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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「萌え」は求めるものでなく見つけるもの リアリティ または作者と読者の関係について

 「萌え」というのは与えられるものでなく見つけるもの。

 というようなことはよく言われますが、僕は同意です。

 そしてそれはこう言い換えることもできる。

 「萌え」というのは求めるものでなく見つけるもの。

 

オタクのクリエイティビティ

 オタクとは本来創作者です。

 何故そう言えるか。それは普通の人にとってはなんでもない、下手をすれば気持ち悪いだけのただの絵から、「萌え」という感情を創り出すことが出来るからです。

 本来「読む」というのは創作的な行為なんです。

 芸術作品のことを考えれば分かりやすいかもしれません。

 一般人には何が描いてあるかすらわからないような抽象画からなにかしらのインスピレーションを得たり、感動したりすることが出来る。何を言ってるのかよくわからない詩から深い意味を取り出すことが出来る。それは作品のみがすごいのではなく、受け手の側にもある程度リテラシーや能力や感性が求められるという点において、創作的な行為と言えます。

 「萌え」も同じです。作者がいて作品があるだけではこの世のどこにも「萌え」は発生しません。それを解釈する読者がいて初めて「萌え」は発生するわけです。

 本来は。

 

目を瞑ってどっか隅っこに挟まって、口だけ開けて「萌え」「リアリティ」だけ食って辛うじて生きてる

 僕は一番最初の記事でオタクについて「どんなところが嫌いかというと、ちっともクリエイティブでないところ」と書きました。

 

話しかけていいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。 - 話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

 

 そしてこのとき「ちっともクリエイティブでない」といったのは、単に作品を作らないという意味ではありません。

 今のオタクは萌えを与えられるのを待つばかりで、自分から見つけようとはしません。非常に受け身なんです。目を瞑ってただ口だけ開けて、誰かが「萌え」や「リアリティ」をその口の中に放り込んでくれるのを待つばかりです。

 オタクが自分自身で創り出すべき「萌え」を創り出そうとせずただ待っている。その姿勢を指して「ちっともクリエイティブでない」といったのです。

 

作者と読者の共犯関係

 作者と読者、双方の協力なしには「萌え」どころか、いかなる意味も作品は伝えられません。つまりもしあなたが「萌えられなかった」なら、それは作者が悪いか、さもなくば読者が悪いか、あるいは両方が悪いか、いずれかであり、またいずれであるか分からないわけです。

 もちろん双方の協力が等分である必要はありません。少なくとも簡単な文の意味なら、読者側はただ日本語を理解するスキルさえ持っていれば意味は伝わる。

 しかし結局のところ、それは「誰でもわかる」従って「誰でも作り出せる」ものでしかありません。

 作者の側がなるべく「わかりやすい」流動食のような表現に留めれば誰でもその意味するところは理解できる。つまり一般人でも誰でも。

 しかしもし「萌え」の特権性が「オタクにしか理解できないこと」にあるなら、それはある程度、読者の側に努力や能力を要求するものになる。

 つまり「見つけられる」しかないものになるわけです。

 

読者の戦略 リアリティを求めるな

 もちろんどんな作品からでも萌えを見つけられるわけではありません。作品のポテンシャルにも読者側の能力にも限界がある。

 そしてだからこそ「求める」は戦略として最低なのです。求めたって何も出てきません。「萌え」の創出作業には何の役にも立ちません。むしろ邪魔なだけです。

 ただひたすら探し、そして見つけるしかありません。作品の傾向を読みながら、自らの能力や感性と相談をしながら。

 それは採掘作業に似ています。鉱石を掘り進み、「萌え」を探す。求めるだけではどうにもならないし、そもそも無い鉱石には最初から「萌え」など入っていない。見つけられないことを誰かのせいにしても仕方がないし、自分の採掘能力や嗅覚にも限りがある。

 しかしそうして「見つけ出した萌え」が、誰にでも見つけられる「与えられる萌え」とは比べるべくもないほど輝きを放つことは「萌えは与えられるものでなく見つけるもの」という言葉が物語っています。

 

 リアリティも同じです。「リアリティがない」とあなたが感じた作品は、もしかしたら最初からリアリティなど入っておらず、別の宝石が隠されているのかもしれない。そんな鉱石に「リアリティ」を求めるのは間抜けのすることです。

 萌えにしろリアリティにしろ、見つけられそうなら探せばいいし、無さそうなら別のものを探せばいいんです。文句ばかり言って作品を叩くのは、自らの無能を告白するのとほとんど同じことです。特に「他の人が見つけられている」ものを見つけられない場合は。

 「~の何が面白いのか分からない」という言葉だけは言わないようにしましょうね。たとえ思ったとしても。

 

 そうそう、いつもなら冒頭に位置するパロディですが、今回は長いのとわかりにくい(というより記事の内容を前提としている)ので最後に持ってきました。

 

……

 

与える萌えは切れ味がある分扱いやすいし、素人から玄人まで幅広く使われている作者の基本武器

対して見つけさせる萌えは見た目なんかは与える萌えとほとんど変わらねぇが
あえて斬れない様に鋭く研がない分硬度と重量をかなり増加させて斬るより破壊を目的とした玄人好みのあつかいにくすぎる萌え
使いこなせねぇとナマクラ刀より弱いただの鉄クズみたいなもんだってのに 何であのガキは?

 

……

 

※追記

 なんだかものすごくちょうどいいものを見つけたので、貼っておきます。

 

純文学か大衆文学か - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

>娯楽小説ではないというのは、言い換えれば、作者が読者に対してある種の、ある程度の努力を要求することだろうと僕は考えています。言うなれば、咀嚼力を要求するということです。「ここから先は自分の歯で噛んでくださいね」ということです。

 

 ここで村上春樹さんが「娯楽小説ではない」条件として述べていることを、僕は「見つけられる萌え」の条件としてこの記事に書いた、ということになります。

 ここでは作者が読者に努力を要求するものは「娯楽小説ではない」と言われていますが、娯楽でも通用する話だと思うんですね。もっとも、純文学が要求する「努力」に比べると、「見つけられる萌え」のそれは努力というほどのものではない、と言えてしまうのかもしれませんが。しかしあくまで程度の問題、ということです。