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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

蹴られるロボット犬への憐憫と「萌え」 そこに見えるポストモダン

オタクの嫌いなところ話 その他のお話

 もうやめてください!!泣いてるロボットもいるんですよ!!

 

……

 

 犬型ロボットを蹴り飛ばす動画について「虐待ではないか」「かわいそう」「倫理的にどうなのか」などと議論になっているようです。

 


「ロボット犬」蹴り飛ばすのは虐待!? 「ドラえもん」も巻き込み議論が白熱 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

 

 これに対してドラえもんやアトムなどを持ち出しつつ、ロボットに人格を感じ同情的になる感性を「日本的」とする人もいるようです。そのうえで欧米でもそのような感性があることに驚く、などの反応もある模様。

 僕もこの捉え方にある程度同意できます。

 特にロボット犬への同情と「萌え」について似たような何かを感じます。

 

蹴られるロボット犬と二次元美少女の対応関係

 当然このニュースに対して「ロボットじゃないか」「所詮機械じゃないか」とする反応も欧米日本問わずあるようです。

 そう、確かにロボット犬は「ロボット」であり「機械」なのです。

 ところでまたこの議論は僕に別の議論を思い出させます。「二次元美少女は所詮絵じゃないか」という議論です。

 そして確かに、二次元美少女は「絵」です。「絵」でしかありません。しかしそこに恋焦がれるオタク達がいる。

 ここで「ロボット犬」と「二次元美少女」のそれぞれの対応関係を見てみましょう。

 

ロボット犬          二次元美少女

機械             絵

憐憫             萌え

憐憫を感じる人        オタク

憐憫を感じない人       一般人

 

 こんなところでしょうか。

 こうしてアナロジー的に二つの事象を捉えてみることで新たな発見があるかもしれません。これまでオタクの二次元愛を理解できなかった人も、蹴られるロボット犬への憐憫を通せばすこしは理解が進むかも。その逆も然りです。

 

実質を無視し自分の感じ方を重視する

 ただの機械に対して実際の犬と同じような同情を示したり、ただの絵に対して「萌え」というある種の恋愛感情のようなものを感じたり、そしてそれを「所詮機械」「所詮絵」という捉え方より優先させる態度は「実質を無視して自分の感じ方を重視する」態度であると言えます。

 僕はここに現代人のリアリズムの転換を見ます。

 「現実」という万人が共有できる場を実際に存在するものとして捉える近代的なリアリズム(「所詮機械」「所詮絵」に通じる)から、個々の人間の「感じた世界」を(のみを)実在とするリアリズムへの転換です。ある種の独我論への接近とも言えるかもしれません。

 そのようなリアリズムにとっては、たとえ「所詮機械」「所詮絵」であっても十分に同情や萌えの対象となりうるのです。

 

人間もタンパク質の塊

 ところで「二次元美少女は所詮絵じゃないか」という主張に対してある反論がありえます。

 「人間も所詮タンパク質の塊じゃないか」というものです。

 この主張自体には単純に同意できない人もいるでしょう。魂や心といったものが物質とは別にあると考えている人は宗教色の弱い日本においても結構たくさんいると思います。一方で唯物論的、機械論的なこのような人間観に同意する人もわりかしいるでしょう。

 それはともかく、上記のような考え方を今回の議論に導入すると、すこし様子が変わってきます。

 「所詮機械」「所詮絵」は「所詮タンパク質の塊」、それに対して「それでも同情する」「それでも萌える」という態度は「それでも心を感じる」といったところでしょうか?

 そこには素直に「人間には心がある」と信じ切る立場は不在です。

 これは結構不思議なことだと思います。「所詮機械」「所詮絵」の中の「所詮」は、「人間」と「機械/絵」を対比して人間の方にのみ心を感じるからこそ出てくる言葉です。「人間や犬になら同情を示していいが、機械にはちょっとおかしいんじゃないか」というようなニュアンスがあるわけです。つまりどちらかと言えばむしろ「それでも(人間に)心を感じる」という態度に近しいのです。

 対応を見てみましょう。

 

 ロボット犬       二次元美少女          人間

 機械          絵               タンパク質の塊

 憐憫          萌え              心を感じる

①憐憫を感じる人     オタク(萌えを感じる人)    心を感じる人

②憐憫を感じない人    一般人(萌えを感じない人)   心を感じない人

③憐憫を感じない人    一般人(萌えを感じない人)   心を感じる人

 

 最後の行(③)に該当する人は、「人間に心を感じるのは当たり前だが、機械や絵に感じるのはおかしい」とする人です。もちろん「人間にも機械にも絵にも心などない」とする人もいるでしょう、そちらは最後から二番目の行(②)に該当します。

 僕が思うに、これらの人々(①、②、③)はそれぞれ別人というよりは、一人の人間が辿るステップなのです。

 

憐憫と萌えの源泉

 「人間に心を感じるのは当たり前だが、機械や絵に感じるのはおかしい」とする③は近代かそれ以前の態度だと言えます。しかし科学とりわけ医療が発展し、次々と「人間」というものが明らかにされる中で一概にそうと信じ切るのも難しくなってきた。

 科学が提示あるいは暗示する「人間はタンパク質の塊に過ぎない」という考えを受け止めると、必然的に②とならざるをえません。しかし②は他人のみならず自分自身の心にさえ疑惑を感じるようになるので、決して楽な位置ではない。

 そこで考えだされたのが①の態度なのではないでしょうか?

 人間がただのタンパク質の塊だとすれば心を感じられない。苦しい。そこで価値観を転倒させる。タンパク質の塊にも心を感じることが出来るようになるために、機械や絵にも同情や萌えを感じることが出来るようになればいいではないか。そうすればタンパク質の塊に心を感じても何も不思議ではない。

 つまり近代から現代へと進む中で、人間の心を取り戻すために、個人差はあれど人は③→②→①という経路を辿ったのだと僕は思うわけです。

 

ポストモダン ~そして動物化へ~

 ここまで書いてから、間抜けなことに、この考えが決して新しいものではないことに気付きました。

 東浩紀動物化するポストモダン』の中で紹介されるコシェーヴは以下のような主張をします。

 ヘーゲル的な歴史が終わったあと、人々にはアメリカ的な「動物への回帰」もしくは日本的なスノビズムという二つの生存様式しか残されていない。というのです。

 ここでヘーゲル的な歴史の終わりに「人間がタンパク質の塊で、心を信じられなくなった」とすれば、そして再び心を信じるために二つの生存様式しか残されていなかったと解釈すれば、僕の今回の考えはコシェーヴの二番煎じ、ということにできてしまうわけです。

 ここでアメリカ的な動物化と日本的なスノビズムはともに①に属するものとして眺められるでしょう。スノビズムは「無根拠に環境を否定」する態度で、日本的と言われるのは日本の切腹にその典型を見出されたからです。(ちなみに「好意的に」のようです。)実質的に自殺する理由がないのに、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺する、これが切腹ですね。あまり深いところまで立ち入りたくありませんが、この「無根拠に環境を否定」は「あえて」とか「それでも」に言い換えることが出来ると思います。それに対し「あえて」「それでも」さえ無い、もはや環境を否定しないのが動物化ですね。(ちなみに「実質的な根拠を信じて環境を否定」するのがヘーゲル的な歴史の中での「人間」のようです)

 ポストモダン化によりあらゆる権威や価値観が相対化され、「人間」や「その心」もその例外ではなかった。そこでその相対化を逆用する形で機械や絵に「あえて」「それでも」心を感じることで、再び人間の心を信じられるようになる。しかし『動物化するポストモダン』の中で語られているのは、そうしてスノッブであった日本でさえも動物化している、ということでした。もはや日本では「人間の心を取り戻すため」という目的さえ忘れられ(あるいはそれは最初から無意識だったのかもしれませんが)ただただ機械に憐憫を感じ、ただの絵に萌えられる結果だけが残った。まぁその結果の中には「人間の心を信じる」も含まれているのでしょうから、忘れられたとはいえ目的は達成されたと言えるわけですが。

 

 こうして見ると、ロボットに憐憫を感じるのが「日本的」とするのは半分正解で半分間違い、というように見えてきます。それは「日本的スノビズム」と「アメリカ的動物化」を両方含むものであり、しかも今では「日本的スノビズム」は「日本的動物化」へと様変わりして「日本的動物化」と「アメリカ的動物化」のみがその中に含まれていると言えるわけです。

 しかし「欧米の日本化に驚く」という態度は間違いを含む一方で鋭くもありますね。それは「欧米のポストモダン化に驚く」と言い換えることができ、その兆候を今回の議論から直感できたという鋭さが観察できるわけです。

 おそらく今後、ロボットへの同情派は増えこそすれ減ることは無いでしょう。それは人間の心への絶望と希望という別の極めて重要な問題と密接に絡み、そしてロボットへの同情を通してしかそれは解決できないからです。

 ロボットがいつか人間と同じような感情を得るとき、フィクションの中に描かれがちな「ロボットと人間の差別」は案外起こらないかもしれません。その時までには人間のほとんどすべてが「人間の心」という耐えがたい欲望に屈し、ロボットへの同情を全人類が共有しているかもしれませんから。

 

 

※追記

 最後の一文を読み返しながら、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思い出しました。