 みたいな話があって、ある程度はいまの僕も同意なわけです。

 当時の僕はそれが批評のすべてだと思っていました。要するに論理もわからんアホが勘違い披歴してるだけのことだと。

 しかし批評について探ってみればみるほど、むしろ僕はその界隈での蓄積に激しく頷かざるを得ないことが往々にしてあったのでした。

 

Step3.文系と理系の相性の良さ

 理系と文系が対立するなんて思ってる奴は単純に分かってないだけでさ、同じ「論理」という道具を使う以上似てくるのは当たり前なんだよ。どういう風に似てくるかっていうと、現象とか経験といったものを論理でバラバラに分解していくんだから基本的に相対化の道しか辿らない。理系にない(と思える)ような方法と言えばニーチェみたいな系譜学的なやり方くらいじゃないか? あれはいいと思うね。その系譜学的なやり方にしても基本は相対化だ。まぁ当たり前だよな。

 ポスト構造主義とかスーパーフラットとか、ああいう相対化を見るたび俺はゾクゾクして、ああやっぱ文系も相対化なんだな、仲良くできるじゃん、と思うわけ*2。じゃあ2chでよく見た「評価」ばっかやってる勘違い野郎どもは一体どういう存在なんだ?と考えると、恐らく十中八九、文系とも理系とも言えない、ただのバカなんだな、という結論に達する。バカの話はこれくらいでいいだろう。

  相対化ってのは簡単に言えば特権的なものが消え去って個々の現象とか感じ方みたいなものが大事にされるってことだ。相対化と言えば感想とか主観的なものの否定だと思う奴がいるようだがあれは勘違いだな。不正に特権的な地位に置かれていた特定の(そして多数派にして少数の)感想とか価値基準が適正な位置に降ろされるからそう感じるだけのことだ。

 それまで「評価」だと思われていたものが「好き嫌い」になる。「評価」の下位に不正に置かれていた「好き嫌い」が救われるわけだ。

 相対主義相対主義を絶対化している? それについては<今>の俺ではなくいまの僕が先取りして言いますと、自己言及にして矛盾を出すゲーデル脱構築ってやつですねたぶん。だそうだ。

 まぁともかくそういうわけで文系も(そこまで単純ではないにせよ)基本的には相対化の道を歩む。そして「評価」とはまた違った批評の存在が見えてくる。

 

 Step4.「視点導入」型批評の導入

 ある作品に対する一つの特権的な「見方」、「正解」という考えが相対化によって退けられたあとで出てくるのは当然「いろんな見方がある」ってことだよな。

 そこで「批評」には新たな役割が振られる。つまり「いろんな見方」のうち、まだ誰もやってないような新しい、そしてより楽しめる見方を見つけて提供すること。「新しい視点の導入」だ。

 ここで「批評」は「創作」にぐっと近くなる。というのはそこに「正解」は無いし、なにより「作家はわざとつまらない作品を作ったりはしない」。つまり創作者の行動にはある偏りがあるわけだが、その偏りを批評家もしぜんと帯びてくることになる。

 どういうことか。

 ちょっと唯物的に考えてみよう。単純に素朴な唯物的に。

 人間は結局タンパク質でできた機械だって話はいまさら陳腐ではあるが、まだ有効性は持っている。単純に素朴な唯物的世界観では機械論もまたほぼ前提されるだろう。このとき作品の鑑賞そしてそこで生まれる感情は、またしても脳内の信号のやりとりとかそういったものに他ならない。ここで重要なのは、そういった考えこそが俺達の個々の感じ方を肯定してくれるってことだ。脳内の信号のやりとりにいちいち「こういう信号のやりとりが正解だ」「正しい脳内麻薬の出し方に従え」なんてのはあまりにナンセンス。つまりいちいち自分の楽しみ方を他人にどうこう言われる必要が無くなる。自由だ。

 一方で完全に自由とも言えないだろう。どういうやり方を取ってもいいにせよ、ある場合には楽しめて、別のやり方では楽しめないのもまた事実。論理的にはどうでも、実際上は「自分が楽しめる」やり方とか対象が上位に置かれる。しかしこれも唯物的な相対化によって非常にクリアだ。要するに「楽しめた/楽しめなかった」を考えればいい。この単純な勾配によって創作者の偏りは生まれる。どのような意味であれ「楽しめる作品を創ろう」って偏りだ。相対化された「視点導入」型の批評でも同じことが起きる。「楽しめた/楽しめなかった」以外に評価軸がない以上(「正しい/正しくない」という評価軸が消えた以上)導入する「視点」はまず「楽しめる」ことが第一視される。早い話が作品鑑賞をつまらなくさせるような種類の批評は氏ねってことだ。そんなものに価値は無い。なぜなら価値とはもはや「正しい」ことではなく「楽しめる」ことだからだ。

 

 簡単に頷かれても困るから具体例を出してみようか。

 例えば誰かがワンピースの欠点をいろいろ論ったとする。しかしそんなものに価値は無いって話だ。そこでは何らプラスのものは生まれていない。「欠点」といったがそれは「自分にとっての欠点」であって客観的な欠点は決定できない。実際そんな「欠点」など気にせずに存分に作品を楽しんで感動さえしてしまう鑑賞法・視点が現に存在する。このときワンピース批判Aとワンピースを楽しむ見方Bは、「楽しめない視点A」と「楽しめる視点B」でしかない。価値の勾配がどちらに傾いてるかなんて明らかだ。

 ワンピースを「萌え」や「ラノベ」に置き換えてもらっても構わない。ここで注意して頂きたいのは、こうした具体例は納得してもらうためではなく、簡単に納得してもらわないためにあるってこと。そしてその「納得のできなさ」がこの考え方のラディカルさであるし、多くの人間が今なお陥っている欺瞞(と俺に見えるもの)の生成物であると言える。

 ワンピースを楽しめなくてもそんなことは自由だし、勝手にすればいい、それ自体一つの確固たる現象である以上どのような理論にも否定され得ないが、ただ「創作」と同様の偏りを今や持っている「批評」という領域ではそれは否定されないまでも積極的な価値もまた持たない、というわけだね。

 一方でワンピースの欠点を論いつつ、そのこと自体が楽しまれるような場合もあるだろう。そこには確かにプラスがある、楽しさがある。批評が創作に近くなるというのはそういう意味でもある。つまり事ここに至っては、批評とは即ち「作品」だ。それ自体が「楽しめる/楽しめない」という評価に直に晒されることになる。それを覚悟しなければならない。「作品」と同様の、あの批判されやすい地位に置かれるってことだ。と同時に、「楽しめる/楽しめない」という評価軸以外では、正反対の価値判断を含む批評とさえ等置されるということでもある。早い話が、どれだけ馬鹿馬鹿しいワンピース信者の妄言に対してさえ、それが楽しまれる限り優越し得ない、ってことだね。

 

Step5.という前提

 別の言い方もできよう。つまり相対化は「創作→作品→享受→楽しさ」という「楽しさ」が生まれるまでの経路に「創作→作品→享受→解釈→楽しさ」という具合に「解釈」という新たな創作的過程が含まれることの発見を促す、と言える。

 つまり「楽しさ」は作者のみならず批評家や読者によっても創作されるために、ある意味では共犯的だということ。ために作者が悪くなくても批評家や読者の手落ちで作品が楽しめない、なんて事態も簡単にありうる。

 また別の言い方をすれば、科学的論理的な見方は世界から「べき」論を排除する。そこには現象のみがあり、従って利益を得るための「方法」のみがある。そこに「いいわるい」は無い。

 

  というようなことは、ほとんど前提のようなもの。

 ただしこういう前提を一度きちんと論じてみることが「本気出して考えてみる」ということでも俺にとってはある。

 ともかく前提はおしまい、そろそろ僕が最近夢中になりつつある文系的なガジェットも利用していきましょう。

 適切な使い方ができるかはわからないけど。

 

Step6.相対化のはてのはてな

 相対化はこのようにして安定する。

 ということはわかった。

 一方でいまの僕の気になるのはやはり途中で出てきた「相対主義相対主義を絶対化する」という自己言及、ゲーデル脱構築なわけです。

 このようなゲーデル脱構築はどのような否定神学を生むのか?

 「相対主義相対主義を絶対化する」という主張(ここでは「相対相対主義」とする)が示唆する結論が「だから絶対主義が正しいんだ」でないことは確かでしょう。考えられるのは「世界は相対主義にさえ捉えきれないやり方で相対的(としかいいようがないなにか)なのだ」という方向性。ここで「思考の限界」に 近いものが既に示唆されていることがわかります。 ふむふむ、では否定神学もこの近くにあるに違いない?

 ここで忘れてはならないのは、相対主義自体もまた否定神学だった、ということです。絶対主義というシステムをいろんなやり方でゲーデル脱構築し(やり方は相対主義の数だけあったと言えるでしょう)、新たに相対主義というシステムを作ってしまった。そこで唯一の超越論的シニフィアン(ファルス)として立ち上げられた「相対主義」を指摘する言葉こそが「相対主義相対主義を絶対化する」でした。

 つまり相対相対主義相対主義という否定神学をさらにゲーデル脱構築してしまったために、やはり別の否定神学を生んでしまう、であろう、ということがわかるわけです。

 言い換えれば、相対主義も相対相対主義も相対化のやり方がまずかった。ということです。ある一つの自己言及的な命題によりシステム全体の有効性を崩壊させるやり方は、対象となるシステムが絶対主義であれ否定神学であれ、新たな別の否定神学しか生みません。そうではなく、「欲望」のレベルまで目配せして一回一回の「誤配」に神経を注ぎ、システム全体を見渡すことなく脱構築すること。ではないでしょうか?

 そしてここまで僕は、理系時代の<俺>に戻ることで明に暗に相対主義の「欲望」について語ってきたはずです。相対化ってのは簡単に言えば特権的なものが消え去って個々の現象とか感じ方みたいなものが大事にされるってことだとか「評価」の下位に不正に置かれていた「好き嫌い」が救われるわけだとかそういった考えこそが俺達の個々の感じ方を肯定してくれるってことだとかいちいち自分の楽しみ方を他人にどうこう言われる必要が無くなるとか?

 要するに相対主義の欲望とは「俺のこの感じ方を否定しないでくれよ!」ってことだと言えるでしょう。順序が逆になりましたが絶対主義(ある種の権威主義など)の欲望はこれに近い「俺のこの感じ方こそが「正解」であり唯一絶対に正しい読み方なんだ!」でしょう。

 さて、ようやく根本的な問いが出てきました。

 批評を駆動する「欲望」とはなにか?

 言い換えれば、

 僕たちはなぜ批評するのか?

 

Step7.僕たちはなぜ批評するのか?

 しかしこの問いは適切に答えられないことが予め決まっていると言えます。

 仮にあらゆる批評を駆動する一つの「欲望」を名指しできたとき、そこにはもう個々のケースは関係ありません。それは直ちに単数的な「欲望」を中心としたシステム――否定神学を作り上げることでしょう。

 そういう相対化の仕方ではダメなんです。

 また「欲望」自体も無意識から誤配されてくるはずでした。意識上の語表象+物表象(シニフィアン)は無意識では物表象のみ(エクリチュール)に変換され、ある情報は避けられ抹消されつつ、そのエネルギーを転嫁する形で別の情報が強調される*3。この無意識における欲望を言葉に、従って意識の俎上に上げるのは、ほぼ不可能でしょう。欲望は常にズラされている。

 個々別々の「欲望」があり、それが批評を駆動する、ことによってまずは超越論的なものの複数性が確保される。とともにシステムの全体性ではなく一回一回の「欲望」の誤配こそが決定不可能性を決定づけます。

 というようなことは考えられる。しかしこれではなんというか、わかったようなわからないような、なんともモヤモヤする。なんとかならないものでしょうか?

 あらゆる批評を駆動するたった一つの「欲望」でなくとも、あるいくつかの批評を駆動してそうな、「欲望」の一例を挙げることくらいは?

 やってみましょう。

 

 まずは欲望は常にズラされているということから以下のようなことが考えられます。

 僕達は小説や漫画やアニメを見て、無意識下に「なにか」を刻まれた。意識はそれがなんなのか知らない。ためにその満たし方も知らない。でも、とにかく「なにかをやらなくちゃならない」。

 そうなったとき、取れる手段が現実的に、批評くらいしかなかった。つまり無意識の欲望が批評への欲望へとズラされた。*4

 言いましたね? ワンピースへの感動とかまさにクオリアとかコギトだろ?というようなことを。

 現象学が超越論化するのはまさにこのコギトでした

 現象学の「自分が話すのを聞く」コギトは、自分が話すという一つのオブジェクトレベルとそれを聞くメタレベルが繋がることで超越論化されます。それは確定記述(オブジェクトレベル)に還元できない固有名と同様の性質を持っていると言えるでしょう。そしてクオリアもまた物理的な確定記述に還元できないものとして名指されます。

 このような確定記述に還元できない残余はいかにして生まれるか? それは先程の「欲望」と同形の議論で説明可能でしょう。無意識を通ることで復元不可能となった情報は、それゆえに亡霊的な効果を、超越論性を帯びる。

 この確定記述に還元できない残余、亡霊的な効果をなんとかしようとして、結果的に選ばれた手段が批評だったのではないか。

 

 すこし似た別の説明もありうるでしょう。

 意識は常に移り変わるために、周期的にいまある情報を抹消される必要があります。黒板の文字を消すように。一方で無意識には、復元不可能な形ではあれ保存される*5。この、意識的には失われた情報の復元を(不可能な復元を)欲望して行われるのが一部の批評行為だとは考えられないでしょうか?

 要するに「あのとき確かに感じたあの「感じ」」を意識化せんと欲するとき、言葉に頼るほかありません。そしてそれは常に失敗する。

  

  また別の「欲望」を考えてみましょう。

  亡霊的な効果「散種」は同一ではないが「同じ」であるもの、例えば一回一回厳密には異なるが「同じ」と判断されるある人物の署名に宿るとされます。異なるものを一つにまとめて「同じ」とするとき「散種」は生まれる。

 ここでそもそも科学的な見方とはある個別の現象とある個別の現象の中に共通性を見出して点と点を線でつなぐように関数にすることだろということを思い出せば、固有名を関数に、関数が通るすべての点の集合を確定記述の集合に類比できるでしょう。そして関数は仮にあらゆる批評を駆動する一つの「欲望」を名指しできたとき、そこにはもう個々のケースは関係ありませんと同様の性質を持つ。つまり一般性ですね。

 この一般性への欲望は形而上学否定神学に、そして科学に共通します。

 それはモノを意味に還元しようとする原初的な人間の営みを軸にして、やはり「同じ」ものとして見ることが可能でしょう。

 

 さてもしかし、批評を批評するというこの自己言及的な企ては、どれだけ頑張ってもゲーデル脱構築にしか到達し得ない気もするけど。どうなんだろう?わからない。

  そもそもこれは批評だろうか?それもわからない。どっちでもいいけどこの批評だかなんだかわからないものを駆動する「欲望」は?わからない。わからないからわかろうとするんだろうか?わからない。わかってるから書くんだろうか?わからない。わからないけど、わからない。

  でも一つ言えることは、なにかがぼく達を駆動している、ってこと。

  ぼく達は純粋な論理に突き動かされているわけではない。科学的論理的な見方は世界から「べき」論を排除する。ぼく達はなにをやってもいい、でもなにかをやっている。なぜ?わからない。でもそれはきっと、きれいなものではない。ぼく達は隠蔽し偽造している、「欲望」を。きれいなふりをしている。懸命に。

  それを詮索するのは、一つの暴力だろう。それを勝手に想像して決めつけるのは、もっとひどい暴力だろう。そういうことを他人に対してするのは、本当に唾棄すべきことだ。でももしかしたら、自分に対してそれをするくらいは、許されていいのかもしれない。

 欲望はどこかで暴力を生むだろう。その欲望を詮索することもまた暴力だろう。自分に対する暴力で傷付く他人もいるかもしれない。だったらせめて、声を上げて欲しい。

 傷付いてるぜって。

 もしかしたらそれが批評?それが批評を駆動する欲望?わかんないけど、まずはそっからだろ。

 正しさが相対化されたあとで、楽しさも相対化されたあとで、残るのはやっぱり、やさしさなんじゃないか?

 

 

(執筆:荻上3)

*1:当時の僕の用法に従えば

*2:逆に簡単に同意できてしまうからこそ、よく知らずに使ってしまう傾向はありますが……。

*3:例として夢における作業が『存在論的、郵便的』では語られます。

*4:別の人では「批評」の代わりに「二次創作」であるような場合もあるでしょう。

*5:物理的には神経回路の定着に相当するかもしれません。