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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「やさしさ」無しにこれからの社会の進化は無い

その他のお話 オタクの嫌いなところ話

わたしたちはやさしい王様になるのだ!

 

……

 

 今の社会というのは、損を避けようとすればするほど損をする社会だと思います。

 そしてそれは個人と集団の乖離という現行の社会の避けようのない性質に由来すると思う。

 

個人として利益を追求することで損

 例えば選挙。以前「自分の一票には価値がない」ということを書きましたが、それもその一つですね。一票に価値がないとする観察に基づいて行動することはある程度理性的と言えます。しかしそのことが結果的に損を呼びよせる。

 他にもすこし前の牛丼屋やファストフード店の安売り合戦もこちらに含まれるでしょう。企業は集団ですが、企業自体の利益を追求した結果ですので「個人としての利益を追求」と相似です。安売りすればするほど自分は得をする筈が(少なくともそう思って安売りした筈が)業界全体の損に繋がって結果的に損をする。

 これらはどちらも、個は集団に属さないわけにはいかないことから来るものだと思います。個人は個人でありながら自己を含む何らかの集合の一員でもある。だから個としての利益ばかり追求して集団全体の利益を損なえば、結果は自分に返ってくるのです。

 

集団としての利益を追求することで損

 では集団としての利益を追求すればいいのか。それもダメですね。

 こちらの例として挙げられるのはいわゆる「社畜」。集団の中での自分に固執するあまり個人としての生や幸福を犠牲にしてしまっています。他にはアイドルの恋愛禁止などが挙げられるでしょうか?

 また以前に書いた記事AKB化するネット社会において描いたこともこちらに属すると言えるでしょう。この記事の中で語ったのは「匿名的な群れにおいて利益を追求することで個人としての自分が損をする」ことであり、記事の中で「集団」と「匿名」は違うとも書きましたが、おおまかな構図は同じです。

 集団の中における地位や利益を追求することで個人としての自分が損をする。このこともまた考えてみれば当たり前です。人は集団の中に属さずにはいられないのと同じように、個人としての自分を捨て去ることはできないのですから、どちらかは犠牲になる。

 

集団と個人の両立不可能性

 集団の中の自分と個人としての自分、双方を両立させることは出来るのでしょうか?

 出来ると思います。

 しかしそれは理想的にはという意味で、実際に実現するのはかなり難しいだろうし、また「ある場合には」でしかありません。

 そもそも集団の中の自分と個人としての自分を両立できるような領域は、「双方が両立できるだろうか?」という疑問を生みえません。両立できない(難しい)からこそ問題がはじめて生まれるわけです。

 特に幸福に関してはほとんど不可能でしょう。

 そもそも「個としての幸福の追求」は「集団としての幸福の追求」とほとんど対立します。個にとっては他者しかおらず、他者を攻撃して奪うことで幸福が実現します。逆に集団の中ではその他者が損をしないように気を遣う必要がある。

 一方で「集団としての幸福の追求」も他集団への攻撃と奪取が前提となります。また集団のために自分という個を犠牲にすることは、それが集団の中での前提となった時点で集団に属する仲間への攻撃にも転化します。社畜に顕著な傾向ですね。社畜は自分だけでなく同僚の社畜化も求めるようになる。すべてそうとも限りませんが。

 こうして「Xとして利益を追求」はXの中に個人を入れた場合も集団を入れた場合も失敗します。つまりそれは「個人だから」「集団だから」という問題ではなく、「利益を追求」というやり方自体が間違っているということです。

 

多重化する自己

 なぜ「利益を追求」が間違っているのか? それはそれが結局「利益の追求」になっていないからです。

 自分という存在は「個人として」「集団の一員として」あるいはまた別の、とにかく多層化した存在です。その中の一面しか意識しない「利益を追求」は他の面での自分を傷付けます。また多重化した面すべてを意識したとしても、今度はそれによって他者(=別の面での自己)を攻撃できなくなり何も奪えなくなる。

 どう頑張っても無理なのです。

 

 本当にそうでしょうか?

 

「情けは人のためならず」「損をして得を取れ」

 昔の人は偉いもので、ちゃんと後続にヒントを残して行ってくれています。

 「利益を追求」が間違っているなら「利益を追求」しなければいいのです。

 他者への攻撃が前提となる価値観から脱却すれば、他者はすなわち別の面での自己なのですから、他者を癒すことがそのまま自己を癒すことにもなる。

 多重化した自己への自覚が生むものは、感覚としてではなく理性的な「共感」です。僕は他の誰かの痛みを痛みとして感じることはできないが、痛みがあることはわかる、理性的に、あるいは手続き的に。もちろんこの「理性」には限界がありますが、その限界が効いてくるような段階ではないだろうというのが僕の実感です。

 

 わかりやすく言えばこれもまた一つの選挙です。

 社会全体を自分という個人に優しく、また集団の中の自分にも優しい社会に作り変える必要がある。具体的には自分以外の人々が「自分以外の個に優しくする」「自分の所属しない他の集団に優しくする」ことを実行するような社会です。そのような社会に変えるためには「他の個に優しくする」「他の集団に優しくする」という「一票」が多数派を占めればいい。こう表現すれば、もはや選挙において「自分の一票が無駄だと思わない」人が取るべき行動はやはり「一票を投じる」以外になくなるでしょう。

 

 一方で「他者に優しくする」ことを強制することは僕にはできません。それはもちろんそうする力を持たないからですが、もし力があったとしても、社会という集団のために個に対して犠牲となることを要求することは、今回の論旨と矛盾するのは明らかでしょう。

 だからこれは提案でしかない。あなた自身に自発的にやってもらうしか道はありません。

 これは僕の「正義と倫理」にもかかわる問題です。僕の中では「正義」とは他者の間違いを指摘する攻撃であり、「倫理」とは自己の間違いを抑制する我慢のことです。そして現在の社会では「正義先行、倫理疎か」の傾向があり、また倫理無き正義は意味的にも実際的にも無意味だというのが僕の観察です。なぜなら他者の間違いをどれだけ指摘しても、相手の方に「自己の間違いを抑制する」倫理がなければ、結局何も起きないからです。

 つまり現代において、僕があなたになにかを求めるような「正義」は意味を為しません。必ずあなた自身が自覚的かつ自発的に行う「倫理」によってしか、社会は変えられないんです。

 そしてそのこと自体が「やさしさ」無しにこれからの社会の進化は無い、ということの意味です。それは綺麗事どころか、現在の閉塞に関するおそらく正確な観察です。

 「やさしさ」無しになんとかここまでやってこれた社会は、「やさしさ」無しにこれからの進化がない絶望の段階まで進んだということです。

 

 だから、やさしくしましょう。