話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

オタクの異常な愛情  ~萌え~

おいでよ  どうぶつの萌え

 

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  東浩紀動物化するポストモダン』の中で、オタク達は「人間→スノッブ→動物」という経路を辿ったとされます。ここでスノッブは「疑似的・捏造された人間」「「あえて」の記憶を持った動物」と言えると思いますが、では人間と動物の区別はどこで付けられるのか? 「欲求」と「欲望」の差異であると、説明されます。

 

欲求と欲望

 欲求は「欠乏→満足」という単純な回路で成り立つ、動物的な欲求のことです。一方で欲望は「欲望とは、他者の欲望である」という言葉が示すように、他者から与えられるものです。具体的になにが欲求でなにが欲望であるのかの選別は難しそうですが、基本的には「一人で満たせる」のが欲求で「他者を必要とする」のが欲望だと言えるでしょう。

 こうして考えると、恋愛とは欲望です。当たり前ですが他者を必要としますし、『動物化するポストモダン』でも語られていますが異性を手に入れても欲望は満たされない。異性を手に入れたことを他者に知ってもらい、欲望される(嫉妬してもらう)必要があるわけです。また「他者から必要とされる」という恋愛における承認も欲望の方にカテゴライズ出来るのではないかと思います。

 その「他者の欲望である」欲望の一形態である恋愛は、基本的に他者から見て「うらやましい」ものなのです。

 例えば社会的に許されないような「禁断の恋」であっても、『ロミオとジュリエット』のように見る側にとってはそれがどれだけ許されざるものであっても同時にやはり「うらやましい」ものです。他にも例えば「美女と野獣」あるいは「野獣と野獣」のカップルであっても、野獣の容姿はともかく、その愛情の形自体は「うらやむ」事が出来るものかもしれません。

 

 しかし、オタク達に顕著な二次元愛、即ち「萌え」はうらやましくないのです。

 オタクの愛する二次元美少女がどれだけ美少女であったとしても、オタクの方をうらやむ=欲望する人はいません。

 当のオタク達にとってさえ、他人の萌えがうらやましくなることなど基本的には無いと言っていいでしょう。

 承認という面でも同じことが言えます。二次元美少女は現実的には存在しないわけだから、他者ではない。そこに「他者からの承認」はないわけです。

 つまりオタク達の愛情は「他者に欲望される」ことなく駆動し成立するもの、即ち欲望ではなく欲求に属すると言えるのです。

 オタク達の萌えが一般の人々にとって奇異に見えるのはこのためでしょう。それは根本的に通常の恋愛とは基盤からして違うものなのです。

 

オタク的純愛

 そしてそんなオタク達の愛情の形態に「純愛」を見る人もいます。通常の恋愛は欲望であるために、自分と恋人のほかにも他者を必要とする。社会的なコンテクストと言ってもいいかもしれません。自分と恋人だけでは成立しない恋愛を「本質的ではない」「不純なものである」と感じる人もいるでしょう。しかも恋愛が欲望であることによって「恋人に必要とされる」承認面もまた、「第三者(社会)に見せるために必要とする(される)」こととなり、そこにはやはり第三者の介入がどうしても必要になってくる。

 恋人を自分を演出するファッションアイテムの一部として捉える恋愛観を持つ人々が批判されがちな昨今ですが、通常の恋愛はすべて本質的にはそれと同じである、とも言えてしまう可能性があるわけです。

 オタク達の愛情「萌え」にはそれがない。

 

オタク的純愛のおわり

 もっとも、最近ではそれも変わってきたようにも見えます。

 「オタクであること」そのものが記号化しデータベースに格納され、消費可能な萌え要素となった昨今では、一般人の恋愛とは違った(しかし微妙に似通った)形で「萌え」もまた不純性を帯びてきうると言えます。

 (通常の恋愛が社会的なコンテクストを必要とするのに倣い、この「データベースに格納され記号化」を「オタク的なコンテクスト」への回収と呼んでもいいかもしれません。それについてはまた、面白いことを思い付けば書きます。)

 

 そのためかどうかわかりませんが、現在のオタク達の「萌え」は以前の勢いを失ったと言わざるをえません。そのことは過去の記事(嘘つき と壊れた 世界 (嘘を楽しめないオタク達)何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ等)でも語ってきましたが、今のオタク達(の一部)は何に萌えるかより何に萌えないかを語りたがる傾向にあるようです。

  僕としては非常に残念ですが、もはやオタクの時代は終わったのかもしれません。

 

残る二つの光明

 しかし一方で、まだ希望は残っているのではないかとも僕は思っています。

 その僕の考える「残る希望」がAKBと腐女子です。

 先に言っておきますが、僕はコンテンツとしてのAKBにはほとんど興味は無く、メンバーの顔や名前も有名な人しかわかりません。BLについても興味はありません。

 しかし「オタク」として見たときにAKBファンと腐女子達は、それぞれ違う面で希望を持てていると思うのです。彼ら彼女らはともに、現代においても「自分は~が好きだ」ということを非常にポジティブに語りえています。つまり原因は違うが、結果は同じ(何が好きかで自分を語れる)ということです。

 

 今回あまりに長くなり過ぎたので、AKBと腐女子についての部分は別の記事にまとめました。

 それぞれ以下の記事に続きます。

 AKB ~人間化するポストモダン~

 腐女子 ~野生化するポストモダン~