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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

オタク達の現在 または動物化のその後で

キルミンっ!

……

 

 過去にも何度か(何度も)しつこいくらいに取り上げたことのある東浩紀動物化するポストモダン』。その中で語られているのは人間からスノッブ、そして動物へと至る人々(とりわけ日本のオタク達)の変遷についてでした。

 この本が世に出てから十年以上経った今でも、そこに描かれている大筋から部分的な観察に到るまで、有効性を保っている部分は多いと思っています。

 しかし最近どうも、違ってきている部分があるような気がする。それは十年以上も経てば当然のことなのかもしれませんが、ともかく見ていきましょう。

 

動物化とは

 そもそも動物化とはなんでしょうか? それはこの本を語る上ですこし難しい部分があります。

 というのも「動物化」とは、本の中で紹介されるフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴの概念としての意味と、それを踏まえて東浩紀氏が日本のオタク達の変化に名付けた意味と、二通りあるからです。

 

コジェーヴの「動物化

 まずは前者を見てみましょう。 コジェーヴは「欲求」と「欲望」によって人間と動物の差異を定義しました。生物学的な人間は、ただそれだけでは「人間」ではない。空腹と満腹のような、欠乏ー満足の回路によって駆動する動物的な「欲求」に加え、「他者の欲望を欲望する」例えば「嫉妬されたい」と思うような「欲望」があってはじめて人間的ということになるようです。そしてそのような人間的な人間は、与えられた環境を否定する生き物として定義されるようです。「与えられた環境を否定」とはおそらく革命などのことですね。人間が人間的であった(とされる)近代以前の「歴史」の世界では、革命が可能でした。

 しかし歴史が終焉した後、もはや人間は以前のような意味で人間的であることはできないようです。そこでコジェーヴがその後に可能な生存様式として示したのがアメリカ的な「動物」と日本的な「スノッブ」でした。

 ここで「動物」より先に「スノッブ」を見てみましょう。日本的な、と言われているように、その典型が見出されたのは日本、中でも武士の切腹などについてのようです。スノッブは「与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する」とされています。実質的に死ぬ理由がないのに、名誉や規律という形式的な価値に基づいて死ぬ(否定する)切腹は、スノッブの典型ということですね。江戸時代には革命は無かったが切腹があった、このことから日本的な「スノッブ」という像が見えるわけです。

 これに対し、「動物」は環境をそもそも否定しません。実際の動物を見てもそうですね。動物たちは環境と折り合いをつけながら、自然と調和して生きている。自然ではなく近代化された都市と調和して生きるのが――つまりマクドナルドで食べてコーラを飲むのが――アメリカ的な「動物」です。

 

東浩紀の「動物化

 ようやくコジェーヴの「動物化」にたどり着けましたが、次は東浩紀氏による日本での「動物化」です。

 もともとスノッブであり、またスノッブであるとされてきた日本。これを『動物化するポストモダン』が「本当は動物化してきている」と解き明かしたことからも、それが単純な「動物化」ではないことがわかります。

 ここでの動物は「データベース的動物」とも呼ばれます。コジェーヴでは大まかに言って、欲望を持っていれば人間、持っていなければ動物、でしたが、データベース的動物は「小さな物語への欲求」と「大きな非物語への欲望」の二つを持ちます。「小さな物語」とは社会を巻き込まない個人間での(または物語と個人の内に閉じた)共感、「大きな非物語」とは社会にまたがるが物語でないもの(例としてはデータベース)と言えると思います。

 つまりデータベース的動物は、共感においては野生動物のように互いにほとんど会話せずに暮らしているが、共感を抜きにすればコミュニケーションはまだやっている、ということだと思います。

 ニコニコ動画を例にとれば、各々が動画を見て個々に楽しむが、同時に動画にコメントを流してコミュニケーションもしている。しかしそのコミュニケーションも、近代以前ほど脅迫的ではない。つまり気に入らなければ「まぁ人それぞれだね」で流せる程度のコミュニケーションだということです。

 

 動物化していた時代

  このような動物化の時代はあったのだと思います。特に『動物化するポストモダン』が発売された2001年とその周辺。例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ第一期が2006年ですが、少なくともこのあたりまでは動物化の時代だったのでしょうし、あるいはもっと後まで続いていたかもしれません。

 そう僕が思うのは、その頃オタク達は「環境を否定せずに生きていた」と思うからです。ハルヒの大ヒットもそうですし、ニコニコ動画の隆盛、声優ブーム――釘宮病などというジョークが流布していたり――、ハピマテ騒動などなど、時系列はおそらくバラバラですが、あの時代のオタク界にはプラスの感情が渦巻いていたと僕は思う。そのような環境の中でオタク達は「自分はこれが好き」「俺はあれが好き」と各々のポジションを定めることができていたと思います。

 

動物化が解けた時代

 しかし今現在、日本のオタク達は以前と同じであるという希望的観測には、僕はとてもじゃないけど同意できません。もちろん今なお何かを好きな事によって自らを定義しうる「何が好きかで自分を語れる」人はいるとは思います。しかしそれがどんどんしづらい状況になっているのは確かだと思います。

 事はオタク周辺に限ったことではありません。今やネットではあらゆる領域において不満が渦巻いています。テレビを叩き、バカッターを叩き、政府を叩き、隣国を叩き、有名人を叩き、底辺を叩き……最近売れた芸人や歌手でネットから好意的に受け入れられた方がどれだけいたでしょうか? むしろ芸人というだけで嫌い、「芸人」という概念自体を憎んでいるような人まで出てくる始末です。

 何かが嫌いであるということの発露自体は、ポストモダン化の時点でありえると思います。社会のポストモダン化によって諸々のイデオロギーや価値観は根拠を失い、相対化される。その結果としていろんなものが否定しやすくなるし、その発露にも抵抗は無くなるでしょう。前述の動物化の時代にも、不満の発露はあったのだと思います。

 しかしむしろ僕が注目したいのは、「何が好きか」を語る機会が極端に減っていると感じることです。ポストモダン化によって否定と同時に肯定もまた行いやすくなる筈が、現状はあまりにも否定に傾き過ぎてはいませんか?

 もはや現在のオタク達、のみならずネットに彷徨う多くの人々が、環境を否定せずに調和する「動物」であるようには見えません。動物化の時代は終わったのだと思います。

 

動物でなければなんなのか?

 環境に調和しないということは今の人間は「人間」あるいは「スノッブ」なのでしょうか?

 しかしどうにも、どちらも僕にはピンときません。現代の人間に切腹や、あるいは以前のオタクのような自覚的なスノビズムは感じないし、かといって革命が可能な世の中でもない。革命が起こっている様子も無い。

 そもそも選択肢は「人間」「スノッブ」「動物」の3つだけなのでしょうか? 僕にはまず、この3つという配置自体がなんとなく据わりが悪いように感じる。ここはひとつ図式の力を借りて形式的にヒントを探ってみましょう。

  「人間」「スノッブ」「動物」を位置づける二つの要素「環境を否定する理由の有無」と「実際に環境を否定するか肯定するか」で図を作りましょう。

 「肯定するか否定するか」を縦軸に、「環境を否定する理由の有無」を横軸に据えると以下のような図式が浮かび上がります。

 

 

 与えられた環境を……

 

 否定する理由あって否定(人間)  |   否定する理由なく否定(スノッブ

 -----------------+-------------------

 否定する理由あるのに肯定(?)  |   否定する理由なくて肯定(動物)

 

 

  いかがでしょうか?

 半ば意図的というか天下り的な匂いすら感じますが、ともかく要素が2×2で4つの象限が現れました。

 またそれだけでなく、これまで人々が辿ったとされる人間→スノッブ→動物という経路を考えると、どうしても予想してしまう展開はありませんか?

 つまり僕が動物化の次に考えるのは、人間でもスノッブでも動物でもない、第四の生存様式にしてに第三象限に当たる「否定する理由があるのに肯定」する者への変化です。

 

不満足な豚

 ここで「否定する理由」を「不満」という言葉に置き換えてみましょう。

 

 

 与えられた環境を……

 

 不満があって否定(人間)  |   不満が無いのに否定(スノッブ

 --------------+-----------------

 不満があるのに肯定(?)  |   不満が無くて肯定(動物)

 

 

 こうすると「人間」の「不満があって環境を否定」が革命だと解釈できそうです。また「不満が無いのに環境を否定」が切腹ですね。そこからさらに否定もしなくなったのが動物ということになります。

 そして第三象限を見てみると「不満があるのに肯定」。これは少なくとも僕にとっては非常にしっくりきます。今のネットには不満が渦巻いていて、もはや不満を口にし、書き込むことが一つのコンテンツ、娯楽になっている観さえある現在ですが、同時に不満を言葉にするだけで不満を解消しようとする「革命的」な行動はまず見えません。

 現在の人間像は不満があるけれどそれを解消しようとはしない、「革命無き人間」なのだと思うわけです。

 

 ところで「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い」という言葉がありますね。人間ではなく「不満足なソクラテス」となる場合もあります。

 おそらく現代のネットに典型的な「叩く人々」から見れば、流行に流されてワンピースを読むミーハー層や、ラノベ原作の覇権アニメに萌える萌え豚は、まさしく「満足な豚」ということになるのでしょう。両者はアメリカ的動物と日本的動物という意味で捉えれば確かに一理あります。それに対して「自分は不満足な人間/ソクラテスである」とまで思っているかどうかはわかりませんが、もし思っていたならそれは大いなる勘違いだと僕は思う。

 ただ不満足であるだけでは、人間でもソクラテスでもないのです。結局のところ行動面において「満足な豚」と変わらない彼らは「不満足な豚」と名付けるべきでしょう。

 こうして図式は一応の完成を見ます。

 

 

 与えられた環境を……

 

 不満があって否定(人間)     |   不満が無いのに否定(スノッブ

 -----------------+-----------------

 不満があるのに肯定(不満足な豚) |   不満が無くて肯定(動物)

 

  オタク周辺に限るなら、スノッブを旧世代の「オタク」、動物を「萌え豚」としてもだいたい通じるでしょう。人間は「一般人」といったところでしょうか?

 こうしてできた図の、人間→スノッブ→動物→不満足な豚、というのがこれまでに人々(特にオタク)が辿った経路。そして「不満足な豚」が人々(オタク)の現在だと僕は考えます。

 

 次回予告

  次回と言いつついつになるかわかりませんし、次の次の次の次くらいになるかもしれませんが、とにかく最後に予告をしておきます。

  というのも、これだけ長いこと書いたにもかかわらず、まだ言及できていない事柄がたくさんあります。

 例えば、人間→スノッブ→動物→不満足な豚、という展開から、さらに次を予想したくなりますよね?

 言ってしまうと、僕は循環すると考えています。つまり不満足な豚の次は人間です。

 一方で僕は、人間からスノッブや動物へと移り変わらせたポストモダンは、基本的に不可逆な過程だと考えています。ではどうして人間へと再び戻りうるのか? そこにある構造についてはまだ語れていません。今なんとなく思うところでは、いわゆるサークルクラッシュが大きなヒントになる気がしていますが、その界隈に詳しくないので書けるかどうか不安があります。

 しかしともかく書くでしょう。こうして予告したからには。

 というわけで今回はこれにておしまいです。それでは。