話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

異性愛呼称問題に見る現代の正義と倫理

 異性愛を「ノーマル」と呼ぶことが差別的なのかそうでないのか、という問題について。

 僕自身、そもそもこの問題提起を見たとき恥ずかしながら自分にはそういう問題意識がまずなかったなと思いました。なるほど、と。

 それでまぁ、いろいろ辿って見てみました。どのような論争なのか?

 いろいろな記事が関連するようですが、主要なのは以下の2つでしょうか。

ノーマルカップリングという呼び方は差別的だとする腐女子の考え方がわからない - 今日も得る物なしZ魚拓

「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記

 経緯については

 傍から見てたけど、経緯ってこんな感じか? - たわごと

 にまとめられています(間に挟まるコメントには同意できない部分もありますが……)

 

 一連の論争で僕が感じたのは、月並みですが「どちらにも頷ける部分があるな」ということです。そしてその月並みな感想は、以前僕が得た思考の枠組みと合わせると、また違ったものが見えてくる。

 

正義と倫理を分けましょう

 辞書的には正しくないかもしれませんが、僕は「正義」と「倫理」を分けて考えています。それはつい昨日のこと、矢口真里さんの一連の騒動のことを考えているときに得た考えでした。

 矢口真里の何が悪いのかよくわかってない、という話

 >そもそも正義と倫理はどう違うのか。シャーマンキングで言うところのX-LAWSが正義、「やったらやりかえされる」という麻倉葉が倫理、というイメージです、僕の中では。

 >あるいは、正義とは他者に執行するもの、倫理とは自己を抑制するもの、とも言えるかもしれません。

 

 こうして考えてみるとある問題に対して「どちらにも頷ける部分があるな」という感想が出てくるのはこの問題に限らず当たり前のことです。

 つまり正しさには自分の正しさ(倫理)と相手の間違いを指摘する正しさ(正義)があるわけで、大抵の場合、程度の差こそあれ論争においては双方が正しい部分と間違っている部分を併せ持っている。しかもそもそも「正義」の執行そのものが「倫理」の欠如であるようなケースは多数存在します。今回もそれが見て取れる。

 それは例えば腐女子批判をするときに話題に上った同性愛者への配慮が欠ける書き込みによって誤解を招くことであったり、「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」とぽろっと言ってしまううかつさだったり、そこに「違ったら教えて下さい」と注釈がついてるにもかかわらず過剰に反応して攻撃的に反論してしまう自己抑制心の無さであったり、相手を見下したような書き方であったり。

 とまぁいろいろあるわけですが、ここで僕が批判したいのは上記のような僕の態度。論争において論者が失敗した点ばかりをあげつらってそこで終わらせてしまう。「どちらも間違ってるな」で終わらせてしまう態度についてです。

 

論争を眺める僕達の正義と倫理

 正義と倫理を分ける考えは、なにも論争の当事者のみに適用されるわけではありません。論争を眺める傍観者である僕やあなた、ここにも自分の正しさ(倫理)と相手の間違いを指摘する正しさ(正義)の両面が存在する。

 ここで論争に対する「どちらも間違ってるな」という捉え方は正義的だと言えます。対して「どちらにも頷ける部分があるな」と捉え、そして頷けた部分を「我が事」として考えその後の反省や自己抑制に役立てれば、倫理的だと言えます。

 つまり論争に対する「間違いの指摘」が正義で、そこから何かを得て自分の糧とするのが倫理ということです。

 このことはまさに今回の論争から得られる「学び」でもあります。

「もっと下手に出て、マジョリティの気分を害さないように説明しないと聞いてあげませんよ?」派の皆さまへ

 の中で指摘されている「相手の言い方が悪いから、自分は理解してあげる必要ありません」という態度は、自分の正義(というより相手の間違い)ばかり気にして自己への「学び」を意図的に疎かにする愚かな行為だと言えます。

 論争において、どちらがどれだけ間違ってるか、なんて正義的な側面は、その論争から自分が何を得られるか、という倫理的側面とは関係がないんです。

 言い換えれば、どれだけ相手の言い方ややり方が悪かろうが、相手の言っている内容から「学び」を得ることは可能だ、ということです。

 

今回の論争から得られる「学び」の例

 では今度は具体的に今回の論争の中の「頷ける」部分の例を見ていきましょう。

 まずは「異性愛を「ノーマル」と呼ぶことが差別的であるかもしれない」という考え方。これは他者を抑制しようとする正義的な用い方をすれば反感を買うこともありますが、自己を抑制する倫理的な使い方なら十分に有用です。

 上記の「正義的な用い方」への警鐘が、発端となった記事①からの「学び」としても得られますね。

 また②や③の記事の中で展開される同性愛差別問題への知見は単純に知識として有用です。「男女(なんにょ)ラブ」提案も倫理的に有用でしょうし、なにより今回僕としては③の「差別を告発する責任はマイノリティにではなくマジョリティにある」とする知見には深く感心させられました。

 また

じゃあ俺も言わせてもらいますよ

 の中の、相手を見下したような書き方への非難もまた、今後の自分の書き方に注意を促させてくれるでしょう。

 他にもきっといろいろあります。記事だけでなく、それへの傍観者側からのコメントから得られる「学び」もあるでしょう。

 そしてなにより僕が主張したいのは、こうした「学び」を自分のものとする倫理的な姿勢がなければ、正義もまた無意味だということです。

 

倫理が壊れた正義の時代で

 一連の論争を見ていてもわかりますが、現代の多くの人々は「正義」のみが先行していて他者のことは容易に攻撃しますが、「倫理」は全く疎かで自己を抑制することはあまりないように見受けられます。

 その結果、皮肉なことに彼らの正義の言動は、ほとんど常に「言い方が悪い」「もっとうまいやり方でやれば頷けるんだが」「正しいがこの立場の人が言うべきじゃない」とこれまた正義的な捉え方しかされず、受け手の方に何ら倫理的な感慨を与え得ません。

 小説に例えれば「正義」は作者側の正しさ、「倫理」は読者側の正しさであると言えます。作者がなにかを「正しい」と主張し、読者がそれを「我が事」として「学び」としなければ、結局作品はどんな正しさも示し得ない。

 今の倫理が壊れた社会では、はっきり言ってどんな正義も無意味なのです。あなたが正義ばかり主張して自己を抑制する倫理を疎かにするように、他者もまたそうなんだから、あなたの正義は誰にも受け取られることはありません。せいぜい他者の正義に利用されるくらいです。

 あなたがもし何かについて正義を主張し正義を為したいと思うなら、まずは自分から様々な事を「我が事」として「学び」、主体的に感じ取る倫理的な姿勢を示してみてはいかがでしょうか?

 

 

※追記

 本当は上の提案で終わるのが綺麗なんですが、今回の問題はこのブログのテーマとも無関係ではないんですよね。

 現代のオタク達はまさに攻撃的な正義ばかり先行して倫理のまったくない人間の代表格だし、僕が『動物化するポストモダン』の「動物化」になぞらえて「魔物化」と呼ぶオタク達の現象は「相手を納得させずに単なる攻撃を繰り返す動物」となることで、これは倫理の壊れた世界での正義の典型的なあり方と言えます。また正義ばかりで倫理がおろそかという姿勢はオタクの創作物受容の際の傾向にも表れていて、「萌え」は求めるものでなく見つけるもの リアリティ または作者と読者の関係について の中では今回と同じ「作者」と「読者」の構図から「萌え」や「リアリティ」に対する同様の態度を描いています。

 僕が思うに今回の論争で見えた「正義先行、倫理疎か」の傾向は、僕にとって現代を捉える上での中心的課題なのだと思います。