話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

魔物化するポストモダン

ぷるぷる ぼくは わるい スライム だよ

 

……

 

前回の記事で僕は「オタク」のことが昔好きだったこと、その憧れについて書きました。

まとめると、僕が「オタク」についてカッコいいと思ったのは以下の二点です。

 

・何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れる

・世間の価値観に恭順しないが、言葉に出して否定もしない

 → 価値観の多様性を認める

 

そんな僕の曖昧な感覚を、少しく具体的にしてくれたのが『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』などの東浩紀さんの著作でした。

つまり、

オタクってポストモダン的な存在なんだ

と考えると、

価値観の多様性を大切にできるのもそのためだな

と理解できるのです。

まぁ、重厚な著作に対してあまりに平板で安直な理解かもしれませんが。

とにかく、僕はそう理解しています。

ポストモダンによって「大きな物語」が失効したとき、同時に「世間の常識」「世間の価値観」も以前ほど絶対的ではなくなる。そこでオタク的な「萌え」が好きな自分に対して「俺はこれが好きなんだ文句あっか」と肯定してやることが出来るようになる。

しかもそれを以って安易に「だから世間の価値観は間違ってるんだ!」とせず、世間の価値観も自分の価値観もたくさんあるフラットな価値観の選択肢の一つ、として理解することが出来る。

つまり僕が理想とする「オタク」像は本質的に、ポストモダニストなのだと思います。

そのうえで動物化しようがしなかろうが、つまり動物的なオタクもスノッブなオタクも、両方好きです。

(つまり以前書いた

話しかけていいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。 - 話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

 冒頭の少佐パロは、パロディのつじつまを合わせるために僕の本音でない文が結構混じっていて、僕は基本的ににわかと萌え豚と声豚と信者は好きです。)

 

ただ、

 

現在のオタク、特にネット上に多く見られるオタク的な言動には、そのようなポストモダニスト的精神とは真逆のものが多く散見されます。

僕の嫌うオタクは、簡単に言えば負の批評をし、批判し叩くオタクです。

何かに対して負の批評を行ったり、批判や叩きを行うためには、なにかしらのイデオロギーに身を委ねる必要がある。

つまり価値観の多様性の否定ですね。「あなたと私は違う」で終わらず、「私が正しい」「あなたが間違ってる」まで行ってしまうからこそ、批判や叩きが可能になる。その「私が正しい」「あなたが間違ってる」の根拠となるのがなんらかのイデオロギーですね。

特に僕の嫌うオタクの中で――つまり作品に対して負の批評をし、批判し叩くオタクの中で――懐古厨と呼ばれる人種が多いことはおそらく偶然ではないでしょう。

つまり、頭が古い、から、ポストモダンな現代に適応できておらず、従って価値観の多様性を受け入れること叶わず、既存のもっともらしい(懐古という)イデオロギーに縛られ、それに従って最近の作品を否定し批判し叩く、ということです。

かなり乱暴で、ある種安直な理解ですが、実際そうじゃないかな、と思います。

 

さて、そろそろタイトルに話を戻しましょう。

ポストモダン化した社会の果てに、オタク達は動物化した。

そして今、動物化のさらに果てに、オタク達は魔物化しつつある。

そう思うわけです。

 

ポストモダンについて考えるとまぁ普通に出てくるであろう発想として、ポストモダニズムポストモダニズムを食い潰すのでは? って疑問、ありますよね。

(僕のポストモダンに対する理解の浅さ故でなければですが……)

「「大きな物語」はもはや無い」「あらゆるイデオロギーは相対化された」という主張そのものが「大きな物語」あるいはイデオロギーなんじゃん?みたいな

ただ、その理解はどうも間違ってるのだそうで、ポストモダンはなにもイデオロギーが全部死ぬことではない、「大きな物語」つまり「みんな」が信じてるようなイデオロギーが消え、ある集団のみが信じるイデオロギー「小さな物語」に分裂してしまうことだ。ということらしい。

となると、例えば懐古厨も「小さな物語」(イデオロギー)に支配される攻撃者、というふうに理解できるわけです。

 

ポストモダンな状況下にあっても、みんながポストモダニストになるわけではなく、以前のモダンな近代にいたようなモダニスト(?)のミニチュア版みたいな奴は大量にいることになる。

それを僕は動物と分けて「魔物」と呼びたい。

つまり「小さな物語」に支配された攻撃者のことです。

モダンでは特定のイデオロギーが全体の支配者として君臨し暴力的に支配しましたが、ポストモダンではあるイデオロギーが特定の部分の支配者としてちっちゃく君臨し、暴力的に「非支配」する。

これ、一番性質が悪いと思うんですよ。

彼ら魔物の掲げる「小さな物語」は、他者を支配はしない、つまり攻撃する対象の誰も納得させないまま、ただ攻撃してるわけです。ただの暴力なんですよね。

 

しかも、

その原因の一つには、やはりポストモダンがあると思います。

2chなんかを見てると特に感じますが、彼らには倫理がない。

どれだけ論理的に説き伏せても、最終的には開き直ります。「叩けばスカッとするからやってるだけ」「正しさなんてどうでもいい」「間違ってようがやる」「叩くのは自由だろ」

モダンにおいては、それは理想的な形ではないにしろ、あるイデオロギーが全体を支配し、その中にはちゃんと「倫理」も含まれていたと思います。

しかしポストモダンでは、「倫理」さえも「大きな物語」にはなりえない。彼らは「倫理」を信じることはできないのです。

だから自分がどれだけ論理的あるいは倫理的に間違っていると示されても開き直り、「魔物」のままであることができる。

「魔物」を可能にしたのはポストモダン、というわけです。

 

僕は多様性が好きです。それが僕のイデオロギーと言っても過言ではないかもしれません。

そんな僕にとってポストモダンは束の間の夢を見せてくれた。が、結局は「魔物化」という形でその正当性を否定しながらも多様性の縮減をもたらすようです。

どうにかならないものでしょうか?

というのは今後の課題として、今日のところはこれにておひらき。