話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ

どうしてお互いの欠点探して 傷つけ合ってばっかいるんだよ

百の罵声をあびせるよりも 好きなもん一つ
胸張って言える方がずっとカッコいいだろ

何が嫌いかより
何が好きかで自分を語れよ!!!

 

……

 

というのがワンピースのルフィでなく、『ツギハギ漂流作家』という作品の主人公のセリフだという事実はもはや有名ですが、

それはともかく、この言葉には強く共感を覚えます。

 

僕はもともと、オタクが嫌いではありませんでした。

というか好きでした。

 

自らもネットに触れつつ、まだオタク文化にそれほど馴染んではいなかった頃、『電車男』に代表されるあの頃のオタク像は、世間一般の価値観に照らせば極端に「ダサい」ものの、逆に世間の大多数の人々が失いがちな「個性」を持てているような気がしました。

アイデンティティを求めてやまない青春時代の折も折、僕としては世間一般の価値観よりなにより、とにかく「個性」を手に入れることこそが最重要課題でした。そんな僕に「オタク」は輝いて見えた。

その頃の輝いて見えた「オタク」を強く言い表しているのが、冒頭のセリフです。

 

百の罵声をあびせるよりも 好きなもん一つ
胸張って言える方がずっとカッコいいだろ

 

何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れる人々。

カッコいいですね、今でもカッコいいと思います。

 

ところが

 

今のオタクは、こういうカッコいいオタクではなくなってしまった。

もっとも、昔からそうだったのかもしれません。『電車男』の中のオタク達は所詮非オタクから見たステレオタイプで極端にキャラ化されたオタクであって、当時でさえ現実のオタクを描けてはいなかった、のかもしれません。

それでもとにかく、今のオタクは少なくともカッコよくはない。そう僕は思うし感じます。

 

いつからオタクは「何が好きかより、何が嫌いかで自分を語る人々」になってしまったのでしょうか?

ネット上には負の批評や批判、叩きがあふれています。

今や作品を少し褒めれば「信者」、すこし苦言を呈せば「アンチ」、そしてそれに反応して少し擁護すれば「信者」、それに少し反論すれば「アンチ」です。

全体が「擁護させまい」「批判させまい」としてピリピリしています。

普通に考えれば、ネット上における匿名性は「どう思われてもいいや」→「自分の好きな事を言おう」と本音の開示を促進させそうだし、今でも一部の鈍感なネットユーザーは「ネットには本音があふれている」と信じ切っています。

しかし現実には、自分の本音を言おうとするとそれを阻害するような抑止的な圧力に必ず出会うことになる。いまこうして書いている僕も、絶えず「この部分はどう思われるだろうか?」「どのように反論されうるだろうか?」などと気にしながら、いちいちいろんな部分の文意や言い方を調整しています。とても自由とは言えない。

 

オタクって、もっとロックなものでは?

 僕が昔感じた「オタク」像のカッコよさは、ロックの反骨精神に通じるものがあります。

世間の常識なぞ知ったこっちゃない、俺はこれが好きなんだ、これが俺だ文句あっか!

と、言外に行動を以って示すようなある種の力強さ、イデオロギーに簡単には屈しない屈強さのようなものを感じたものです。

ところが、今のオタクは、知ってか知らずか、絶えず「周囲の目」を気にして、流行やイデオロギーに安易に染まり流されてしまう、ように僕には見えます。

ここで注意して頂きたいのは、僕が批判してるのは

「流行に流されてワンピースや禁書やSAOなんかを称賛してるニワカ」ではなく

「流行に流されてワンピースや禁書やSAOなんかを批判してるニワカ」だということです。

今やネット上のこれらメジャー作品の叩きは、明確に流行でありイデオロギーです。そんな風潮に流されるオタクを僕は本来ならオタクと呼びたくないし、軽蔑します。

 

とはいえ、

「ワンピースや禁書やSAOなんかを称賛してる」人々が自分で作品の良さを感じて称賛しているのと同じように、「ワンピースや禁書やSAOなんかを批判してる」人々だって自分でその作品が嫌だと感じて、ネット上の流行などとは関係なく、ただ自分の感じたことを素直に表現しているだけなのかもしれません。

ただし、そこでネット上のメジャー叩きの雰囲気に乗じ、あるいは安易に利用するなら、結局同じことです。「自分がそう感じたことを表現してるだけだ」と強調したいならなおさら、ネット上の風潮からは距離を置き、そのことを明言するべきです。

それに、

そもそもそれって「何が好きかより、何が嫌いかで自分を語る」ことになってしまってはいませんか?

僕が「オタク」のことをカッコいいと思ったのは、なにも「個性的だったから」だけではありません。

個性を示すことで世間の価値基準への非恭順を示し、しかも、世間の価値基準を言葉に出して否定しない、その上品さに憧れを抱いたのです。

「世間の価値観に俺は従わない、だけど否定もしない、選択が違うだけだ」という主張を態度が示しているような気がしたのです。

「あなたと私は違う」は前提としてあるけど「だから私の方が正しいのだ」「だからあなたは間違っているのだ」とはならない、ということですね。

それに対し、すぐに自分の気に入らない作品を叩き、さらに「自分がそう感じたことを表現してるだけだ」と嘯く人々にはそういう精神がないんですね。「あなたと私は違う」の中の「違うあなた」への配慮がまるでない。そこが下品だと思うのです。

 

オタクはその昔、虐げられる者だった。

だからこそ虐げられる側に共感的であることができ、自分とは価値観の違う相手に対しても謙虚に接することが出来たと思うのです。

しかし今は、むしろオタク側が攻撃者となり権威側となってしまうケースが少なくない。

「俺は自分が好きなものが好きなだけだ、ほうっておいてくれ」と思っていた筈の者たちがいつのまにか「自分が好きなものが好きなだけ」の者をほうっておかずに嬲る、刑の執行者になりつつある。

これはまさしく、僕の危惧する「オタクの一般人化」です。

しかもこの場合の一般人は、昔オタクが迫害されていた頃の「迫害する一般人」そのものです。

僕はこの状況を嫌悪します。