話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

存在論的、郵便的に思い出せ/踊り出せよディスコテック!

 いま東浩紀さんの『存在論的、郵便的』という本を読んでいるんですけどこれが非常に面白くてそれも単に面白いだけじゃなくて本の中で論じられるいくつかのガジェットというか方法というか見方みたいなものを自分でも使ってみたいという気持ちにさせられるああこういうのが優れた批評なんだなと感じさせられるそんな本を読んでいるものですからちょっと思いついたことを書いてみます。

 僕は大抵こういう哲学系の本を読んでいると思考があっへこっちへ飛びます。つまり本の中である主張が為されたとき「ではすこし似たあの例ならどうだろう?」とか「あれに適用するとどうなるかな?」とか絶えず考える癖があって、今回もそれですこし思いつくものがありました。それというのは、すこし前に読み終わった舞城王太郎さんの『ディスコ探偵水曜日』に『存在論的、郵便的』の観点を挟んで解釈してみる、というものです。

 といっても『存在論的、郵便的』をまだ読んでる途中で*1、もしかしたら今後読み進めていくと僕の頭の中にある構図が崩されるなんてこともあるかもしれませんから*2、そのつもりで、読んで頂けると幸いです。

 

自己言及で脱構築 -ゲーデル脱構築

 『存在論的、郵便的』の僕が読んだ範囲では*3ジャック・デリダは二種類の「脱構築」を行ったとされます。その一つめが本書で「ゲーデル脱構築」と呼ばれるもの。論理的な脱構築とも言えるであろうやり方から、まだもう一方の脱構築よりはわかりやすい脱構築、と言えそうです。

  ゲーデルの名を冠すことで匂わせているように、その方法は「自己言及」によって特徴付けられます。自己言及は様々なパラドクスの宝庫ですが、それに「脱構築」という新たな姿・名前を与えたと言えるのかもしれません。

 それはまた「代補の論理」という言葉によって説明されるようです。プラトンの対話篇『パイドロス』をとり上げた「プラトンパルマケイアー」に例を借りて、以下のように説明されます。

エクリチュール(書くこと)はまず記憶を代補するものとされる。しかし現実には、ひとは書き記すことによって、むしろ気を抜いてそれを忘れてしまうことがある。それゆえソクラテスは同時に、しっかりと記憶するためにはむしろ書き記さないべきだ、というアドヴァイスもまた行わねばならなくなる。しかしこれは矛盾している。エクリチュールは記憶を補う(強化する)と同時に脅かす(弱体化する)というのだから。

  こうした自家撞着的な論理の、ゲーデル的自壊の地点を暴露するのがゲーデル脱構築、というわけですね。

 さて、ここで僕は思い付きます。あるものがなにかを代補するせいで、むしろそのなにかが必要なくなってしまうような、そしてそれによってなにか困るような関係、そして「自己言及」……なにかに似ていないか? なにかこれに似たものを僕は知っていないか?

 タイムパラドクスです。

 突然ですが。

 簡単なタイムパラドクスを考えてみましょう。

 Aさんがあるとき交通事故に遭う、しかしAさんはタイムスリップの能力を持っていたので、過去に行って自分にぶつかるはずの車を止めて、交通事故を前もって止めることができました。車を止めて胸をなでおろしたAさんはふと思うのです。「これで事故は起こらないはずだが……気付かずに無事だった過去の<俺>は果たしてこのタイムスリップをするだろうか?」

 タイムスリップで安全を手に入れたせいで、むしろタイムスリップ自体が不要になってしまう。ことによって生まれるパラドクス。

 そしてタイムスリップ、とりわけタイムパラドクスを起こすようなタイムスリップはどれも優れて「自己言及」的です。時間を超えた自己言及、それゆえにこそパラドクスは起こると言えるのかもしれない。

 この時点で、へぇ、タイムパラドクスって自己言及のパラドクスの一種として考えられるんだ、と我ながら感心しつつ面白いなと思ったわけですが『存在論的、郵便的』は当然ながらそこで終わりません。

 

否定神学脱構築 -デリダ脱構築

  『存在論的、郵便的』では、デリダ以外の者も様々な形でゲーデル脱構築を行っていたことが示されます。もちろん「ゲーデル不完全性定理」もまたその一環として考えられるのでしょう。

 しかし『存在論的、郵便的』で強調されるのは、そうした他者のゲーデル脱構築に対する、デリダの否定的な反応でした。そしてそれは、ゲーデル脱構築が既存のシステムを自己言及によって批判しつつ、その裏で「否定神学」というまた別のシステムを安定化させてしまう、ということへの拒否の身振りとして解釈されます。

 では「否定神学」とはなにか? 僕の解釈ではそれはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で「語りえない」(そして「示される」)ものと呼んだものに近そうです*4。つまり「それは~で、…で、ーなものだ」というように積極的に語ることはできず、「~でなく、…でなく、-でなく……」と語りうるものをすべて語った後で限界として「示される」もの、そのような対象ならざる対象を超越論化するものが「否定神学」だと言えそうです。

 つまりゲーデル脱構築は語りうるものすべて(システム全体)の決定不可能性を導くために、その残余として残る脱構築不可能な「語りえないもの」を不問にし、超越論化してしまいがちである、ということですね。

 そこでこの否定神学的な超越論化、「語りえないもの」の単一性を複数化し、超越論化できなくするために「デリダ脱構築」は立ち上げられます。つまり単一の「語りえないもの」を見出してそれを中心とした否定神学的なシステムを構築するのではなく、一回一回の伝達(コミュニケーション)の中にすこしずつ決定不可能性を見出していく、というやり方ですね。

 言い換えればそれは、システム全体を脱構築する代わりに一回一回の伝達を脱構築する方法、と言えそうです。また僕なりの解釈ではそれは「過程を思い出させること」です。

 

 さて、そろそろ 『ディスコ探偵水曜日』についても語りましょう。そもそも前述のタイムスリップに関する着想も、実はこの小説のことを『存在論的、郵便的』を読みながら考えていたときに、思い付いたものでした。

 

時を超える神話と、気持ちの問題

 『ディスコ探偵水曜日』には様々な形でタイムスリップが登場します。時を超える手紙、未来の身体への急激な成長と逆戻り、折り曲げられた時空、時空に関するいくつかの仮説、時空を曲げ、時を超える主人公・ディスコ。

 つまりそこには既にゲーデル脱構築が用意されている。

 ではこのような時空の超越が生み出す否定神学とはどのようなものでしょうか?

 その一例もまた、この小説の中に発見することができます。

 主人公のディスコ・ウェンズデイはひょんなことから引き取った6歳の少女・梢の未来の17歳の梢と手紙のやりとりをしたり直接会ったりします。未来の梢は既にやりとりした後の手紙をすべて見ている。つまりこれから繰り広げられるはずのやりとりを既に知っているわけで、一方で既に知ってるやりとりを踏襲しなければ矛盾が生まれて大変なことが起こるのではないかと恐れています。そこでディスコはすべてのやりとりをもう全部予め書いておくことを提案する。あとは手紙を使わずにコミュニケーションすれば矛盾は生まれません。

 そうして機械的に書き写された手紙は将来的に、次の(?)未来の梢に見られてまた「矛盾を生むのでは」と恐れを抱かれ、ディスコに書き写すよう提案されるでしょう。そして書き写された手紙はまた未来で未来の梢に見られて……とはじまりも終わりも見えない「円環」が形成されます。

 このような時を循環する円環が小説の中でいくつも登場します。それは根本的には「矛盾」を避けるためのものと言えるでしょう。また時空の構造に関して名探偵たちが議論する場面でも「矛盾を生まないような仮説」が模索され、その中で行われた実験により「過去も未来も変えることができない」ことが結論されます。

 そして物語の展開上、「過去も未来も変えることができない」ことは絶対的な絶望であり地獄となってディスコに襲い掛かります。

 時空の超越という自己言及的なゲーデル脱構築が生む矛盾、を避けるようにして形成される円環と仮説と、その結論としての「過去も未来も変えることができない」こと。つまりそれが否定神学です。

 時空の超越というゲーデル脱構築によってむしろ強化されてしまう「過去-現在-未来」の一直線性・単一性。まさしく『存在論的、郵便的』で語られる構図です。

 

 ではディスコは、どのようにしてこの否定神学に立ち向かうのか?

 どのようにしてデリダ脱構築を行うのか?

 そこに「過程を思い出させること」が効いてきます。

 そもそもこの小説に『存在論的、郵便的』の脱構築モデルを適用することには危うさがあります。というのは否定神学として名指される筈の「円環」が「手紙」によって為されているからです。「手紙」「郵便」はデリダも多用し『存在論的、郵便的』の中ではデリダ脱構築を象徴する隠喩。つまり位置が逆です。しかしそこが重要だと思う。

 つまり時空の超越をただの時空の超越と自明視し、「矛盾」を避けるから否定神学に向かうのであって、「そもそもどうやって時空を超越してたんだっけ?」とその過程を思い出し、その不確かさを自覚する必要がある――つまり、「手紙」を使っていたってことを。

 物語のわりと序盤から一つのセリフが何度も反復して登場します。

この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?

 そして時空を曲げたり超えたりするのも、意志の力です。意志は運命に抗える。時空さえも捻じ曲げて。「矛盾」さえも取り込める。その過程を思い出すこと。隠蔽された一回一回の「意志」という不確かさを思い出すこと、このデリダ脱構築によって、ディスコは「過去も未来も変えることができない」という呪いのような結論を打ち破ります。

 

 『ディスコ探偵水曜日』の展開は、驚くほど『存在論的、郵便的』の脱構築モデルと一致しています。「幽霊」というワードもすこし強引にですが関連付けさせることもできるでしょう。そしてここでふと思い出すのは、同じ舞城王太郎さんの『ディスコ探偵水曜日』より前の作品『九十九十九』と、それに対する宇野常寛さんの評価です。

 

九十九十九』を超える

 僕は『ディスコ探偵水曜日』と同じくらい(つまりとっても)『九十九十九』という作品が好きなのですが、宇野常寛さんの評価は芳しくありませんでした。『九十九十九』の終盤に現れる「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」という一文に対して「そんなの当たり前じゃないか」と言ってのけた宇野常寛さんの言葉が、『九十九十九』が好きなだけにわりと長い間気にかかっていました。

 もちろん『ゼロ年代の想像力』の中に書かれた宇野常寛さんのこの評価は、同じく『九十九十九』を取り上げた東浩紀さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』に目配せしたものです。そしていまとなっては宇野常寛さんの批判は、ある否定神学への批判と読める。

 『九十九十九』にもやはりタイムスリップが登場します。『ゲーム的リアリズムの誕生』ではそのループ構造に似た構造に目が付けられ、「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」はこのようなゲーム的リアリズムにより可能となった「一瞬」の肯定と考えられるわけですが、これは否定神学的です。つまりタイムスリップというゲーデル脱構築により脱構築不可能な「特別な一瞬」「この一回性」に超越論性を見出すという構造が、です。*5

 しかしこのようなゲーデル脱構築による否定神学さえ「当たり前」になってしまい、もはや「特別な一瞬」「この一回性」に超越論性を見出せなくなったのが「いま」の主に若者であり、その帰結が「決断主義」なのでしょう。つまり「決断主義」とは、ゲーデル脱構築が氾濫し濫用された末に、結局デリダ脱構築が選ばれなかった際の思想形態だった、ということに恐らくなるわけです。

 こうした『九十九十九』が抱えた課題に対して、『ディスコ探偵水曜日』は一つの答えを返すことができた、ともしかしたら言えるのではないでしょうか?

 デリダ脱構築、「過程を思い出すこと」によって。

 

思い出し続ける探偵・ディスコ・ウェンズデイ

 「決断主義」への処方箋として読めそうだということを確認したいま、改めて『ディスコ探偵水曜日』について考えてみましょう。

 迷子専門の探偵だったディスコは物語の終盤、将来的に誘拐犯になることが明らかになります。そしてそれは子供たちを虐待し、その痕跡を隠蔽する「地獄」と化してしまった社会から子供たちを救うためでした。この未来の社会の構成員は「虐待」という地獄を意図的に忘れようとしている。それを思い出させるのがディスコの役割です。

 また物語に頻出する「文脈」という単語。すでに登場しているアイテムや事件を別の文脈の上に置くことでいままで見えていなかった道筋(新たな文脈)を見出すいくつもの「推理」はまさに「思い出すこと」と言えるでしょう。「思い出すこと」は『存在論的、郵便的』の言葉で言えば「デッドストック空間(郵便空間)からの幽霊的な回帰」だと考えられます。「推理」の場合は物語の中に散りばめられたアイテムや事件が「今後使われるかもしれない(使われないかもしれない)」デッドストック空間として考えられるわけですね。アイテムや事件は何度も、その度に形を変えつつ推理の中に「回帰」する。それはまた情報伝達の速度のギャップの効果として『存在論的、郵便的』に近付けて解釈できます。*6

 またディスコの頭の中(地の文)では過去のセリフがいくつも何度も何度も太字で示されつつ回帰します。太字以外でもディスコは常に過去のことを思い出し考え続け、そのせいで小説は上中下巻という長大なものになっています。そもそもディスコが迷子専門の探偵であることも「失われた道筋を復元し、迷子を見つける」という極めてデリダ脱構築に近い位置にディスコがいることを示すと言えるでしょう。

 ディスコは、一つの円環だった世界から世界の果ての向こう側の新たな世界を拡大し解放します。そしてこの時間の逆流により隔てられた新たな世界へ飛ぶ方法自体もまた、暗闇の中で孤独になり、逆説的に「我々が世界(時空)を構成していたのは他者とのやりとりにおいてだった」「完全な孤独の中では時間の流れさえも他者に規定されず、自由にできる」ことを思い出すことを通してのものでした。

 

 僕達の社会では、いろんなものが脱構築され過ぎています。

 自己言及という意味でのゲーデル脱構築は、コツさえつかめばいろんなものに適用できるように思います*7。それゆえ僕達は、恐らく日常的にいろんなものを脱構築し、脱構築し過ぎているためにもはや否定神学さえ描けない。空虚です。

 しかし本当はそんな簡単なはずはないのです。僕達がなんでもかんでも脱構築してしまえるのは、一回一回の伝達の不確かさを忘却しているからであって、一回一回の伝達の不確かさを思い出せば、途端にゲーデル脱構築は難しくなる。というよりできなくなる。そのとき一回一回の伝達それぞれに「語りえないもの」が宿り、そのせいでシステム全体はそもそも見渡すことができなくなっていますから。

 決断主義への処方箋はたぶんそんなところに、つまり一回一回のコミュニケーションを丁寧に思い出し、その不確かさをその度に受け止めることによって、可能になるんじゃないか。

 そう思えます。

 

 

(執筆:荻上C)

*1:だいたいいま半分くらいです。

*2:実際にそういうことが前にありました。浅田彰さんの『構造と力』の前半を読んでるときに思い付いたことが、後半になってみごとに批判されてしまったのでした。あとから考えれば、構造主義を解説する前半とそれを批判しつつ生まれるポスト構造主義を解説する後半という構成上、当たり前の話でしたが。

*3:以下、「僕が読んだ範囲では」は省略します。

*4:それゆえ『論理哲学論考』自体も一つの否定神学と言えるのかもしれません。

*5:このほか同じく宇野常寛さんのセカイ系批判も同じように読めるでしょう。例えば彼はセカイ系的な態度を碇シンジ的な「ひきこもり系」と呼んだわけですが、「何かを選択すれば必ず誰かを傷付ける」から「何も選択しないでひきこもる」「~しない、というモラル」はやはり否定神学的です。

*6:小説の中でも実現はされませんでしたが、空想はされた「誘拐した子供の保管場所」に関する仮説は速度のギャップをデッドストック空間に繋げる『存在論的、郵便的』の議論と非常に近似しています。時を越えられる誘拐犯である未来のディスコは、もし親にあとで返す予定があるなら、何億人という子供を保管するためにほんの少しのスペースしか必要ありません。つまり、ある時点で誘拐し、ほんの一瞬だけ狭い場所に子供を置く、そして未来に行って親に子供を返す。それを繰り返すだけで最小限の保管場所で何億人の子供でも誘拐できます。そしてそのようなデッドストック空間が可能なのは、時を超えるという極端な速度のギャップによってだと言えます。

*7:もちろんその手際の鮮やかさはかなり属人的にならざるを得ないし、大半の人のそれは非常に不格好な、なんとなくのものでしか無いでしょう。それでも、できることはできてしまうわけです。

本当に正論を言っていいのか? いいんだな?

 僕はわりと正論が好きな人間だと思うし、そうありたいと思っていたりします。

 だって「正しい」ことは「正しい」と言いたいじゃないですか。

 でも一方で「正論」という言葉はあまり好きではありません。誰にだって自明なことは「正論」とわざわざ呼ばれたりしませんから。大抵の場合「正論」にはそれを正論だと思えない人がいて、じゃあ正しさってなんだ? とか思ってしまうわけです。

 という前振りとは実はあまり関係ないんですが、ドランクドラゴン・鈴木さんのインタビューがいろいろと話題になっているようです。

togetter.com

 見たところtogetterでとり上げられている意見は批判的なものが多いようですが、はてなブックマークを見るとそうでもない模様? やっぱり場所とか集まりによって傾向ってあるのかなと思います。

 で、僕自身は前々からドランクドラゴン・鈴木さんのブレない「クズ」っぷりは好きだったんですが、今回もかなり同意できました。

 ただ今回の主題はドランクドラゴン・鈴木さんではなく、それに反応する人々についてです。

 

「だってあの人たち、俺のお客さんじゃないですから」

 今回の記事では、ドランクドラゴン・鈴木さんの意思は無視します。「この人は本当はこう思ってる」なんて分析はしません。

 その上で書きますが、この文(インタビュー)の凄いところって、「だってあの人たち、俺のお客さんじゃないですから」というところなんですよ。

 ここから見えてくることって凄いですよ。この話は「誰も正論なんか聞かない」「だから自分のお客さんに気に入って貰えるよう「正論」は吐かない」「「正論」を言っていいのは周囲が「なるほど」って耳を傾けてくれて、失敗した時に自分でケツ拭ける人」というものだと思いますが、彼が「正論」を言わないのは「お客さん」に対してであって、ツイッターで絡んでくる視聴者は「お客さん」じゃないんです。

 つまり、彼は言えるんですよ。

 視聴者に、「正論」を。

 これってかなり凄いことじゃないですか?

 「これってかなり凄いことじゃないですか?」ってことからさらにわかるのは、多くの芸能人は言えないってことです。視聴者に、「正論」を。

 つまり多くの芸能人は鈴木さんのように口には出さないものの、「お客さんに「正論」を言わない」という鈴木さんの哲学を実行しているわけです。でも叩かれない。むしろそのことを正直に告白し、ある意味では「正論」を、実情を語る鈴木さんだけは叩かれるわけです。

 これって不謹慎ですけど、すごく面白い構造ですよ。

 僕はこういうねじ曲がった論理構造を見るとなんだか嬉しくなってハイになるんです。変だなと自分でも思いますけど、仕方無いですね。なるものはなるんだから。

 

 話を戻しますが、鈴木さんは多くの芸能人が実行している「お客さんに「正論」を言わない」を同様に実行していて、でも「視聴者」に関しては限定解除できる、いわば多くの芸能人より「正論」に近い男です。でも近い彼こそが叩かれる。

 当たり前です。鈴木さんの言うとおり、「だぁ~れも、そんな正論なんか聞いてません」なんですから。それは視聴者とて同じことですし、むしろとりわけそうです。

 「お前のお客さんは視聴者だろ」「視聴者から嫌われれば長い目で見ればテレビに出られなくなって困るのは自分だぞ」という反応をする人はわりにいるようです。彼らはなにが言いたいのでしょうか? 自分達がお客さんだったら、なにが変わるのでしょうか? 鈴木さんが正論を言ってくれるようになる? まさか。

 鈴木さんにとって「お客さん」とは「「正論」を言えなくなる相手」なんです。つまり「俺がお客さんだ」と彼に言うのは「俺に正論を言うな」ってことと同義なんですよ。

 これは鈴木さんでなくてもそうです。「俺は視聴者だぞ」と芸能人に言うのは「俺の気に入るようにしろ」という意味を含む場合がほとんどでしょう。

 「正論」を言わない彼を叩く人は実のところ、「正論」を自分達に言わないことをこそ彼に求めているのです。

 

「正論」を言われる覚悟はあるか?

 鈴木さんへの批判を見ると、多くの人は自分が「正論を言う/言わない側」であると思っているようです。そこで鈴木さんを批判するのは確かに気持ちがいいでしょう。自分の「お客さん」でない鈴木さんに「正論」をぶつけるだけで、あたかも「正論を言う側」であるかのような、ヒロイックな気分に浸れるわけですから。

 でも本当に大事なのは「正論を言われる/言わせない側」としての自分ですよ。

 特に鈴木さんのような芸能人を相手にする時、相手が自分にとっての「お客さん」であることは滅多にありません、むしろ自分が「お客さん」で、つまり彼の「正論」を聞かないことができる立場です。黙らせることも、鈴木さん相手でなければあるいは可能でしょう。

 そのときに、「正論」を言われる覚悟が果たして自分にあるのか?

 ここで「正論を聞く人」になるには、封印するべき言葉があります。

 「言ってることは正しいけど、芸能人がそれを言っちゃダメだよね」

 ということ、それに類する言葉です。

 「芸能人と視聴者」「売り込む側とお客さん」「主と従」という立場を利用せずに「正論を聞く」ことが求められる場面でそれを言ってしまっては意味がありません。

 それでは立場を利用して「正論」を封じ込めようとする上司・権力者と同じです。

 同じことは政治家にも言えますね。「言ってることは正しいけど、政治家がそれを言っちゃダメだよね」と言える人は、政治家に「「正論」を言え」と言う資格なんかないわけです。最初からそんなもの求めていないのだから。

 芸能人でなくても政治家でなくても、誰に対しても同じです。「「正論」を言え」と言うなら「正論」を封じ込めてはいけません。誰に対しても。

 こうして考えてみると分かりますが、「正論を聞く」というのは思いのほか難しいことです。とてもへヴィで、根気と覚悟と自己批判力の要る難しいこと。当たり前です。そうでなければ「正論が聞かれない社会」になんてなりません。難しいからみんなできないし、みんなできないから「正論が聞かれない」んです。

 

そもそも「正論」って?

 最後に正論そのものについて考えてみましょう。

 記事の中で鈴木さんは「ありますよ、テレビの現場で「こうした方がおもしろいのにな、うまくいくのにな」と思うことって」と述べています。これが記事の中の言葉で言えば「異論」で、「最近、外国の影響なんすかね「自分の主義主張は堂々と言え」「間違っているものは間違っているということが正しい」みたいな風潮があるじゃないですか」における「異論」と「正論」の並置を経て、スムーズに「正論」の話へ移行します。これ、ちょっと鮮やかながらズルいな(笑)と個人的に思うところなんですが、まぁいいでしょう。

 ある意味必然です。「自分が正しいと思う」=「異論」と、「正しい」=「正論」の区別って、多くの場合、誰にも付けられないでしょうから。

 で、そうなると彼に「「正論」を言え」と言うのは要するに「「異論」を言え」と同義になってしまう。要するに「自己主張しろ」ってことです。でもこれっておかしいんですよね。彼を批判する多くの人は彼を「面白くない」と思ってるはずで、となると彼が自己主張すればするほど、番組はつまらなくしかならないんです。

 というのが、彼を批判する人たちのやはりおかしな部分なんですが、これは他の問題にも敷衍できます。

 つまり「無能な働き者」問題ですね。*1

 「正論」はそれが採用され、実行に移されて結果を見て検証されるまで、「正しい」かどうかはわからない、つまり結果が出るまではただの「異論」「自己主張」に過ぎません。

 それを「正しさ」を判断する能力に乏しい人が主張し、もし採用されて強行されればどうなるか、自明の理です。しかも事が起こった後に本人は何も責任を取れないとしたら?

 「(「正論」を)言っていいのは周囲が「なるほど」って耳を傾けてくれて、失敗した時に自分でケツ拭ける人

 という言葉の重みがここでわかります。

 彼に反論する人の多くは「正論」の「正しさ」を自明視し過ぎているし、彼らの理屈では「無能な働き者」を抑止する術が無くなってしまうのです。

 

 本記事のタイトル「本当に正論を言っていいのか? いいんだな?」には、これまでの流れを加味して二種類の解釈がまずありえます。

 一つは「正論を言われる覚悟はあるのか? 言われた正論をちゃんと聞くことはできるか?」というもので、現状多くの人は(僕も含めて)難しいでしょう。でも将来的に「YES」と答えられるようになるよう、目指すべきものです。

 もう一つの解釈は「無能な働き者も「正論」を言っていいのか?」ということで、これは逆に「NO」と答えるべきでしょう。「正論」はそれが主張される段階では「正論(だと思われているに過ぎないもの)」です。これを主張するにはそれなりに根拠を用意した方がいいし、してもらった方がいいです。

 まぁ後者は余談のようなもので、重要なのはやはり前者でしょう。

 そしてその試金石としてドランクドラゴン・鈴木さんは、とても稀有な方です。

 「正論を聞ける能力」とは、言ってしまえば「どんなに嫌いな奴でも言ってることが正しいなら認めることができる能力」です。彼のことが嫌いな人ほど、彼が「正論」を言う時には注意深くなる必要があるし、彼は「視聴者」に対しては「正論」が言える人ですから、そのチャンスはふんだんにあるはずです。

 問題は僕ですね。僕は鈴木さんのことが嫌いではないですから、彼を試金石にすることはできません。

 僕は一体誰のことが嫌いで、誰の「正論」に耳を傾けるべきなのでしょう?

 いまのところ、答えは出ません。

 

 

 

(執筆:荻上クズ)

*1:誤解のないように書いておきますが、僕個人は鈴木さんは面白いと思います。面白いから呼ばれるんでしょうし。でも面白いかどうかは見る人によって変わるのも当たり前で、彼のことを「面白くない」と思う人がいること自体は不思議ではありません。

かわいいと批評 死角にあるもの

 前回の記事の後半で「かわいい」について触れ、その可能性についても書きました。

q9q.hatenablog.com

  ただし「かわいい」について説明が不十分だなとも感じていて、それについて今回は書いてみたいと思います。

 

 なお、前回の記事にも書きましたが僕は男性です。そして基本的には「かわいい」について男性は「不能」である(「かわいい」をうまく感じることができない)というのが僕の考えです。もちろんすべての男性がそうなわけではないし、女性なら必ずわかるわけでもない、非常に大雑把な確率的な話でしかありませんが、僕自身が特別「かわいい」に敏感な人間だとは思っていませんし、むしろ鈍感な方かもしれないと思っています。そんな人間が「かわいい」について語るのは奇妙だし役に立たないと思われるかもしれませんが、とにかく語ってみます。それでは、どうぞ。

 

入門編:僕なりの「かわいい」仮説

 さて、しかし「かわいい」ってなんでしょうね?

 まずは地道に考えてみましょう。

 それはたぶん、長く考えてやっとわかるようなものではない。だから例えば小説のある一節が「かわいい」と感じることはあっても、全体を見て「この論理展開がかわいい」ってことはあまりなさそうです。「かわいい」はロジカルに演繹したり帰納したりするものではないんです。(この手の間違いを犯している男性はわりに多いと思います。)それは瞬間的で感覚的なものだとまず言えるでしょう。そして事後的に確認されるものです。「ここがこうなってあそこがああなるから、あと5秒後にわたしはかわいいと思うはずだ、3,2,1……かわいい」なんてことはまずないわけです。「かわいっ……あっ、いまかわいいって思ったんだ」の方が近いわけですね実態に。それは「あってしまった」ものであり、あってしまった以上あとから否定することはできません。かわいいと感じた事実はもう覆せないんです絶対に。

 男性は基本的に「かわいい」について不能である、と書きました。それは「男性は論理的思考に拘泥しがちである」*1という偏見に基づいたものですが、つまり本当に言うべきなのは男女関係なく「論理と「かわいい」(という感覚)は相性が悪い」ということですね。論理という道具の基本的な使い方はある事実から別の事実を導き出したりすることですが、「かわいい」という感覚は既にあってしまった事実としてしか存在せず、そこから別の事実を導くこともない、論理の仕事がどこにもないような場所なわけです。

 で、唐突ですけど(論理が使えない以上唐突でしかありえないわけです)僕は実は「かわいい」についてある仮説を持っています。不能な論理偏執狂たちをすこしだけ有能に近付けられるような仮説を。仮説というか解説ですね。

 つまり

 

 かわいいとは統一性のことである

 

 ということです。

 これは結構前から思っていることなんですよ。男性側から見てどう見ても「かわいい」と思えないものを「かわいい」と言う女性、この断絶はそもそも「かわいい」の前提が違うから起きていて、女性はある種の統一性について「かわいい」と思える能力があるのではないかと。

 不能な僕達にもわかりやすい例を言うと、例えばパグですよ。

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 かわい、

 おっと。ともかくパグです。

 この超渋いおっさんみたいな外見にもかかわらず、「かわいい」と女性に人気なパグ。どうしてパグはこんなにブサイクなのに。でも印象として統一感はあるんですよね。「おっさん」あるいはもっと的確には「パグ」という方向性に向かってすべてのパーツが用意されているような、妙な納得感がある。もしかして、これが、この気持ちが……「かわいい」……?

 ファッションという分野においても「統一性」は非常に重要な要素だと思います。僕は全然疎いですけど、まぁでも恐らくそうなんですよ。一つのコンセプトがあって、そのコンセプトに向けてすべてのアイテムが用意される。そうして提供される一つの統一的な「スタイル」「イメージ」がファッションにおける至高性ではないか、と思うわけです。例えばきゃりーぱみゅぱみゅさんのファッションとか典型的にそうじゃないですか。必ずコンセプトがあって、奇矯に見えるいろいろなアイテムもコンセプトから見ればむしろ正着だったりするわけです。

 もちろん、統一性だけが「かわいい」ではありません。そこから「あえてはずす」こともまた別のイメージを掻き立てるような、「かわいい」への道として十分にありえるでしょう。例えば上の画像の左のパグの顔をじっと見てください。それからそっと身体の方へ視線を移す。奇妙じゃありませんか? しわの寄ったおっさんみたいな顔と、小型犬のそれだけでかわいいような健気な身体。まるでキメラのような不自然さがある。が、いい。統一性のような秩序的な要素だけでなく、そこから外れた歪な不調和もまた「かわいい」の源泉なんですよ。もっとも不調和は一度秩序を形成してこそありえることで、初心者の僕達はまずは統一性から学んでいくべきだとは思いますが。

 

 というのが、この節の題のとおり「入門編」です。もちろんこれだけで捉えきれるような生易しいものでは「かわいい」はない。もうすこし奥へずずずいと進んでみましょう。

 

中級編:ハイコンテクストな「かわいい」

 なんだか前回の記事へ逆戻りするようですが、まぁそうなんですよ。

 僕はこれまでずっと「かわいいとは統一性とその「はずし」」だとずっと思ってきたんですが、前回の記事を書きながらもうすこし違う考えも浮かんできた。

 

 かわいいとは文脈である

 

 のではないか、という考えです。

 たとえ統一性があっても、女性にとっても「かわいくない」ものってあるわけじゃないですか。それと「かわいい」統一性との違いとはなにか? とか、「かわいい」は身体的な感覚である、と言い切ってしまっていいのか? とか考えているうちに「文脈じゃないか」という考えがふと浮かんできました。

 ファッション業界のトレンドは常に移り変わりますし、そもそも「ファッション」とは「流行」のこと。「かわいい」の流行もまた多くの「移り変わり」を経ています。こうした「移り変わり」は単に「身体的な感覚」では説明できません。また男女の話になりますが、女性はこういう「移り変わるもの」の扱いが非常にうまいと思うんですよね。男性はわりと苦手なことですよ。だからこそ時間性・歴史性を超越した「真理」とかを追求してしまうわけで、「流行」への男性側のシニカルというか軽蔑的な視線は、そういう不能さの裏返しだと思いますね話が逸れましたが。

 ともかく、ファッションなどでもいわゆるファッションリーダーと呼ばれるような人が着たものが次に流行ったりするわけで、それって端的に言えば「文脈」の創出なんじゃないかなと思うわけです。そしてそうなってくると男性と女性の、間に「かわいい」をはさんだ断絶もよくわかります。「文脈」はそれが共有されない「外部」との断絶を生みますから。そして例えば、女性が「今度の合コンに来る子、超かわいいよ」と言って男性が期待したが、実際に会ってみるとそう思えなかった。というような残念エピソードも、「女性がかわいくない女性を「かわいい」ということでハードルを下げようとした(相対的に自分を上げようとした)」とか「かわいいと言う自分がかわいい」といううんざりするようなよくわからない理屈ではなく、「女性同士の間では「かわいい」文脈が既に形成されていたが、男性には共有されなかった」という不幸なすれ違いだと解釈できるわけです。

 「かわいい」には文脈がある。という考え自体、結構男性には受け入れがたいものかなと思います。そしてここで話を逸らしてみたい。何故かと言えば、同種の困難を抱えている分野があると思うからです。

 批評です。

 

番外編:批評と外部と文脈と死角

 批評とは外部の視線の導入である。

 という考えはこれまで何度か紹介してきましたし、僕自身概ね同意するところです。

 このとき「外部」とはなにか? いろいろ考えられると思います。わかりやすいのは「主要な需要者の外部」でしょう。例えばあるアニメについて、そのアニメのファンコミュニティの外側から作品を見てみる。外部から見ることで新たに見えてくるものがある、というようなことです。

 しかし「外部」はもっと広くも取れるはずです。「作品」にとってのあらゆる「外部」が原理上「新たな視点」を生みうるでしょう。ここで「外部」は「文脈」と言い換えられる。そして「外部」から見て、異なる「文脈」の中に作品を置くことは、言ってしまえば情報の結合です。

 そして

 それ(批評)って、誤解を恐れずに言えば、とても迷惑な話だなぁと、批評のことを考えるにつけ思うわけです。

 どういうことか?

 ある作品Aがあったとしましょう。それは作品単体ではとてもつまらないもので、多くの人に叩かれているとする。しかし例えばある経験Bを持っている人には輝いて見える。つまり作品Aを経験Bと結合してABとすることで、作品Aは(ABは)輝くわけです。

 このとき、経験Bを持つ人物Cが作品Aを批評したとしたら。

 Cの語るABの輝きは間違いなく本物です。しかし経験Bを持たない人には届かない。的外れとすら感じられるでしょう。しかし批評をする人間ならその断絶自体は理解できる筈です。「ああ要するに経験Bがあればこう感じられるんだな」と。このとき、Cの批評に共感できないが理解はできる人間Dは作品Aを叩いていいでしょうか?

 経験Bという「文脈」の上に置くことでしかABという輝きをみせない作品A。それは万人にとって素晴らしい作品でないにしても一部の人にとっては素晴らしい作品です。ABという輝きはDには見えない。経験Bを持っていない人間にとってそれは「死角」にあるのです。でも見えなくても「そこにある」ことはCの批評からわかる。この作品A単体の中には存在しない、「外部」にあるABという輝きを、Dは踏まえて叩かなければならないのか? それとも踏まえる必要はないのか?

 とても難しい問題ですよこれは。倫理的な問題である以上答えはない。各々が判断するしかない。しかしDが叩けば(それが正当な反応かはともかく)Cは傷付くという事実は確かにある。答えが無いからといって無責任になんでもやっていいわけではない。

 DにとってCの批評はある意味では迷惑ですらあるでしょう。作品Aを叩くときに作品Aの外部にあるABのことも考えざるをえなくなる。ときにその批判の手を止めてしまう。無論Cの存在はその背後にC’、C’’、C’’’の存在を――つまり別の経験B’、B’’、B’’’と、別の輝きAB’、AB’’、AB’’’の存在を――感じさせるでしょう。そうなればもはや可能な批判などどこにもない。かくなるうえは、批判をするにはCもABも無視するしか選択肢は残されていません。そしてそのときD自身の批評の一部も無視を許可せざるをえなくなるでしょう。

 もちろん経験Bが比較的簡単にインストールできるような場合もあります。ただ批評を読めば自動的にインストールされるような場合さえある。しかしすべてがそううまくいくわけではない。「新たな視点」とは言い換えれば「死角」であり、その存在を認識するか否かで世界や態度は180°変わってきます。

 

 というような困難を「かわいい」にも見ることができます。むしろすべての困難はそこにあると言ってもいい。

 「かわいい」は不能な僕達の「死角」にあり、それは今後の努力次第で「新たな視点」として理解し還元できるかもしれないし、永遠にできないかもしれない。そのとき僕達が取るべき態度は「無視」なのか「軽視」なのか「蔑視」なのか「否定」なのかそれとも

 肯定

 なのか?

 あるいは別の?

 わからない。

 でも僭越ながら一つアドバイスするなら、その場その場でその場しのぎに考えるんじゃないくて、予め全体をコーディネートするべきですよ。

 統一性です。

 そこから「あえてはずす」にしても一度は自分の態度全体を統一させておく必要がある。でないと「はずし」ても劇的でもなんでもなく、埋もれてしまいます。

 つまり統一性もまた「文脈」なのですよ明らかに。内部の文脈を「統一性」と呼び、外部の文脈を「流行」と僕達は呼ぶ。そう簡単には言えるでしょう。「かわいい」とは単なる身体的な感覚ではなく、文化的・社会的な文脈を必要とする感覚なんです。いずれにせよ。

 その永遠ならざるもの、あるときには事実であり少し経てば嘘になるもの、瞬間的なイベントでそれ以上のなにものでもないもの、ある人には自明だけどある人には死角にあるもの、時間的にも空間的にも局所的にしか存在しないもの、外部、迷惑、しかし覆すことのできない「あってしまった」事実――そんな「かわいい」の扱いが僕達はものすごく下手です。下手糞です。ありえないほど。へたっぴ。

 でもすこしずつうまくなっていけばいいなと思います。だって僕達は一人で生きてるわけじゃなくて、外部に絶えず触れながら、外部の人間とのやりとりの中で生きてるわけだから、人を傷付けなくないようになるにはうまくなるしかないし、それをサボるような人間にはなりたくない。

 だから

 

 「かわいい」って言われたら

 「かわいいね」って言いたい

 

 

 

 

 

 

 

 

(執筆:かわいいね荻上かわいいね)

*1:もっとも、拘泥するだけで、実際に論理的である場合はかなり少ないし、女性と同程度だと思っています。むしろ「自分は論理的だ」という思い込みが激しくなりやすい分、わるいかもしれませんね。

かわいい反知性主義を生きろ

 さて、またしても、という感じですが批評再生塾の課題に外野からチャレンジさせて頂きたいと思います。

school.genron.co.jp

今回のテーマは、身近なものの中に潜む「アメリカ」、それを通してみる日本、日本人です。見出す対象は、あらゆる分野の作品、現象なんでも構いません。

 というのが今回の課題。

 それでは早速いってみましょう。

 

 

 ……と、思っていたのですが。

 残念ながら課題提出締切日は2日前に過ぎてしまっています。

 もちろん道場破りでは締切など関係無いとも言えるのですが、それも含めて最近ちょっと自分の姿勢がどうかと思うこともあり……ということは長くなるのでこちらに→*1

  というわけで(どういうわけだ)今回は課題にチャレンジという形はとりません。ただ課題について考える中でいろいろと思うところもあったので「課題を参考に」という形で記事を書いてみたいと思います。

 それでは、どうぞ。

 

アメリカ……?

 と、歪に意気込んでみたものの、いやはや困ったものです。

 アメリカってなんでしょう?

 みなさんわかりますか? 僕はもう全然、なにも思いつかなかったんです。

 アメリカというものがわからない。

 いやさすがに国であることは知ってますよ。でも例えばアメリカが何の象徴として読めるかとか、そういうことを僕は全然知らないなぁと、ふと気付いてしまったわけです。

 世間を知らない、社会を知らない、それゆえ、どう書いてみたものか、わからない。

 いま僕は、課題に対する批評再生塾生の方々の批評を読んだあとで書いているので、ある程度は分かります、ははぁなるほど「敗戦」をキーにすればいいのか、と(どれだけものを知らないんだという感じですが……)。でも、1、2週間くらい前からこうして悩んでいるわけで、そのときはなにも(ほんとうになにも)知らなかったんです。

 そこでまずはじめに一つの苦肉の策が浮かびました。

 言葉遊びでやってみること。

 言葉遊びなら前提知識がなくてもある程度できる。どういうことか?

 「ヤンキー」ですよ。

 最近話題の(すこし古いか)「マイルドヤンキー」から「アメリカの影」を見出せば、シャレもきいてていいのではないか。と思ったわけですがダメです。考えてみると「ヤンキー」と「アメリカ」は言葉の問題を無視してもイメージが最初から近過ぎて意外性が欠片もありません。しかも僕は「マイルドヤンキー」もまたよく知らない。(もう逆になんなら知ってるんだよ)(アニメとか……あ、でも最近忙しくてアニメもあまり見れてない)(お前は何も知らないな)(なにかは知ってるわよ、知らないことだけ)

 じゃあどうすればいいか。

 そう頭を捻っているとガガーーーンと閃くものがあったのです。

 それは今回の課題に提出された批評文のなかにも散見されたモチーフ、ビジネス・商業にまつわるすこし遠い記憶。

 新人研修のときの、グローバルマインド醸成的な……アレ!

 

忍びよるローコン

 日本は一般にハイコンテクストな文化圏だと言われています。

 コンテクスト、つまり文脈に大きく依存するコミュニケーション。典型的には「空気を読む」「察する」文化ですね。直接交わされる言葉の外にある「文脈」を利用することで「言わなくても伝わる」ことが多くなるわけです。

 一方アメリカは典型的なローコンテクスト社会でしょう。よく言われるのは移民が多い国はローコンテクストになりやすいということ。アメリカはブリバリに当てはまってます。まったく異なる文化的背景(文脈)を持つ者同士の社会では、共有できる文脈がそもそも少ないわけですね。例えば日本語では許される主語の省略も英語では許されない、ということも、こうしたコンテクスト依存度から言うことができそうです。

 というようなことを、習うわけですね。新人研修で。

 ハイコンテクストな日本、ローコンテクストなアメリカ、とまずは分けることができる。

 でも、

 果たしていまの日本は本当にハイコンテクストでしょうか?

 

 議論を始めればまず言われる「定義を明確に」、内容をそのまま説明してしまったかのようなラノベのタイトル、テレビを付ければテロップが頻繁に出て来て編集意図をしきりに「説明」し、笑い所さえ会場の笑い声に「指示」される。

 そこに日本的な「察し」の文化はありません。コンテクストではなく明確な指示。例えばテレビ番組における会場の笑いは、アメリカのホームドラマに挿入されるあの陽気な笑い声にいとも簡単に接続できるでしょう。移民の多いアメリカでは「ここが笑い所ですよ」と指示しなければならず(指示した方がうまくいき)、日本もそれに倣っている現状がある。

 ただし、こうした現状をそのまま批判するような、わかりやすくも平凡なことはしたくない。個人的にはラノベのタイトルはあれでいいと思っているし、そうでないものがあることももちろん知っています。議論に明確な定義が必要なのは当たり前でしょう。バラエティ番組の笑い声に対する批判も、これまで飽きるほど見てきたし、どちらかといえばそういう言説のいやな平凡さに辟易とするタイプなんです僕は。

 しかしそれはもすこしあとで話すとして、ローコンテクストという「アメリカの影」がどこから忍び込んできたのか、まずはそこを見てみましょう。

 

 ナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)

f:id:Q9q:20151017154329j:plain

  えー……すいません、上記の画像は話とはほぼ関係ありません。でも面白いですよね、これ。

 さて、「アメリカの影」はどこからやってきたのか、ということですが、わりに簡単な話です。そもそも僕が「ローコンテクストとハイコンテクスト」について学んだのはどこだったか?

 会社の新人研修。ビジネスの場です。

 上の画像でも言えることですが*2、ビジネスの場には着々とアメリカ的な価値観(個人主義、ローコンテクスト)が流入してきています。

 そしてそれは日本の状況変化にともなったものでもある。というのはつまり、交通の整備やインターネットの登場により、それまで「世界」とほぼ等価だった「ムラ」はそれぞれに接続され、異なるコンテクスト間のコミュニケーションが必要になってきます。ハイコンテクストな社会同士のコミュニケーションはハイコンテクストになりえません。なぜなら同じハイコンテクストでも共有するコンテクストの内容がそれぞれ違うからです。特にポストモダン以降よく言われるようになった「島宇宙化」に伴って、たとえ島宇宙内ではハイコンテクストなやりとりが通用しようと、島宇宙間ではローコンテクストにならざるをえない。こうした事情はもちろんビジネスの場にも出てきており、むしろビジネスの方がより島宇宙的で移民社会的です。なにしろ「外の会社」と取引しなければならないわけですから。またそれがなくともグローバル展開を望む上ではローコンテクストな「訓練」は避けられません。

 

ハイコンテクスト再考(ハイコンテクスト最高!)

 「アメリカの影」が忍び込み浸透した原因がわかったところで、もう一度「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」について考えてみましょう。

 「空気を読む」という言葉に代表されるように、ハイコンテクストは聞き手・読み手の側に文脈を加味して「聞く能力」「読む能力」を求めます。だからこそ話し手・書き手はある程度の情報の省略を許される。

 逆にローコンテクストでは話し手・書き手の方に責任の比重が寄っていると言えるでしょう。ロジカルに話し、書かなければならない。実際新人研修でもローコンテクストな訓練の大半は「話し、書く」ことについてでした。ローコンテクストに書かれた文章は書かれるべきことがすべて書かれているので、読んだり聞いたりするのがそれほど難しくはないのです。

 要するに、ハイコンテクストは聞き手・読み手に厳しく、ローコンテクストは話し手・書き手に厳しい。ということが言えそうです。

 このことから日本がローコンテクスト化していることが如実にわかります。

 

 いまの日本は話し手・書き手に厳しい社会です。

 漫画でも小説でも批判ばかりが台頭し、読者側の自省はあまり見られない。何か言えばすぐにツッコミが入り、創作者は過度に倫理的な態度をほとんど常に求められます。そしてそこから外れれば炎上。

 オリンピックエンブレム問題でも似たような事は起きていました。「デザイン業界特有の論理」という強いハイコンテクストに向けられた多くの批判は、すなわち「もっとローコンテクストに(わかりやすく明確に!)説明しろ!」というものでした。そう、テレビ番組のテロップや笑い声のように、ローコンテクストな社会では常に「説明」が求められるのです。それも明確な説明が。

 ここでようやく、テレビ番組のテロップや笑い声批判に垣間見える「いやな平凡さ」の正体が見えてきます。それは「説明」「指示」を行う日本のローコンテクスト化を嘆きつつ、製作者(話し手・書き手)側に責任を求めるというローコンテクスト的な態度から脱し切れていない。つまり矛盾しているんです。

 ここから、本当に取るべき態度が見えてきます。

 変わるべきは作る側じゃない、僕達読む側なんだ。

 ということ。

 

取り戻すためには

 バラエティ番組の「笑い声」で笑い所を「指示」されるから、それには従わず笑わない。俺は笑い所を指示されるような凡百とは違うのだ!

 って考えの悲しいほどの平凡さには涙が出るし間違っています。

 「ボケて」の画像ボケが貼られるスレで「全然面白くない」とアピールするような人間は、はっきり言って自分が思うほど平凡さから脱し切れてはいません。なぜならそこには「俺を笑わせてみろ」という受け身な態度が隠れていて、自分からはなにも創っていないからです。

 批評とは、読むこととは、創ることです。

 「笑い声」で笑い所を「指示」されたなら、笑えばいい。みんなが「ボケて」で笑ってたら、笑えばいい。あなたの個性を発揮するのはそのさらに向こう。「さらに笑うこと」。指示されていないところまで、皆が笑っていないところまで自分から「笑いに行く」こと。そこでようやく、僕達「読む側」の創造力が試されます。

 つまらなく感じたなら、笑いどころが見つけられなかったなら、それは「読む側」の自分が悪い。――極端にはそう思えるような精神がなければ、受け手側が創造力を発揮する(できる)状況は取り戻せません。

 

 また別の話をしましょう。

 先程も言った通り、ローコンテクストなアメリカ的な価値観はビジネスの場から流入してきています。逆に言えば、漫画家や小説家のようなクリエイター側にはまだあまり流入してきていないと言えるかもしれない。ビジネスとは少し遠い世界にいるからです。もちろん商業主義が無いわけではない。アメリカが無縁なわけでもない。でも恐らく、漫画家や小説家はデビュー前にローコンテクストなコミュニケーション能力を培う研修を出版社から受けさせられたりはしていないはずで、それはこうした創作の世界がビジネスの世界ほど明確な「利益/損害」の論理で動いていないからです。

 つまり変わったのは僕達受け手側で、僕達さえ再び変われば、日本の文化状況を変えられるかもしれない。

 

 では具体的にどう変わればいいのか?

 そんなことはわかりきっています。

 

 「かわいく」な~れっ!

 

「かわいい」を創ろう

  今回の課題について悩む中で、「ヤンキー」と「コンテクスト」の間にもう一つ、思い付いたアイデアがありました。

 「カワイイ」です。

 これはある意味ではとても順当な選択です。そもそも『動物化するポストモダン』が何故あれほどまでに衝撃的だったかと言えば、それまで極めて日本的だと思われていた「アニメ」の中に「アメリカの影」を見つけた――というスキャンダルの存在が一つの理由だったと言えるでしょう。つまり、我々が「日本的」だと思いたい・思いたがるモノについて「アメリカの影」を見出すのが一つの有効な戦略であり、一つの正着だと言えるのです。

 その意味で「カワイイ」は絶好のモチーフです。

 海外から日本の特異な文化だと見られていて、クールジャパン政策においても掲げられる、もはや日本のアイデンティティの一つ。そこに「アメリカの影」が混入していると言えれば、なるほどある程度のセンセーショナルさは確保できそうです。加えて『アメリカの反知性主義』と繋げてみてはどうだろう? 確かに、女性の言う「かわいい」に対する男性側の批判(「全然かわいくないものにかわいいと言う」)は、反知性主義に対する批判と繋げられるかもしれない。

 

 が

 

 つまらないんですよ、そんなものは。

 そもそも僕はずっと前から男性側からの「かわいい」批判の平凡さが、気に障って仕方が無いんです。まるで「本当に可愛いもの」と「本当は可愛くないもの」の別が客観的に存在するかのような言い様には自己自身への盲信が垣間見えるし、「かわいいと言ってる自分がかわいいと思ってるだけなんだろ」的な下衆の勘繰りには男性の不能さを見せつけられるようで、もうやめろ、と言いたくなります。そう、不能なのです。女性が本来かわいくないものを「かわいい」と言ってるわけじゃなく、女性の「かわいい」に対して僕ら男性は圧倒的に不能で、その不能が悔しいからなにやら負け惜しみを言っているに過ぎないのです。

 多くの男女関係では、男性は「かわいい」と言う側で、女性は「かわいい」と言われる側です。つまり男性側からの「かわいい」批判は、結局は言われる対象への批判(「そんなに可愛くない」)であり、やはり自己の感性への疑いがまったく見受けられない。単なる自己の絶対視。それではダメなんです。自分自身が「かわいい」と言われうる女性と、言われることの少ない男性と、どちらが「かわいい」について熟知しているか、言うまでもないでしょう。

 またクールジャパン政策において「カワイイ」文化をアピールすることが本当の日本文化の輸出にはならないことも付言しておきましょう。海外の、特にローコンテクストな文化圏の人々は、恐らくパッケージングされた「カワイイ」は理解できても「かわいい」は理解できないでしょう。それは日本人男性と同じく、不能であるからです。

 この圧倒的な「わからなさ」。それこそが「かわいい」の本質であり、それ自体「ハイコンテクスト」である証であり、そして「自分から笑いに行くこと」に繋がる。「笑い所を指示されたくない」と言いつつ「指示した以外のところで「かわいい」と言うな!」というのは哀れな矛盾に過ぎないのですよ。そして「言われなくても笑う/かわいいと言う」ことこそが「アメリカの影」に風穴を開けるきっかけとなりうる「なにか」なのです。

 「かわいい」は反知性主義的です。それは知性に反抗するという意味ではなく、知性では絶対に捉えきれない、という意味で反知性なのです。そこから「アメリカの影」に繋げることはできる。でも、それで捉えきれるような生易しいものではありませんよ「かわいい」は。なにしろ「かわいい」に「アメリカの影」を見ようとする営為もまた知性的な、知性の持つ不能性を回避できませんから。そういうやり方ではダメなんです。

 あくまで反知性的に「かわいく」あること。

 そして、言いましたね? 読むこととは創ることであると。

 つまり男性である僕達もまた、ほんとうにその気になれば、

 「かわいい」を創る

 こともまた不可能ではない。

 そしてそういう「賭け」、「命がけの跳躍」がなければ、

 ローコンテクストに侵食されつつある状況を変えることはできないでしょう。

 「説明」のできないなにものかの存在を感じて、それを――たとえ他者に理解されなくても「かわいくないだろ」と言われようとも――「かわいい」と言い続けること。

 そういう生き方っていま必要なん…………じゃなくって!

 

 必要じゃなくてもかわいく生きたいならそうしろってことだよっ!

 

 

 

(執筆:かわいい荻上かわいい)

 

※後日、「かわいい」についての自分なりの論考をまとめるつもりです。

※書きま↓

q9q.hatenablog.com

 

*1:そもそも、課題の真のターゲットである批評再生塾生のみなさんと、道場破りとでは、課題提出の重みとか意識が天と地の差なわけですよ、当たり前ですけど。だからこそ道場破りでは締め切りを度外視したりもできるわけで。もちろん道場破りが塾生と同じ意識を持つ必要はないし、そんなことは不可能だし、そうした意識の差は批評自体の質の差となって結局は表れるので最終的には帳尻が合う、だからいいとも言えるのですが、一方で、なんかなー、とも思うわけです。他の誰かが極めて慎重に綿密に緻密にやっていることを、自分だけは不可避に相対的に不真面目になってしまうというのは、あまり気持ちのいいことではありませんよね。道場破りがもっと増えればそうしたある種の罪悪感も軽減されるんだと思いますが、ってつまり、塾生と道場破りの間にある如何ともし難い「差」を明言した上で、道場破りを続けるというのが、現状ありうる倫理的な態度……だといま僕は思ってるわけですが、実際どうなのかはわかりません。ともかく僕は、道場破りとして、一本線を引いた上で、その「外」で、質の低さを見苦しくエクスキューズしながら書いてみたい、と思うわけです。本当に、過度に自意識過剰なのが自分でもまざまざとわかって嫌になりますが。

*2:まぁこの画像はパロディで、元の漫画について言うべきですが

ニュートリノを批評する

 ……ニュートリノ…………ノーベル賞…………

 つけ放しにしていたテレビからふと耳に絡みついた単語に僕はギクリと背筋をふるわせ

 やはりか……と呟いた。

 

 <彼女>との出会いはいつだっただろう? いや、私的な話はよそう。こんなときに限って親密さをアピールするようでは、かえって<彼女>の品位を貶めてしまう。

 それよりも軽やかで、捉えどころがなく、猫の目のように移ろいやすく、なにより謎めいた<彼女>について、あらためて語ってみたい。

 

エネルギーはどこへ消えた?

 <彼女>ははじめ、華麗なる怪盗として我々の前に現れた。

 中 性子さんが時折陽子さんへ変身することは既に周知の事実であったのだけど、この変身を描いた<彼女>のある意味においての《処女作》といいうるであろう『β崩壊』には、ある一つのスキャンダルがあった。

 エネルギーが失われること。

 最初に疑われたのは変身の際に放出される電子さん。実際電子さんはエネルギーをいくらか持っていくのだけど、持っていく量はその時々によって異なるし、収支も合わない。

 ではエネルギーはどこに消えたのか?

 誰か、エネルギーを盗んだもう一人の登場人物がいる――そんな奇妙な推理を組み立てたのが二人の天才、パウリとフェルミだった。

 登場していない犯人の予言、そんなことはどんな名探偵にだってできないのではないだろうか? しかしそれをやってのけた。

 世界という書物に巧妙に隠れた<彼女>の姿を、まるで水の中から透明な寒天を掬い取るように、精妙な手つきで取り出してみせた彼らには、感動さえ覚える。フェルミの論文を「推測的過ぎる」として掲載拒否した雑誌Natureは、のちに創刊以来の大きな編集ミスの一つであったと認めたそうだ。

 

 そうして<彼女>の存在は予言されながらも、誰も<彼女>の姿を見たものはいない。

 ただしその《痕跡》を捉える者が現れる。

 

 見えないものを見ようとして

 誰にも見えないと言われる<彼女>を捉えたいと多くの天才たちが願い、ライネスとコーワンもその中のひとりとひとりだった。

 『β崩壊』を起こせば<彼女>は現れる。『β崩壊』が多く起こっているのは?

 原子炉の中。

 原子炉の近くなら<彼女>を捉えられるかもしれない。しかし、どうやって?

 <彼女>は見えない。パウリとフェルミは<彼女>が中性であると予言した。どうやって中性の<彼女>を捉えればよいのだろう?

 それに<彼女>たちの世界にいるのは<彼女>だけではない、宙からはミューオンさんや電子さん達が大量に降り注いでいる。雑踏の中で見えない<彼女>だけを捉えるにはどうすればよいだろう?

 ライネスとコーワンによって取られた方法は、あまりにも画期的だった。

 <彼女>を生む『β崩壊』を逆用すること。

  『逆β崩壊』

 中性子さんが陽子さんへ変身するとき、<彼女>は現れる。では陽子さんを待ち伏せさせておけば? 陽子さんと出会った<彼女>は陽電子さんを生み出しながら陽子さんを中性子さんに戻す。しかもこのとき陽電子さんは電子さんと『対消滅』して二つの光子さんを生み出し、中性子さんは数μ秒漂ったあと原子核さんに捕獲されて、そこでも光子さんが生まれる。この独特な時間差をともなった二つの光子さん発生イベントを捉えることで、雑踏の中から<彼女>の痕跡だけを見つけることができる。時間差トリックの罠を張ることで。

 

 ついに神出鬼没の怪盗の《痕跡》が見つかった。

 そして<彼女>はいくつかの証言と新たな謎を同時に告げる。

 

手のひらを太陽に透かしてみれば

 <彼女>は『核分裂』や『核融合』で生まれる。逆にいえば<彼女>を捉えることで『核分裂』や『核融合』が起こっている場所を探すことができる。

 そして<彼女>は太陽からやってきていた。つまり<彼女>は証言している「太陽では核融合が起こっている」と。それになんでも突き抜ける突き抜けた<彼女>は太陽の中さえも突き抜ける。太陽の内側で起こっていることも<彼女>は知らせてくれる。

 だけどそれは新たな謎の誕生でもあった。

 <彼女>の数が少ない。

 これまで考えられていた太陽の中の反応から予想される<彼女>の数の1/3ほどしか<彼女>は地球に来ていなかった。我々は太陽について思い違いをしていたのだろうか? だけど太陽のあの輝きと、<彼女>のエネルギーは逆に我々の太陽のモデルがそう間違っていないことを証言してもいる。

 矛盾する二つの証言。

 <彼女>のかけた謎に天才たちが挑む。

 

星のおわり

 <彼女>が提示した新たな謎を解く前に、もう一つの証言についても話しておこう。

 太陽のような星たちは、最期にひときわ輝く。

 『超新星

 <彼女>はそれも知らせてくれる。一直線に僕達のもとへ飛んできて「起こったよ」と知らせてくれる。

 “大統一理論”の一つの証拠となる陽子さんの自然な崩壊、このあまりにも貴重な瞬間を捉えようと「カミオカンデ」で待っていた天才小柴昌俊さんは、ふいに<彼女>の知らせを耳にする。

 <彼女>は多くのことを僕達に教えてくれる。太陽のこと、超新星のこと。

 でも一筋縄にはいかない。<彼女>はいつも謎めいている。

 

三つ子の入れ替わりトリック

  さて、それでは<彼女>のかけた太陽に関する謎に戻ろう。

 太陽から来ているはずの<彼女>は少なかった。残りの<彼女>たちはどこへ消えたのだろう?

 素粒子たちの姿を描く、いま最も信頼されているであろう理論“標準理論”では<彼女>は三つのタイプを持つ三つ子だとされている。太陽で生まれる電子型と、ミュー型とタウ型。

 謎めいた三姉妹。

 そしてそれまで捉えられていたのは電子型の<彼女>。

 

 もし

 電子型の<彼女>が別のタイプに入れ替わっていたら?

 

 それは、およそありえない、すくなくとも“標準理論”に書かれていないことだった。中性子さんが陽子さんになったりするのとはわけが違う。想像を絶する変身。

 しかし三人の天才、坂田昌一さん、牧二郎さん、中川昌美さんはこの奇妙な変身を理論化し、「スーパーカミオカンデ」で待っていた天才、梶田隆章さんはミュー型の<彼女>を捉えることで<彼女>の揺らぎ、振動を知った。

 『ニュートリノ振動』を。

 

 そしてもう一つ、そこからわかる意外な事実。

 “標準理論”では質量をもたないとされる<彼女>の秘密――。

 

 <彼女>は質量をもっている。

 

 また一歩、僕達人類は謎めいた<彼女>に近付くことができた。

 

秘密の<彼女>

 すこしは<彼女>のことがわかってきた僕達。だけどまだ<彼女>は多くの謎を纏っている。

 <彼女>は質量をもたない光子さんより速いという噂が流れたこともあった。多くの驚愕を呼んだこのアリバイトリックは、ケーブルの接続不良によるものだったことが明らかにされた。

 <彼女>が質量を持つことがわかっても、どのくらい質量があるかはまだ正確には分かっていない。<彼女>たちの振動をみることで3つのタイプの<彼女>たちの間の質量差はわかるけれど、誰が誰より重いのかは謎が残されている。

 <彼女>の超対称性粒子は《ダークマター》の一員だという噂もある。美しい女性には危険な謎がつきものだ。

 

 <彼女>の魅力を一言で言い表すならば、それはやはり「謎」だろう。

 謎めいて、ミステリアスで。

 広い意味での――『ミステリ』

 未だ多くの天才たちを魅了してやまない<彼女>の謎。

 謎はある。謎はまだまだある。

 <彼女>はマヨラーなのか? <彼女>たちの中にステラいるのか?

  謎がある限り、天才たちは<彼女>との語らいをやめないだろう。凡夫たる僕はそれをただ眺めることしかできないけれど、それでも十分過ぎるほど<彼女>は魅力的だ。

 <彼女>を批評する。そんなことはできないのかもしれない。

 だけど、それでも、僕は、僕達は<彼女>について語るのをやめられない。

 外部たる僕が語ることで<彼女>の別の魅力を引き出すことなどはできないだろうか?なんてことを考えながら。

 

 

 

(執筆:弱い荻上

 

不条理な批評 ただの野性の爆弾たち

 批評はどう書くべきか?

 批評とはどうあるべきか?

 ということについて、最近よく考えます。僕が考えることじゃないかもしれませんが、よく考えます。

 それというのも、僕は前回の記事の中でも書いたように「批評とは外部の視線の導入である」という考えに賛成しつつ、しかし一方でネットでこれまでに「批評に外部を取りこんではいけない(作品だけを見ろ)」というような言説に幾度か触れて、それに納得した自分も確かにいるわけで、つまり僕はこのふたつの考えに引き裂かれてしまっている、という状況なわけです。

 これは非常に面倒なことです。なにしろ僕の中でこのふたつの「派」はそれを発した人々と関連付けて記憶されているし、となれば単純に「どちらが正しいか」だけ考えるわけにもいかない(そもそも考えても答えは出ないでしょう)僕はどちらの派に関連付けた人のことも好きだし、するとやっぱり僕は引き裂かれる。

 でも、放っておくわけにはいかない。そこで前回は前者(外部の取り入れの推奨)で書きましたから、今回は後者(外部の取り入れへの警鐘)に近いところで書いてみましょう。

 しかしそれは「外部を取り入れずに書く」ことではなく、「最も外部を取り入れてはいけないであろう対象について外部を取り入れて書く」ことで果たされます。

 

「批評してはいけない」対象

  批評とは本当に難しいもので、対象の魅力を何倍にも増大させるものもあれば、むしろ魅力を減じてしまうこともあります。

 語れば語るほど魅力を減じてしまうものの代表格として「お笑い」が挙げられるでしょう。

 「笑いの解説」ほど寒いものは無い。そう思いながらも、生来の分析せずにはいられない性向に駆り立てられるように「お笑い」について語ってしまうという愚行は、実は既に僕は犯しています。下記の記事がそれですね。

q9q.hatenablog.com

  ただ、今回の趣旨の上ではこの記事でははっきり言って甘い。

 解説を嫌う笑いの中でも、更に解説を拒否するジャンルがお笑いにはあります。

 「不条理」と呼ばれる種類の笑いです。*1

 それについて、語らなければならない。

 

不条理と批評の問題点

 僕はお笑いの中でも「不条理」と呼ばれるものが特に好きです。

 「笑い」の基本はなんといっても「ボケ」と「ツッコミ」のコンビネーション。これは常識からはみ出る「ボケ」に対して「ツッコミ」を入れることで再び秩序の中に引き戻し、物語化する(秩序の中での地位・意味を与える)ことで笑いを生む、というものだと言えるでしょう。

 フットボールアワー後藤さんの絶妙なツッコミなどを見ればわかりますが、ツッコミは「すっきり」「ピッタリ」くる納得感が重要です。「それそれ!」と思わず膝を打ちたくなるような「ちょうどいい」的確さ。言ってしまえば「秩序の笑い」なんですね。

  一方でツッコミでは回収しきれないような笑いもあります。最近はこのタイプが多くなっていると感じる。例えばムーディ勝山の『右から来たものを左へ受け流すの歌』はツッコミ不在の不条理ネタです。レイザーラモンRGの『~あるある早く言いたい』ネタも周囲から「早く言え」とツッコミを受けつつもボケはツッコミで停止せず、言わないまま進む。不条理系の芸人で言えばネプチューン堀内健鳥居みゆきが有名でしょうか。これらは秩序には容易に回収されない「混沌の笑い」と言えます。

 ここでどちらかと言えば「混沌の笑い」が好きな僕には、同時に一般的な批評の問題点が見えます。

 批評とは、外部の視点を導入……の前に! そもそもその多くは作品や状況に対する「解説」という形を取ります。それまで関連付けられて考えられていなかった要素を結びつけ、新たな因果性を見出す。それはひとつの「物語化」であり、お笑いで言えばフットボールアワー後藤さんの絶妙なツッコミに似たもの、すなわち「秩序の笑い」の類縁だ。

 ここで一つの疑惑が浮かび上がる。すなわち、批評は「新たな視点」を導入するものであると言われていますが、本当にそうだろうか? むしろ絶えず様々な対象を因果で繋いで「物語化」することで、そうした操作自体の自明性を補強してはいないか? そうして因果性の内側に閉じこもることで、ある種の突飛な「新たな視点」はむしろ無視され、作品や状況に対する視線は「硬直」してしまいはしないか? 果たして東浩紀さんを無視してポストモダン以降のオタクを語ることは可能だろうか? 果たして「決断主義」という言葉を使わずに平成仮面ライダーを語ることは可能だろうか? ある強力で強固な批評はその後の対象に対する視線を固定してしまうほどの力を持っていないと本当に言えるでしょうか?

 思えば僕達の権威意識やそもそも批評が仮想敵とする「現在の画一的な視点」自体、批評が由来ではなかろうか?(揺らいではなかろうか?)

 

言語ゲームの「書き換え」

 こうした視点の硬直は、言語ゲームの硬直とパラレルであると言えましょう。そしてこのような「状況」に対して、その処方箋を「外部」たる文化に求めようというのが前回の記事でした。とすると、今回は「お笑い」こそがそれに当たるのでしょうか?

 「お笑い」は言語ゲームを書き換えうるのでしょうか?

 もちろん、書き換えます。

 お笑いは実際、これまで多くの言語ゲームの書き換えを行ってきました。特にダウンタウン松本人志さんの功績は数えきれません。例えば「面白くない」ことを指して言う「サムい」も松本さんが流行らせたものらしく、現在の僕達の日常言語に夥しい影響を与えていますが。

 そこが「お笑い」の可能性なのか?

 いや

 違う。

 言語ゲームの書き換えならば、批評でも他の文化でもあらゆるところで起こっています。「お笑い」に特有なのはあの「笑い」という痙攣的な肉体の反応があること。つまりそこには動物的な、あるいは動物的でも人間的でもない境界の「なにか」があるはずで、そこが特色になるはずです。

 

 さて、再びお笑いに話を戻しましょう。

 僕は不条理な笑いが好きですが、なかでも特に好きなのが野性爆弾天竺鼠です。

 

野性爆弾天竺鼠・ぼく脳

 僕は不条理な笑いが好きですが、なかでも特に好きなのが野性爆弾天竺鼠です。

 この二組は、本当に飛び抜けています。思いもよらないボケがどこからともなく飛んできて、正体不明のまま去っていく。その独特の不条理感はやみつきになります。

 不条理なボケは、僕達が普段使っている言語ゲームの外側にぽっと出ます。しかし出たままで秩序に回収されない。つまり不条理なボケは僕達の言語ゲーム書き換えないのです。なぜなら彼らのボケはいわば名人芸であり、誰にでも簡単に真似できるようなものではない。

 だがそれがいい

 言語ゲームを書き換えてしまえば、つかのま外部であったそれは内部に組み込まれます。つまり外部にあることで担保されていた批評性は長続きしない。しかし不条理は内部に組み込まれる事を拒否することによって、半永久的に言語ゲームの「外部」であることができるのです。

 そ、ここで再び批評の問題点が現れます。

 「外部の視線を導入」する批評は、導入することによって「内部」と「外部」を因果性により結節してしまう。すると「理解不能」でなくなった「外部」はもはや「外部」たりえない。むしろもとの「内部」と繋げて考察することが自然なものとして受容され、ある意味では「内部」に組み入れられてしまう。

 「外部」であったものを因果性で繋げることにより物語化してしまう批評は、その他者性を亡きものにしてしまう暴力性を孕んでいると言える。

 

 まとめましょう。

 お笑いが明らかにする批評の問題点は以下の2つ。

 

 1.視線の硬直を生むこと

 3.「外部」を「内部」にしてしまうこと

 

さて、ここからが本番です、こうして明らかにされた批評の問題点にもかかわらず、この問題多き批評の方法を使って僕は「不条理な笑い」を論じなければならないのです。それが最初の宣言でした。困ったなあ。

 先に挙げた批評の3つの問題点は、その実すべて同じものであるとも言える。そして「外部」を「内部」にしてしまう批評にとって、「外部」であり続けることが可能な「不条理」を批評することは、それ自体が対処療法的ではあれ一つの処方箋になりうると考えるのは順当というか至極平凡な発想とまで言えるでしょう。

 そう、本当に不条理が「外部」であり続けることができるなら、僕が批評のぬらぬらした触手によってそれを「内部」に組み入れようとしてもできないはずなのです。

 それがいま必要なんちゃうか? つまりなんや不条理な批評? が?

 「外部の視線を導入」しようとしつつそれができないこと、失敗すること、千原ジュニアさん、ご結婚おめでとうございます*2再び「外部」へ去っていってしまうこと。*3ではやってみましょう。

 

 野性爆弾のネタは「エロス」と「タナトス」の混交である。

 野性爆弾川島さんが多用する「歯」*4や「銀歯」*5というワード*6には生のイメエジと死のイメエジが交錯しています。彼の描く「似顔絵」は男性であれ女性であれほぼ例外なくふくよかな胸をもって描かれますわよ。これは「生命」「エロス」であり、同時に*7禿げ頭で描かれる事が多いのは「死」「タナトス」の象徴であろう。彼は軍帽に似た帽子をかぶって、ネタやバンド「盆地で一位」*8の楽曲*9でも戦争を題材にすることは多い(多い)*10。戦争は言うまでも無く*11生と死がせめぎあう葛藤の場である。僕は前回の記事*12で「ことばの使い方」「言葉遣い」が思考を規定するので気を付けましょうと言っておきながら自分は「ですます」調に未だ縛られ退屈な思考に今以て縛り付けられているのは欺瞞である。こうした「エロス」と「タナトス」という視線で見ると、やがて一見して不条理だった野性爆弾の笑いを貫く必然性が見えてくる*13*14

 例えば野性爆弾ファンにはおなじみであろうネタ。番組の収録中に突然フリスク*15を取りだしたかと思うと口に放り入れ、「おい、くーちゃん、なに食ってんねん」*16*17*18と言われると「あ、これですか?」「これ、母の遺骨です」という一連の流れには、母(エロス)の遺骨(タナトス)を食べる(エロス)というエロスとタナトスの反復が見られる。

 あるいはYouTubeでも見られる野爆テレビのワンコーナ「うめだから世界へ」のケーキづくり回。そこで作られた伝説的ケーキ「ゆっくりしいや」に底流するエロストタナトス*19*20は言うまでもないだろう。*21

 野性爆弾の爆弾コントにツッコミはいない。ツッコミ担当であるはずのロッシーは野性爆弾に独特の奇怪な世界観の中で翻弄される被害者であり、私達にとってのボケは彼にとって世界そのものである。彼は原理的にツッコミを入れること出来ない。彼 ボケの「内部」に住まう、「外部」からの回収(ツッコミ)できない。必然ですね。*22そしてそれは「エロス」と「タナトス」に深く結び付いている。どういうことか。つまり彼らのネタは「世界」の提示であり、それはこことは違う別の場所ではなく、「ここ」この世界のないぶに隠蔽された「エロス」と「タナトス」を開示することで別様に見えているこの世界そのものなのですよ。

 内部のさらに内部に深く潜ることで、一見して外部に見える最内部の奇怪さを、それによる笑い。それこそ彼らの不条理の正体であり、ここで僕達は「内部/外部」という二分法の更新を迫られる。デリダソクラテスパロール*23に内在するエクリチュール*24を見抜いたように、パルマコン的に「内部/外部」を脱構築する必要がある。つまり、内部にこそ外部はあるのであり、外部にもまた内部は絶えず侵食している*25

 そう*26、「混沌」はそもそも我々の内側にあるのであり、「外側」とはそれが投射されたものに過ぎない。はじめにEXCELがあり、言葉*27などの象徴秩序はその防波堤として作られ。権力の力点*28は他者の視線*29にオフィス*30。「内部/外部」の境界は俺達の肉体ではなくオレ達のはるか内側に有って無い。アテナイ。不条理な笑いはこの境界を侵犯する祝祭である。消尽である。エロスでありタナトスである。アルパでありお前ぇだ!

 となる(と)

 野性爆弾に「外部の視線を導入」しようとするとき、それは「最内部」を使わなければならないので*31

 しかしどうやって?

 ここで再び彼らの手法に見習おうではないか?

 彼らの不条理さの中には一定の必然性が垣間見える。しかしそれは内的な必然性であり、必然性自体の必然性は外部からは見えない。あくまで彼らの内部に立って彼らの必然性のありようを眺めるとき、彼ら流の「物語化」*32の操作が見えてくる。

 野性爆弾の爆弾コント『真珠』を見てみよう。

 

 真珠を取りに海へ出たロッシー。溺れそうになったところを魚にパーマンバッジを貰い助かるも、渦潮に巻き込まれてしまう。

 ロッシーは「ちゅぴん ぽとん」という音に目を覚ます。見ると周囲には夥しい量の裸の男性の死体が転がっており、戸惑う間中「ちゅぴん ぽとん」はずっと聞こえている。耳を澄ますと「ちゅぴん ぽとん」はどんどん近寄ってきている。焦るロッシー。「ちゅぴん ぽとん」はさらに近付く――。

 そして姿を表す「ちゅぴん ぽとん」の正体。それは転がる男性の男性器を鎌で切り取り(ちゅぴん)背中の籠へ放り込む(ぽとん)音だった……

 

 彼らは正体不明の「ちゅぴん ぽとん」を放置はしない。その理由付け、正体の開示――物語化は彼ら不条理のともがらの間においても為される。通常と違うのはその着地点が再び通常の「内部」にはないこと、外部から外部への跳躍であることであろう。しかしここで外部と見えるものは実は外部ではなく、隠蔽された「最内部」たる「エロス」と「タナトス」です。ちゅうことがわかるんや。

 こらえらいこっちゃで。

 

 

 ……以上は野性爆弾を題材にテマティスム批評に似た(?)なにかを試みたものである。

 そしてここでいくつかの指針が得られた。

 

 4.単なる「外部」を取り入れるのではなく、「内部」の更に内側に潜った「最内部」の視線を導入すること

 5.これにより内部と最内部を因果性で繋いで物語化すること

 

 この新たな物語化・新たな批評はしかし本当に新しいだろうか?という疑いは無視して何故なら論点はそこにない。論点は以上の批評が「野性爆弾」そのものの魅力を増大させたかということであり、それは僕の見るところ果たされていない。だから言うたやろ!*33

 「外部」が「最内部」の去来であるということはいいにしても、それが野性爆弾の魅力を増大させる役に立つことは無い。それはこうした説明が野性爆弾の本当の面白さを説明できていない証左であり、それは本来的に不可能なのだろう。

 失敗したのだ。

 「不条理」は捉えようとしても捉えきれない。捉えた(隠れた必然性を見つけた!)と思ったとしてもそれはダミーで、その証拠に魅力は伝わらない。それは、捉えきれない。

 更に野性爆弾について考えることは当初の問題意識さえも無効化してしまう。つまり「批評とは外部の視線の導入であるべき」なのか「批評は外部を語るべきではない」のか。既に「内部/外部」の境界が瓦解してしまった今となってはそこに違いなど無いし、どちらの方法を取っても彼らの魅力を減じることなく伝えきることはできない。

 ならばと、内容でダメなら形式面で彼らの笑いを反映しようと不条理に批評を展開してみても、このとおりダダスベリである。不条理な笑いは素人に簡単に真似できるようなものではなく、またしても僕は「外部」たる彼らの「内部」への取り込みに失敗する。

 失敗。失敗。失敗。

 しかし失敗を続ければ続けるほど、彼らの「外部性」は色濃く映し出される。少なくとも僕にはそう見えます。いや、ほんとに。で、それってとても重要なことだと思うんスよね。

 対象を批評しようとしながらも、絶えず「届きえない」ことを意識することを、僕はいつしか忘れていたような気がします。まず最初に「不可能」であって、だからこそ僕はそれでも論じ続けてしまうのではないか。

 「語りえない」ものは

 「限界」によって「示す」しかない。

 つまり「失敗」によって。

 

 不条理な笑いを創り出す芸人たち。

 彼らはただの野性の爆弾であり、彼らを語ることは彼らの面白さを伝えることにはなりえない。彼らはただの野性の爆弾であり。

 それでも、論じてしまう。

 何度でも、何度でも

 ふたたび失敗しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スペースキャンサーーーー!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(執筆:ブラック荻上

*1:ラッスンゴレライもジャンルとしてはおそらく不条理に分類されますが。

*2:千原円札に描かれた人。あまり関係ないがWikipedia野性爆弾」の項にも掲載されているほど千原ジュニア野性爆弾のたいへんお世話になっている先輩にあたる。

*3:ご静聴ありがとうございました。異常で荻上3の発表を終わります。次の発表は既に始まっております。ご期待

*4:

*5:奥歯

*6:WORD

*7:とりわけ女性に多いような気がするが

*8:前述のフットボールアワー後藤さんも、多忙なため不定期ではありますが、ギターとして参加されています。

*9:ド下ネタが多いのでご注意を。下ネタが受け付けない人にはおススメできません。

*10:多い

*11:いや言うんかい

*12:http://q9q.hatenablog.com/

*13:いや見えてくるんかい

*14:見えてきたあかんやろ、不条理じゃなくなってしまうので~~~~

*15:負リスク

*16:くーちゃん:野性爆弾川島さんの愛称

*17:食ってるんだ:「食ってんねん」の意

*18:余談であるがテレビで聞いた誰かのセリフに漢字を入れるかどうかは(どうかと思う)本当にその漢字が意図されたかどうかは決定不可能なのだ。

*19:スキトキメキトキス

*20:ヘルメストリスメギストス

*21:いや言わんのかい

*22:核心ですので。

*23:バロール

*24:チュール

*25:あるいは批評によって?

*26:So

*27:WORD

*28:POWER POINT

*29:OUTLOOK

*30:力尽きた

*31:わたし……残酷ですので

*32:化物語』って「物語化」だよね。

*33:極度の天然として知られる野性爆弾ロッシーさんは目の前で交通事故が起きた際「だから言うたやろ!」と言い放ったという逸話が残っています。

ことば<ベルク・カッツェ>を超える者 一ノ瀬はじめ

 既に二度ほど挑戦している批評再生塾の課題に、今回も挑戦してみたいと思います。

 現在の最新課題は第9回「文化について書くことで状況を語り得るのか」というものです。

school.genron.co.jp

 

 主な課題の内容は「2010年以降の日本が直面している問題点を効果的に指摘し、それに対する処方箋も示唆できる事象(書籍、映画、マンガ、音楽、社会現象など、なんでもよい)をひとつ取り上げ、これを論じてください。」というもの。

 それでは、やってみましょう。

 

状況を「語りうる」もの

  ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中でこう書いています。

 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

 さらにこう続きます。

 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。

 それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。

 なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側から眺めうることになる。

 思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。

 『論理哲学論考』は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な文が示す通り「語りえぬもの」についての論考。そしてここで言われていることはわりに簡単なことだと僕は思っています。世界の中に「あれが存在しない、これは存在する」と言う時、世界の外に出なくてはいけない。そして私が私の世界の限界を超ええない以上、それは「語りえない」わけです。

 このことは批評再生塾のホームページにある以下の宣言と繋げることで、批評の問題とも接続できます。

批評とは本来、外の言葉である。たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。

 ある対象・ある領域について語るとき、その領域から一度外に出なくてはいけない。僕達は世界の外に(特に「私の世界」の外に)出ることはできませんが、ある「領域」の外になら出られる。そしてそれが「語りうる」か否かの条件だと思うのです。

 さて、課題文に戻りましょう。「文化について書くことで状況を語り得るのか」

 文化について書くことが状況を語りうるためには、それが状況にとって「外部」である必要があります。そして僕は文化はその創造性により「状況」にとって外部であると思う。なにしろ創造とはそれまでになかったものを(ゼロからではないにせよ)生むことであり、まさに外部の導入であるからです。しかも「文化について書くこと」は、僕に言わせれば文化をさらに創造的に「誤読」することであり、二重に外部たりえる。

 つまり文化について書くことで状況を語りうる、と僕は思います。

 

言語ゲームと思考可能性

  「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」このことはウィトゲンシュタインがのちに『論理哲学論考』を間違っていたとして撤回したあと、「言語ゲーム*1という概念を創出するにあたっても引き継がれる考えだと思います。

 僕達はそのときそのときにおいていろいろな言語ゲームの中にあり、その言語ゲームによって思考を(従って「私の世界」を)規定されています。

 例えば少年ジャンプ+に読み切り作品として掲載されている『ウソキヅキ』という作品はこのことを理解するのに最適であると言えるでしょう。

plus.shonenjump.com

 この作品は「嘘という概念が存在しない世界」において「嘘」という概念に気付いた主人公達を描いた作品です。こうした僕達の世界とは違う世界(外部)を通して見直すことで、僕達は「嘘」という語彙やその使用によってどれだけの思考が可能になっているか、知ることができます。

  言語が、語彙が更新される事で「思考できるもの」の領域も広がり、思考やコミュニケーションの可能性が拡張される。その意味で言葉遣いの変化は「状況」における思考可能な領域の変化をも生み出します。

 こうした「言葉」と「思考」の関係に非常に鋭敏な観察力を示し、作品の中に結実させ果せたアニメがあります。

 『ガッチャマン クラウズ』です。

 

悪意の蠱毒とベルク・カッツェ

 『ガッチャマン クラウズ』には二人の特異なキャラクターが存在します。

 主人公・一ノ瀬はじめ、そして敵であるベルク・カッツェです。

 無論この二人以外のキャラクターも非常に重要で、特に爾乃美家 累は特異性を持っていると言えるでしょう。しかしこの二人はそういう次元ではない。

 ベルク・カッツェは悪意がそのまま人の形をしたようなキャラクターです*2。彼の実力を知るパイマンやO・Dが手を出すこと自体を恐れるほど、強大な力を持っていますが、それをストレートに使うようなことはしません。

 彼が好むのは他人の不幸と争いと混乱。そのために彼が行うことは、簡単に言ってしまえば他人を、あるいは人々を、または社会を「意図的に炎上させること」。それも社会全体を混乱に陥れ、最終的に惑星そのものを崩壊させてしまうほど大きな炎上です。

 そして前述のとおり、カッツェの思考はその「言葉遣い」と強く結び付いています。彼は2ちゃんねるに多く見られるようなネットスラングを多用し、相手をおちょくったり茶化したり見下したりすることに心血を注ぐ。カッツェ自身の「全部お前達のせい」という言葉と合わせて考えれば、彼は2ちゃんねるに代表されるネット環境に渦巻く悪意のメタファーとして解釈することができるでしょう。その悪意は僕達一人一人の「内部」にあるのです。

 

 2ちゃんねるを中心とする匿名的なネットコミュニティでは、その匿名性ゆえに誰かを罵倒したり批判することが非常に容易になりました。特に有名人に対しては一方的に攻撃が加えられるようになった。当然ネットスラングはこのような「状況」を反映して、より攻撃・否定に特化し、しかも自分を棚に上げやすいものに最適化されています。

 例えば「懐古厨」「萌え豚」「中二病」といった誰でも使えて簡単に相手を定型化して否定してしまえる便利な言葉がネット上にはあふれています。「意識高い系」はその典型と言えるでしょう。また「ま~ん(笑)」などのように相手を傷付けることに特化したおぞましい表現も数えきれないほどネット上にはある。

 こうした言葉は2ちゃんねるを中心としたネット環境の中で蠱毒的な淘汰を繰り返し、発達し続けています。

 

 私の言語の限界が私の思考の限界を示し、思考を規定する。ということはある目的を思考し遂行するためには、それに適した言語ゲームというものが必ず存在します。

 そしてカッツェの目的とする、最終的に批判者自身さえも巻き込む巨大な炎上、その悪意の増幅に最適だったのが、まさに2ちゃんねる的なネットスラングでした。漫画やアニメの中には、最近では「悪意の塊」のようなキャラクターは結構います。しかし「言語」と「思考」の繋がりを見抜いてそこに「ネットスラング」を持ってきたという点で『ガッチャマン クラウズ』は頭一つ抜けて鋭敏だったと言えるのです。

 カッツェの特異性はまさにそこにあります。徹底的に相手をおちょくり、茶化すそのスタイルは宮野真守の怪演と相俟って一つの到達点に達しています。それは単純な「悪意」ではない。巫山戯て茶化す、それこそが言語ゲームの暴力性と思考の規定の典型なのです。

 例えば少し前、『迷い猫オーバーラン!』というアニメが放映されていた頃、このアニメの主題歌である『はっぴぃ にゅう にゃあ』の歌詞を利用した会話が一部で流行っていました。これに対して気持ち悪がったり否定したり揶揄う外部の者があっても「調子にのっちゃダメ~wwwwww」「かまってかまって欲しいのwwwwww」「上から目線のてんこ盛りwwwwww」などと歌詞を引用すれば容易に茶化してスルーすることができるのです。この現象自体はケチを付けることに命を賭けている2ちゃんねらーでさえ為す術なくスルーされていたのが痛快だったのもあり、個人的にはわりに好きなのですが、なんでも簡単に茶化してしまえる暴力性は危険を孕んでもいます。僕達は『はっぴぃ にゅう にゃあ』を手に入れることで茶化すことが可能になったと言うよりも、それを使う限り「茶化さざるをえない」つまりむしろコントロールされてしまっているわけです。

 同様の問題は「なんJ語」などにも観察できるでしょう。肝要なのは「茶化す」ことであり「茶化さざるをえない」こと。言語ゲームのルールは「外部」を取り入れることで常に更新され続けます。しかしこの外部を「茶化」してしまえば、「外部」の持つルールを更新する力は無意味化され、言語ゲームはある意味で硬直します。もちろん言語ゲームの内部ではルールは常に組み替えられますが、それは言語ゲーム全体を危機に陥れるようなものにはなりえません。そうしたある種の恒常性を獲得することにより、ネットスラングは淘汰をかいくぐってきたのです。

 ネットスラングはいつの間にか僕達の会話の中に忍びこみ、僕達の思考やコミュニケーションの可能性を規定しコントロールする。しかも一度取り入れてしまえば容易に変容させることも叶わず、ずっと「内部」に居続ける。このようなカッツェ的権力に抗する方法はあるのでしょうか?

 あるのです。

 しかしそれは「一ノ瀬はじめ」になることではありません。

 彼女は到達不可能かつ理解不可能な「外部」としてあり、彼女を「見る」ことによってそれは可能なのです。

 

「異人」としてのはじめちゃん

 たしかに一ノ瀬はじめ(以降、はじめちゃん)はカッツェを克服しました。カッツェを内部に取り込んでさえ自分を保つことが可能だった。

 しかしそれを真似することは、どうでしょう、できるものでしょうか?

 彼女はある種の超越的な存在です。「外部」です。それはやはり「言葉遣い」にも表れている。「~っス」「~っスか?」という底抜けに明るい口調は、多彩な口調で構成されるガッチャマンメンバの中でもドキリとさせられる異様な存在感を放っています。何も考えておらず衝動的に動いているように見えるのに、時折不気味なほど本質を突く。

 その外部性・他者性は清音によって「ようやく」捉えられます。

 爾乃美家 累と対話するためにカメラの前に自分の素顔を晒し、そのことについて清音が問うと「そうする必要があった」「大事なこと」とはじめは言います。

清音 「つまり、弾みとかじゃなくて分かっててやったってことか」

はじめ「そうっスよ? 弾みとかって、ボク、そんな無責任じゃないッスよ」

清音 「……そっか」

はじめ(気付き、微笑み)

 このとき、ようやく清音は気付きます。はじめは「考えている」のだと。

 はじめちゃんをよくある天真爛漫でそのくせなんとなく本質を突いてしまう「王様ははだかだ」キャラだと見ているとすれば、その見方は甘いと、僕は思います。

 しかしそれは非常に陥りやすい罠です。なにしろ僕達は明確にではなくてもなんとなく「言語が思考を規定する」ことを知っている。科学的に正確な事実は科学的な言語でしか記述できないし、神秘については宗教的なことばでしか語れないことを感じ取っている。はじめちゃんのような口調では、本来「緻密に」考えることは不可能なのです。

  にもかかわらず、はじめちゃんは「なんとなく」「感性的に」正しい懐疑を持てているわけではなく、緻密に「考え」ている。そしてそれは決して「弾み」ではない。

 ここが特異なんです。いわば、極度に論理的で緻密な思考を持ったキャラクターがいたとして、そのキャラクターが外面的にも内面的にもはじめちゃんのような言語を使っているということが、果たして想像できるでしょうか? 僕達は物事を考えるときにも口には出さずとも言葉を使っていますが、その内面の言葉でさえ「~っス」「~っスか?」であり、それは演技などとは無縁のものなのです。そんなこと、たとえ想像でも、できますか?

 つまりはじめちゃんは不可能な点にいるのであり、「外部」なのです。そしてこの不可能な点を参照することで、ようやく僕達は「言語が思考を規定する」ことの本当の意味を体感的に理解できます。それははじめちゃんが不可能であるようなやり方を通じて、僕達を規定しているのです。

 「言語が思考を規定する」ことの外部にいるはじめちゃん、いわば言語ゲームの外部にいるはじめちゃん。その存在を絶えず意識することで、はじめちゃんになれないまでも、僕達は言語ゲームの閉塞性に風穴を開けることができます。

 カッツェ的で2ちゃんねる的な言語ゲームを相対化し、その支配力を見据え、その上を行くでも下を行くでもなく侵食すること。茶化すのではなく、真剣に懐疑を突き付けること。そう、彼女のもう一つの特異性はまさにそこにあります。彼女はいつだって真剣で、弾みで動くような無責任じゃない、にもかかわらず軽やかで、重苦しさが微塵もありません。特に現代においてこんな形の「真剣さ」は非常に稀有であると言えるでしょう。

 

 もしかしたら彼女のような「ことば」の使い方をすれば、はじめちゃんのようになれるのかもしれない。彼女のように「ヒーロってなんスかね? なんなんスかね? なんスかね?」と歌ってみることで少しは彼女に近付けるかもしれない。もしかしたらはじめちゃんは「不可能」でも「外部」でもないのかもしれない。すこしでもそう思えたなら、どうでしょう、たまに、誰も見ていない所やネット上だけでも、彼女の口調を真似て「そうっスか?」「ホントっスか?」と言ってみては、いかがでしょうか?

 いや

 

 どっスか?

 

 

*1:言語ゲーム」という概念自体は難しくもあり簡単でもあります。それは言語をゲームのようにルールに従ったものとみなし、しかもルールはそのときそのときによって動的に組み替えられます。むしろルールを組み替えるゲームと言った方がいいかもしれない。そのように考えることで言語の従うルールの絶対性や真理性を否定し、偶然的なものとして見出したところが良かったわけです。一方で言語ゲームは僕達が普段使っている「日常言語」に注目した概念なので、僕達の日常的なコミュニケーションを想起すればそれで正解です。そういう意味では至極簡単です。

*2:人というか、宇宙人ですが。