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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

話しかけていいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

諸君 私はオタクが嫌いだ
諸君 私はオタクが嫌いだ
諸君 私はオタクが大嫌いだ

にわかが嫌いだ
萌え豚が嫌いだ
懐古厨が嫌いだ
硬派厨が嫌いだ
売上厨が嫌いだ
作画厨が嫌いだ
声豚が嫌いだ
信者が嫌いだ
アンチが嫌いだ

コミケで アキバで
2chで はてな
ツイッターで おーぷんで
まとめで 米欄で
ニコニコで リアルで

この地上で行われるありとあらゆるオタク行動が大嫌いだ

 

……

 

……というのは大袈裟にしても、僕は普通に尋常に、オタクというものが基本的に大嫌いです。

そしてどんなところが嫌いかというと、ちっともクリエイティブでないところ、そしてそのくせ偉そうなところです。そのことは上記のパロディにおける言葉選びを見ても分かるかもしれません、まぁコミケやニコニコは微妙ですね。

つまり僕は、オタク的なコンテンツは大好きだが、その反面、それらの作品に対するオタク的な行動――批評、批判、叩き――などは大嫌いだということです。

 

オタクが使いたがる言葉として「一般人」というものがあります。

一方で、オタクが嫌う言葉の一つに「じゃあお前が作れよ」というものがあります。

作り手としての技術と批評者としての技術は違う、関わりがない、ということもよく言われます。

あるいはもっと赤裸々に、「叩かれるのが嫌なら公表しなければいい」ということも言われがちですね。噛み砕いて言えば「俺に叩かせろ」ってことです。

 

でも

 

そうやって作り手と自ら(オタク)の立ち位置の違いを強調し、あまつさえ利用するというのは、

自分自身を「製作者」あるいは「当事者」という立場から引き離して「一般人」に堕してしまう行為ではないでしょうか?

と、思うわけです。

 

オタク的な行動って、本当はものすごく「一般人的」なのではないか?と

 

もう少しちゃんと考えてみましょう。

「一般人/オタク」という対比が成り立つためには、当然双方になんらかの差異がある必要があります。噛み砕いて言えば、一般人に出来ない何事かがオタクに出来る、必要があります。

では、オタク的な言動である「批評」「批判」「叩き」はそれに該当するでしょうか?

「批評」はなかなかありそうです。しかし、「批判」「叩き」は、正直なところ一般人でもその作品を読むなり見るなりすれば、出来そうです。

では批評はどうでしょう?

批評と言ってもいろいろありますが、オタクでないと知らないような、特別な知識に依って構築された批評なら?

オッケーそうです、かなりイケそうです。

が、

この批評の素晴らしい部分を、一般人との差異化に寄与する部分を台無しにする言説があります。

それが結局のところ「叩かれるのが嫌なら公表しなければいい」などに代表される、「批評を誰にでも許す」言説です。

すぐにわかることですが、「批評を誰にでも許す」ことは当然「一般人にも許す」ことなのだから、一般人との差異化に役立ちません。

「~の場合にしか批評してはいけない」「~の場合にしか批評は正当でありえない」という条件なしには、なにかとなにかの差異化に批評が使えることはありえないわけです。

上記は、一見するとかなり過激な事を言っているようですが、「~」に「論理的に正しい」を入れるなどしてみたらどうでしょう?

 

では、別の角度で見てみましょう。

僕がオタクを嫌うのは、なにも彼らが一般人的だからではありません。(だとしたら僕は一般人のことも嫌わなければならなくなる。そんなアブナイ人じゃありません僕は)

彼らの言動が、往々にして人を傷付けるからです。

特にオタク的な言動である「批評」「批判」「叩き」。これらによって傷ついたり、あるいは誰かを傷付けたりした経験って、皆さんにもあるのではないでしょうか?

つまり「批評」「批判」「叩き」は、誰かを傷付ける危険性を常に孕んでいるわけです。

そしてそんな「人を傷付ける可能性のある」言動を無自覚に、あるいは自覚的に行い、悪びれもせずに「誰にでも批評する権利はある」と嘯く、その精神性が気に入らないのです。

 

さて、このことをその前の議論と繋げてみましょう。

「批評」「批判」「叩き」は、誰かを傷付ける危険性を常に孕んでいる。

そしてそのような行動に出る場合、人を傷付ける危険をあえて冒すに足る理由、大義名分が必要になります。

人を傷付けたりそのような危険を冒す罪を、なんらかの形で「贖う」必要があるわけです。

ここに、「~の場合にしか批評してはいけない」「~の場合にしか批評は正当でありえない」を当てはめてみてはいかがでしょうか?

 

つまり、「批評」「批判」「叩き」は人を傷付ける、だからこそ、それは「ある場合」にしか許されない。

こうすると、オタクのみが「ある場合」を達成できるように条件を設定すれば、批評はオタクと一般人の差異化に役立ちます。

 

例えば、

あるオタクがある作品を叩いたとしましょう。理由は「つまらんから」。

でも、「つまらんから」くらいなら一般人も言えるわけです。だからこれは一般人とオタクを差異化するものとはならない。

 

例えば、

あるオタクがある作品を叩いたとしましょう。理由は「萌えばかりで内容がないから」。

それだけだと明らかに一般人でも言えますが、彼はそこにオタク的知識をふんだんに用い、マニアックな作品と対比して批評を行ったとします。これならよさそうです。

そしてそこに「でも萌えないと売れない現実がある、そういう製作者側の事情もあるのでは?」という反論があったとする。

それに対して彼が「そんなこと知ったこっちゃない!こっちはあくまで視聴者なんだから制作側の事情なんか斟酌してやる必要などない!」と言ったとすると、やはりアウトなのです。

このとき彼は「オタク」という一般人と差異化された立場から、「視聴者」という一般人と同じ立ち位置まで、自ら堕してしまったのです。この時点で彼のマニアックな批評のガジェットは意味を失います。

 

・最後に

僕がオタクを嫌う理由はここで挙げたもののほかにもいろいろあります。

その中で今回は「オタク的な言動は、本当は極めて一般人的である」「そのくせ偉そうだ」「一般人的な側面を利用することによってオタク的な批評は許されている」「そのくせ偉そうだ」という部分を取り出してみました。

僕の言動を見て傷付いた「オタク」の方もおられたかもしれません。

しかしそのことで安易に僕を叩いたりしないように。

「人を傷付けない場合にしか批評してはいけない」という命題を認め、公理化してしまうと困るのは、おそらくあなたたたちの方です。