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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

腐女子 ~野生化するポストモダン~

この記事は前の前の記事(オタクの異常な愛情  ~萌え~)を前提としています。(長くなりすぎたので分割しました。)

ただ、単独でも読めるかもしれません。

 

……

 

 僕はオタクが嫌いです。オタクに絶望したとも言えます。

 しかしそんな僕も未だ希望を失くしていないと思うオタクがいます。それがAKBファンと腐女子です。今回はその腐女子について、語ってみます。

 

キャラクターだけの世界

 腐女子達の好むBLの世界に、腐女子達本人の姿はありません。そこでは腐女子は不在にして一方的に「見る」のみ、キャラクターは一方的に「見られる」のみです。

 僕は前々回の記事(オタクの異常な愛情  ~萌え~)でオタク達の萌えについて「二次元美少女は現実的には存在しないわけだから、他者ではない。そこに「他者からの承認」はない」と書きましたが、ここには少し疑わしさが残ります。

 たとえ二次元美少女が存在しなくても、オタク本人がそのことを認識あるいは意識しなければ、そこからの愛を「承認」として受け取ることも可能ではないか、ということです。

 しかし腐女子の場合、それもない。いわゆる乙女ゲームの場合はそういう回路もありえるわけですけれども、そもそも自己がキャラクターとしてすら存在しないBL世界では、キャラクターからさえ承認を得ることは不可能なわけです。(個人的にはこうした「承認への飢え」こそが、腐女子同士の密接なコミュニケーションや果てはカップリング闘争の遠因なのではないかと考えていますがそれはまた別の話)

 いわば腐女子達はオタクの中でもかなり尖った位置にいる、物語に欲望を求めない非常にラディカルな集団なのだと思います。

 

動物化を超えた野生化

 僕が腐女子の方々に関して非常に面白いと思うのは、その萌えが内側だけでなく外側にも向いているところです。

 それは単に、男の二次元オタク達は二次元に萌えられても同じように三次元には萌えられないが、腐女子は現実の男性同士でBLを想像して萌えることが出来る、ということでもあります。しかしまたそれだけではなく、よく言われる「鉛筆と消しゴム」や「天井と床」のように、外界の事物をそのままの形で妄想に取り込んで萌えることが出来る。これ、二次元オタクならばまず「鉛筆」や「消しゴム」、「天井」、「床」を擬人化した萌え絵に加工する過程が必要なわけですよ。腐女子にはそれが必ずしも必要でない。

 外部のものを外部のまま、内側に引き込む(オタク的加工を施す)ことなく萌えることが出来るのは、非常に強いと思います。何に強いかというとクリエイティビティに関してです。単純に萌えに関する拘束条件がゆるいわけですから、次々に新しい萌えを創造することが出来る。昨今のオタクが失いがちな「萌えを求めるのではなく見つけ出す」姿勢を腐女子は今なお保持し得ていると思うのですよ。そう思える実例がどんどん上がってくる。

 そうした腐女子達と比べると、オタク達は「動物化」などといっても所詮はデータベースに飼い馴らされた「ペット」としての動物だという気がしてきます。それに対して腐女子は「野生」なんですね。外界と他者の介在なしに向き合っているわけです。ああ、今、例の「ホモォ」が頭に浮かんできました。あれこそ僕のイメージする腐女子そのものです。

 こうして腐女子達は創造性を保つことによって「何が嫌いかより何が好きかで自分を語る」ことが今でも出来ている。そこが今のオタク達と比べてうらやましいな、と思います。

 

げんしけん』の腐女子

 実は最近、かなり遅ればせながら『げんしけん』の新刊を読みました。

 二代目になってげんしけんの中心は腐女子に移りましたよね。斑目が影の(?)主人公とも言えますが、その描かれ方は「典型的な今のオタク」では全然無い。昔のオタクと腐女子達(&女装子腐男子)との関わりについてです。(そこにキャバ嬢も参入してきました)

 これはなんというか、当たり前のことだと思うんですよ。今のオタクってメジャー叩いてマイナーをキルミーベイベー的に茶化して褒めるくらいじゃないですか。「何が好きかより何が嫌いかで自分を語る」オタクなんか描いたところで、なにも面白くないんですよ。気が滅入るだけです。

 『げんしけん』の変化は実際のところ『げんしけん』自体の変化ではなく、描かれるオタク達の変化の反映なのだと思っています。今面白いのは男のオタクじゃなく、腐女子なんです。

 そのことは『げんしけん』に限らずですよね。腐女子を題材にした作品が増えていると腐女子に詳しくない僕でも思います『私がモテてどうすんだ』であったりcomicoの『咲くは江戸にもその素質』であったり。ああいう「なにかがひたむきにひたすら好きな人」を今の男オタクでは描けないんですよ。

 

男オタクの希望

 なんだか愚痴っぽくなってしまいました。一応フォローの意味も込めて今の男オタク達のまだ残存するクリエイティビティの実例でも挙げておきましょうか。

 僕の考えでは、最近の作品では『魔法少女まどか☆マギカ』で男オタク達のクリエイティビティがいくらか頻繁に発揮されました。

 その典型がまどかとほむら、さやかと杏子の「百合」です。作品に直接描かれていないものを妄想で補完して萌える、これが僕の言うクリエイティビティとその結果としての「萌え」です。残存する男オタクのクリエイティビティが腐女子と同じ同性愛の形を取って発現するというのは面白いですね。まぁ同性愛とは関係ない、マミさんの「デブ萌え」や「ぼっち萌え」などもあるわけですけれども。

 こうして見ると男オタクも死んだわけではありません。瀕死なだけです。是非頑張ってほしいものですね。

 

 さて、なんだか最後は関係ない話になったり、AKBの方が分量を割いた印象がありますが、どちらかというと希望が大きいと僕が思ってるのは腐女子の方です。

 AKBの発展の仕方は面白いけれども、その方向は「人間化」であり一般人(とその恋愛)への接近です。(AKBについては AKB ~人間化するポストモダン~腐女子のような尖鋭化ではないし、オタク的な方向からはむしろ遠ざかっているようにも見える。

 一方で腐女子の方も尖鋭化した「だけ」とも言えてしまう部分があり、なにか画期的な変化はまだ(少なくとも僕には)見えない。

 どちらの希望も、そして僕の嫌いなオタクも、これからどのように変化し希望を実現するのか、見守っていきたいと思います。