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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

RPG的ロールモデルの失敗

オタクの嫌いなところ話

お前らは また 別の敵を見つけ
戦い続けるがいい

 

……

 

 はっきり言ってしまうと、僕は幼稚な人間です。そしてもちろん、このブログの批判対象であるオタクもまた、その多くは幼稚です。

 どういう点で幼稚であるかと言えば、例えば恋愛もまともにできないところ、コミュニケーション能力が欠如していること、つまりいわゆる「非リア充」であるという点において幼稚なのです。(つまり今回のターゲットは「オタク」かつ「非リア充」ですから、該当しない人は帰っていいですよ。)

 一方で、それら「リアルが充実している事」が成熟の証であるとする価値観に頷けない人もいるでしょう。特に恋愛経験を成熟の基準として見る恋愛至上主義的な価値観には。

 でも、そんなこと言ってるから未熟なんです。

 僕もあなたも。

 

 社会の中で生きること

  人間は言うまでもなく社会的な動物です。社会の中で生きていくためには弱肉強食の大自然の中で生きるのとは少し違った生き方をしなければなりません。戦って奪うだけでなく、協力し、我慢をし、時には他者を許し、そうやって生きる必要がある。

 そうして安定な社会の中で難なく暮らしていけるのが「成熟」ということだと思います。

 

RPGが提供する価値観

  ところでRPGでは大抵レベルアップシステムがありますよね。敵を倒し、一定の経験値を得ることでレベルアップする。そうして戦闘能力などを向上させ、スキルを覚えたりする。つまるところ「成長」です。

 このようなRPG的な捉え方は社会の中でもある部分では有用です。戦って勝つことで成長する。負けることでも成長する。スポーツや社会の中での自由競争の場など、結構いろいろな場面で活用できることでしょう。

 そしてそれらの場は、ほとんど例外なく「社会の中に残る自然」の領域、つまり「未だ弱肉強食の場」であることがわかります。

 考えてみれば当たり前のことです。社会的な動物である人間にとって、ゲームの提供する非日常とは「社会とは違う」自然であり弱肉強食の世界です。女神転生シリーズなどに顕著ですが、東京という社会が崩壊するところから物語が始まる。またドラクエシリーズなども見ても主なゲームの場は城や町の外の魔物が出る自然フィールドであったり、理性的な対話の通用しない魔物のボスとの戦闘だったりします。

  これらのRPGが提供する「戦うことで成長する」「成長することで勝つ」ロールモデルは確かに社会の中でも有用ですが、その有用性は限定的でもある。

 つまり社会の中でもより社会的な部分、協力はまだしも「我慢」や「許し」が必要となる場面ではそのようなロールモデルに出る幕は無いのです。まぁJRPGはシナリオ面でその点をカバーしてるという見方はありますが(必ずしも勧善懲悪でない、悪にも事情がある、など)作品のメッセージを自分の人生と関連付けて真に受けることの少なくなった昨今ではそのような回路も正常には動作していないように思えます。

 実際、RPGなどを好むようなオタク層が苦手とする恋愛やコミュニケーションは、まさに社会の中のとりわけ社会的な部分です。

 ひとつ例を取ってみると、オタクのアイドルの容姿に対する異様な厳しさがありますね。恋愛やそれに類するものにおいては「許し」というものも非常に重要な要素となると思いますが、オタク達にはそれがない。恋愛市場で自分が受ける厳しさにもかかわらず(むしろだからこそ?)他者に対しても厳しく接してしまうのです。そこはやはり「未熟さ」と見るべきでしょう。「成熟」していないんです。

 

ゲーム内コミュニケーションの移り変わり ~女神転生からペルソナへ~

  一方でPRGの中にだってコミュニケーションはある、という意見もあるでしょう。それは生身の人間ではなくあくまでプログラムとのコミュニケーションでしかありませんが、確かにあることはある。

 すぐに思いつくのは先程も挙げた女神転生シリーズです。このいわゆるメガテンシリーズでは、敵キャラとして登場する「悪魔」と対話したり交渉することで「仲魔」にすることができる。ポケモンドラクエモンスターズシリーズの先駈けのようなゲームです。

 僕はこのゲームについて「あくまでプログラム相手である」という保留はあるものの、コミュニケーション的にも意味がある作品だと思っています。(ちなみに「あくま」で「プログラム」というのは笑うところです。デジタルデビル物語ですから)

  弱肉強食世界における「敵」である悪魔とコミュニケーションすることで、仲魔という「仲間」にもできる。これは弱肉強食の自然が多くの部分で残る現在の社会とも優れた対応関係を持っています。まぁそうして得られた仲魔を悪魔合体で別の悪魔にしてしまうなど、インモラルな面もあり、そこが面白くもあるのですが。

 さて、この女神転生シリーズには別の派生シリーズがあります。それがペルソナシリーズです。

  このペルソナシリーズ、特に三作目と四作目である『ペルソナ3』『ペルソナ4』ではコミュニケーションが前面に押し出されたゲームとなっており、半ば「ギャルゲー」と揶揄される事もあるほどです。

  しかし僕には、この『ペルソナ3』『ペルソナ4』への進化がコミュニケーション面での後退だと思えてしまう部分があります。

 これは特に『ペルソナ1』『ペルソナ2』のファンや女神転生側のファンによくある不満なのですが、敵キャラが両シリーズの魅力を支える「悪魔」でなく、どこか匿名的で個性に欠ける「シャドウ」なのです。そしてコミュニケーションの相手はこのシャドウでも悪魔でもなく、日常パートで接する「人間」なのです。

 つまりここでは「敵」である「シャドウ」と、「味方」あるいは「守る対象」である「人間」が明確に区別されているのです。もちろんストーリーが進むにつれ同じ人間やペルソナ使いがボスとして登場することはあるのですが、この基本構造はやはりコミュニケーション的には後退だと思う。

 誤解しないで頂きたいのは、僕は『ペルソナ3』『ペルソナ4』が好きだし、むしろこちらの方が好きな部分もあるということです。コミュニケーション的にも『ペルソナ3』『ペルソナ4』の中のコミュニケーションは楽しいし、それまでの作品では描けなかった様々な事柄を描けてもいる。

 しかしこと「RPG的ロールモデルからの脱却」という意味では、やはりコミュニケーションの対象を「身内」にのみ絞ってしまうようなシステムは「勧善懲悪」への回帰であり、後退だと言わざるを得ないのです。

 このあたりは以前書いた記事オタク達の現在 または動物化のその後での中で言及した「人間」すなわちイデオロギー的な動物への回帰とも関連する話です。つまりポストモダンによって分裂したそれぞれの島宇宙の中で、近代以前の社会のようなイデオロギーが絶対的な社会が構築されつつある、『ペルソナ3』『ペルソナ4』はその反映という面を持っていると思います。そこでは守るべき「人間」と倒すべき「シャドウ」が決定的に分かたれているのです。

 まぁ、ちゃんとストーリーを追えば、そのシャドウは本当は「受け入れるべき」対象であることはシナリオ的にはちゃんと描かれているのですが、ゲーム上のシステム面ではほとんどそれが否定されてもいる。ゲームだから仕方ないと言えば仕方ないんですが。

 

 新たな(古い)ゲームの提案

  さて、ここまでRPGの提供するロールモデルについて語ってきました。

 しかしそれで終わるのでは、まさに「戦って」「許すことがない」RPG的ロールモデルの反復そのままになってしまいますね。

 RPG的ロールモデルには限界がある「だからダメだ」で終わってはそれこそダメなのです。「こういう面はいい」といった評価や「だからこうした方がいい」などの提案がせめてなければ。

 そこで僕が提案したいのは「戦って成長する」以外の価値観、特に「成長」ではなく「成熟」も取り入れたようなゲームです。

 つまり社会的なコミュニケーションにおける「我慢」や「許し」によって能力値か、なにかが上がったり得られるようなシステムの追加です。

 でもこれって、『ペルソナ3』『ペルソナ4』のファンの方ならわかると思いますが、既に達成されているんですよね。『ペルソナ3』『ペルソナ4』では日常パートで様々なキャラとコミュニケーションし、特に倫理的あるいは寛容的な選択肢を選ぶことで自分の所持する「ペルソナ」が強化されるようなシステムを取っています。特に優れているのはこのシステムが戦闘を通しての「成長」によるレベルアップシステムとは別に存在するということです。これによって「成長」だけではダメだよ、「成熟」もしなきゃいけないよということがシステム的にも示されているんですね。

 そういう面では、実は『ペルソナ3』『ペルソナ4』はコミュニケーション的にもかなり大きく前進した作品であるとも言えます。これと比べれば前述の「後退」などは無視してもいいかもと思えるくらいに。

 でもそこを無視せずに行きましょう、というのが僕の提案です。

 『ペルソナ3』『ペルソナ4』は非常に優れたシステムを持っています。ここに更に女神転生シリーズや『ペルソナ1』『ペルソナ2』にあって本作に欠けていた「敵とされる対象とのコミュニケーション・和解」を加えれば、光と闇が両方そなわり最強に見えること間違いなしです。

 しかし一方で、ここには様々な困難があります。『ペルソナ3』『ペルソナ4』で悪魔とのコミュニケーションが廃されたのは決して理由無くではないことが今更わかります。両作はコミュニケーションを日常パートに分けることで、より時間を割いた、濃密なコミュニケーションを可能にしています。女神転生的な戦闘中のコミュニケーションではとてもここまでできません。また「同じ相手」との継続的・断続的なコミュニケーションも女神転生ではできません。ある戦闘でコミュニケーションした「スライムA」と、別の戦闘で出会った「スライムB」は別人(別悪魔?)だということです。更に「同じ人間同士」という前提の共有によって初めて可能になるコミュニケーションも存在する。

 まず「同じ人間同士」という前提の共有ですが、これは今流行りの「人外娘」で対応させましょう。メガテンシリーズやペルソナシリーズの悪魔やペルソナにも、そういう対象とされている者はいます。またここで「娘」にこだわる必要は特にない。「人外美少年」などもばんばん入れましょう。この際BLもアリです。

 そして「同じ相手との継続的なコミュニケーション」ですが、神話に登場する神々には「使い魔」や「化身」「権現」(アバターですね)といった便利な概念があります。これによって、各戦闘における別々の個体(「スライムA」と「スライムB」)の間でなんらかの形で意識や記憶が共有あるいは統一されているという設定は十分に可能です。

  それから更に、戦闘中でも長時間のコミュニケーションができるようにすれば、ひとまず挙げた分の困難は克服できます。もちろんこれだけとは限りませんが。

  とにかく、そういうゲームがあってもいいんじゃないかなー、と思うわけです。

 

ゲームを捨てよ、町へ出よう

 ただ、そのようなゲームを作ったところで、それで終わりではやはり何にもなりません。あくまでそれは「成熟」という目的のための手段であって、「成熟」が達成できなければやはり意味がない。

 結局のところは現実でどうにかするしかないのです。現実で恋愛し、現実の人間関係をどうにかするしか「成熟」への道はありません。

 ただし「恋愛至上主義に頷けない」とする人の感性はある程度は正しく、現在の社会で「恋愛」が成熟の尺度になっているのは偶然的なこと、「たまたま」ではあります。とはいえ現状そうなっている以上やはり恋愛するしかないのですが、仮にその偶然性を利用して社会そのものを変えてしまえば、次に採用された基準が正義です。今度は「恋愛」が何の価値もなくなるかもしれない。

 そこで僕が推したいのは「やさしさ」ですね。今の社会でもある程度は評価される点ではありますが、軽視されている現状は否めない。

 もし「やさしさ」が成熟の尺度になれば(意味的にそれは十分になりうると思います)内気な童貞ボーイでもなんとかなります。そして僕は別のところで「やさしさ」無しにこれからの社会の進化は無いとも言っている。「やさしさ」がシステム的に正当化されるような環境を作り上げれば、「RPGロールモデルの失敗」を本当の意味で超えることは可能だと思います。