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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

嘘つき と壊れた 世界 (嘘を楽しめないオタク達)

オタクの嫌いなところ話

うそはうそであると楽しめる人でないと
(オタクでいるのは)難しい

 

……

 

 突然ですが、僕が理想とする僕がカッコいいと思う「オタク」とは、プリキュアとか見てるようなオタクです。

 あのマジにドラゴンボールみたいな肉弾戦に熱狂し、悪を憎み不幸を悲しむ心を忘れず、最終回近くになると完全に感情移入してぼろぼろ涙を流しながら日曜日の朝を迎えるようなちょっと頭のおかしいオタクが好きです。

 それに対して、やたらとアニメや漫画に対して「リアリティ」なるものを求め、口を開けば文句ばかり飛び出てくる、アニメ以外でもテレビ番組の「ヤラセ」や不正にいちいち口煩いオタクが嫌いです。

 前提として、オタクとは「嘘を楽しめる人種」だと思うのですよ。

 

オタクと虚構の関係

 オタクというのは、二次元の美少女キャラクターを「嫁」と言ったり、「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」とか本気かネタか分からないことを平然と言えたりするような人種です。

 彼らは普通の人より嘘や虚構といったものに普段から慣れ親しんでいて、寛容でもあるし、ときには思いがけないやり方で嘘や虚構と戯れることが出来る。出来るというより、出来るべきであると僕は思います。

 でなければどうしてプリキュアを心の底から楽しむことなんてできるでしょう?

 こうした「オタク」の虚構や嘘との卑近さを考えるとき、必ずと言っていいほど僕の頭に思い浮かぶのは海猫沢めろんの『左巻キ式ラストリゾート』と舞城王太郎の『九十九十九』、それから村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』です。(前二つはかなり18禁な内容なのでご注意を)

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はその後のオタクカルチャーに非常に大きな影響を及ぼしたと聞きます。アニメ『灰羽連盟』はその典型でしょう。他にも(ちゃんと調べてないし年代関係も把握していないので断言できませんが)いわゆる「セカイ系」に大きな影響を及ぼしたのだとか。分かる気はします。

 そして『左巻キ式ラストリゾート』『九十九十九』はやはり近いテーマ性を持っていて、「オタク」が虚構とどのように接しているのか、接していくべきなのかが描かれているのだと僕は解釈しています。

 そこで僕は「オタク」には少なくとも普通の人々より嘘や虚構について先進的であってほしいと思う。

 テレビのヤラセに憤慨したり、ありがちな陰謀論や妙な正義感に茹で上がって「本当は」「実は」みたいなことにこだわるなんて当たり前な事、当たり前な連中に任せておけばいいじゃないか!と思うのです。

 

「本当は」「実は」にこだわる知性と幼稚性

 最近本当に気になるのは、オタク、というかネットの住人たちがやたらと「本当は」とか「実は」ということにこだわっていることです。

 典型的なのはテレビのヤラセ批判。僕はオタクとプロレス愛好家たちは近いものを持ってるというか、相性がいいと勝手に思っているのですが、そういう余裕がない。 プロレスをプロレスとして楽しめない、マジックのタネばかり気にするような余裕の無さが目について仕方がありません。

 他には例えば、「ステマ」「ゴリ押し」に代表される「俺は分かってるぞ」アピール。細かいものを挙げればキリがありませんが、なにかしらの「商法」についてもうほとんどの人間がわかりきっていることをわざわざ何度も口にして明らかにしなければ気のすまない神経質さにはうんざりします。

 アニメなどで言えば『空想科学読本』的なノリをその本の外にまで持ち込む過度な「リアリティ」至上主義。禁書の熱膨張批判や、最近では艦コレの弓の構え方騒動などでしょうか。

 どうしてそこまで「本当」だとか「真実」にこだわるのでしょうか? そうした息苦しい目でプリキュアを見て本当に楽しめるんですか? そうした息苦しさがオタクの二次元愛を否定する世間のまなざしとあまりに似通っていることに気付きませんか?

 僕にはどうも、彼らが「知性」だと思っているものが「幼稚性」であるように思えてないらないのです。

 

 「あえて」を忘れた動物たち

 しかし考えてみれば、そもそも僕が理想とするプリキュアを楽しめる「オタク」――つまり嘘を嘘と知りながら「あえて」楽しめるオタクというのは、もう古いタイプのオタクなのです。

 東浩紀の『動物化するポストモダン』で語られているのは、幼児向けアニメを「あえて」楽しむスノッブなオタクから、その「あえて」さえ必要とせずに動物的にデータベースを消費するオタクへの変化でした。

 つまり起源が忘れ去られたのだと思います。かつて古いオタク達の「あえて」によって作り出された「二次元嫁」「童貞魔法使い化説」「エンジョイ女児アニメ」といったスノビズムは、その起源を忘れ去られ、ただそれら単体のみがデータベースに格納された“萌え要素”になってしまった。僕らの世代のオタク達は、「あえて」じゃなく単にネコミミを装着するのと同じように「二次元嫁」「童貞魔法使い化説」「エンジョイ女児アニメ」を装着するわけです。萌え要素なんです。記号なんです。

 そしてその結果として、「嘘を嘘として楽しむ」事が出来なくとも、プリキュアを楽しみ、そんな自分に萌えることが出来るようになってしまった。そういうことなのだと思います。

  つまり冒頭のひろゆきパロは、嘘です。

 もはや嘘なんです。

 嘘を嘘だと分かってなくても、嘘を嘘だと楽しめるスノビズムが無くても、普通にオタクできちゃうんです。

 このことは多分、オタク層の広がり――従って一般人のオタク化――や、オタク性の希薄化――つまりオタクの一般人化――と無関係ではないと思います。

 もはやオタクは、一般人なんです。

 だってそこにはスノビズムは必要ないわけだから、ただ動物化してすこしデータベースを学習すれば、誰だってオタクになれちゃうわけです。

 なんでしょう、なんだか、書いててどんどん悲しくなってきました。

 アニメや漫画に過剰に「リアリティ」を求め、テレビのヤラセを許さず、空想科学読本片手に重箱の隅をつつきまくる――僕の嫌悪する現代のオタク像は、なんのことはない、ただの一般人だったわけです。なんだか気持ち悪いほど納得がいきます。

 

残る希望

 その場のノリで書いているせいか、予定していた流れとはかなり違う結果が出てしまい、それ以上になんだか精神的ダメージを負ってしまいました……。

 本当は古き良き「萌え」への向き合い方と、それに倣った「リアリティ」への向き合い方を盛り込む予定だったのですが、それはまた別の機会にしましょう。

 さて、現代のオタクにいつもどおりに、いつも以上に絶望してしまいましたが、それでも希望が全て潰えたわけではないと僕は思っています。実は。

 僕が今考える希望は二つ。「AKB」と「腐女子」です。

 どちらもコンテンツ自体は僕の興味からは外れるのですが、男アニメオタクや男漫画オタクよりは希望があるんじゃないかな、とか思ってます。ただそれは、僕がそれらに詳しくないから幻想を抱けるだけなのかもしれませんが。これらについては追々書いていきたいと思います。