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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「意識高い系」批判の傾向と対策

その他のお話 オタクの嫌いなところ話

なろうと思ってなったもんじゃねぇから

やめる事もできねぇよ

 

……

 

 さて、昨今非常に元気ないわゆる「意識高い系」への批判ですが、そこここに瑕疵が見られるのはご愛嬌。しかしそうとばかりも言っていられない。せめて個別対応できる程度の傾向と対策は練っておいた方がいいかもしれないということで今回の記事です。

 

「意識高い系」へのルサンチマン

 ひとまず意識高い系批判に関してよく言われるのが「嫉妬によるものではないか」「すっぱいぶどうではないか」といった反論(?)です。ここでより意識高そうな言葉を使えば「ニーチェで言うところのルサンチマン」ということになるのでしょうか。

 実際ある程度は的を射ていそうです。そもそも「意識高い系」に属さず、かつそれを見下ろせるような位置にいる人が、わざわざ意識高い系批判をするとも考えにくい。

 「意識高い系」を批判したくなるような不満や鬱憤を日頃溜めている人物像と、ルサンチマンという言葉はなかなか魅力的な結びつきを見せます。そこで更なる根拠を求めるような厳密さをそもそも意識高い系批判側が見せたかと言えば、かなり苦しいでしょう。となれば、これでもある程度は十分と言えます。

 

何によって分けるのか

 しかし意識高い系批判側にも言い分はあって、「批判しているのは口先だけの「意識高い系」であって、ちゃんと結果を出している「意識高い人」は批判していない」ということのようです。

 この「結果」に当たる部分、意識高い系と意識高い人を分かつ基準は具体的には何なのでしょうか?

 世間的に成功を収めるということでしょうか? しかしそうしたとき、ひとつ大きな問題が浮かび上がります。

 

みんな最初は「意識高い系」だった

 彼らの言う「意識高い人」は「意識高い赤ちゃん」として生を受け、「意識高い小学生」「意識高い中学生」「意識高い高校生」と歩み「意識高い大学生」を経て「意識高い社会人」そして最後に「意識高い人」となり、ついに一度も「意識高い系」にはならずにここまで来たのでしょうか?

 そんなわけないですよね。

 結果なんてそう簡単に出せるものではありません。それが貴ければ貴いほど、やはり困難はつきものです。例えば小学生にしてある種の「成功」を収める人もいますが、やはり子供には子供なりの「結果」しかほとんど起こせないというのもやはり事実。小学生で相対論を理解できればすごいですが、年を経るごとにそのすごさは減退して行きます。

 今「意識高い人」と言われている人も、その昔は「意識高い系」だった公算大なわけです。

 

「にわか」議論との類似性

 さて、この話にデジャビュを覚えるのは僕だけでしょうか?

 僕からすると、この議論はオタク界隈における「にわか」論議に非常に似通っています。故に、ふとこんな声が聞こえてきます。

 誰でも最初はにわかだった。

 いや、知らない癖に知ったかぶりするのがにわかだ。

 などなど。

 当然今回の議論でも同じことが言えそうです。つまり「誰でも最初は意識高い系だった」のではなく「意識高いとされる行動を、知ったかぶり的に行うのが意識高い系だ」と。例えば高邁な目的などなく、ただ見栄と虚栄心によって海外に行く、などでしょうか。

 でも、ここにもやはり問題はあるようです。

 というのも「にわか」に関して「知ったかぶりだ」と言えたのは、知ったかぶりであると判定できる者、即ち真正の「オタク」だけなのです。

 ということは「意識高い系」に対して「知ったかぶり的だ」と指摘できるのは、やはり真正の「意識高い人」だけということになってしまう。

 果たして意識高い系批判を行っている人たちは、これに当てはまるのでしょうか?

 

意識的トリニティ

 ここでオタクにおける「にわか」との類似性を見つつ、「意識高い系」周辺を整理してみましょう。

 

      意識高い人     意識高い系       一般人

      オタク       にわか         一般人

 

 およそこのような対応関係が考えられます。

 ここでもし意識高い系批判の主体が「意識高い人」でないとすると、自動的に「一般人」に当てはまり、意識高い系批判はオタク周辺に翻訳すれば「一般人のにわか批判」ということになってしまうわけです。

 

お前はどうなのか

 さて、これまで長々と語ってきましたが、「そう言うお前は結局どれなんだ」と聞かれると、どれでもない、と答える他にありません。

 強いて言えば僕は「意識高い系系」か「意識高い系系系」くらいでしょうか?

 僕が手本とする人々の中には、もちろんちゃんと結果を出した本物の「意識高い人」もいますが、今のところ結果という結果を出しているわけではない人もいます。でも僕は、たとえ結果を出してなくても「意識高い人」の真似事であっても、それをやっている人の一部を尊敬しています。ある部分では真似をしてもいる。そんな僕は「意識高い人」の真似事の真似事、即ち「意識高い系系」や更に系を重ねた何かになるわけです。

 で、それでいいと思うんですよね。

 知ったかぶりでもなんでも、とにかくやればいいんです。やればすこしは成長もするでしょう。「形から入れ」ということですね。やはり僕は「意識高い人」は全員とは言わぬまでも一定数は昔は「意識高い系」だったと思うわけです。少なくともそうでない証拠などどこにもない。

 「意識高い系」でいいんです。いずれ「意識高い人」になればいいし、なれなくても別に構わない。意識高い系批判など無視すればいいし、目障りなら蹴散らせばいいのです。

 というわけで、そろそろ「対策編」に入りましょう。

 

オタク的手段の応用

 冒頭のげんしけんパロディで暗示したように、また「にわか」を軸にした三位一体で示したように、僕は「意識高い系」を「オタク」に類比するつもりです。

 そしてそこには戦略的な意味も含まれています。なにしろオタクは自己防衛のための理論武装や戦略をこれまでにいろいろと磨いてきたし、なにより意識高い系批判をする層とオタク層は被っている部分があると思うからです。

 つまり、オタク自身にオタクの戦略をぶつければ、そう簡単には抵抗もできないだろうという算段があるわけですね。

 ではその一例をまず見せましょう。

 

意識高い系批判のミーハー説

 三位一体の中で意識高い系批判の主体は「一般人」である可能性があるのでしたね。それを使いましょう。

 一般人に対するオタク的な侮蔑の代表格は「ミーハー」という言葉です。

 そして、いわゆる「世間的な成功」や「目に見える結果」によって意識高い人と意識高い系を弁別せんとするその態度こそまさに「ミーハー的」と言えるわけです。

 わかりにくいかもしれないので図式的に見てみましょう。

 

      人気作            意識高い人

      マイナー作品         意識高い系

      オタク(マイナー志向)    意識高い系を評価する人

      ミーハー           意識高い人しか評価しない人

 

 最後の段が意識高い系批判を行う層ということになるわけですね。

 ここにおいて世間的な成功のみを価値基準とする狭隘な価値観は「ミーハー」としてオタクに共感的に批判されます。逆に社会的な成功は収めていないものの鋭い論評を繰り出す「知る人ぞ知る」意識高い系などを知っていたりすると、コアなオタクと同じ位置に置かれるわけですね。すくなくともこれによって「意識高い人」と「意識高い系」を分かつ壁は吟味を迫られる事にはなりそうですね。

 

開き直り論法

 今度は理屈面ではなく、もっとパフォーマティヴな面でオタクを見習ってみましょう。

 それにしても対策二個目にして早くもろくでもなさそうなタイトルですね。しかしそもそもがろくでもない「オタク」を先生としているのだから仕方がありません。

 世間一般の白い目にもかかわらず開き直って居直ったオタク達は今や、すくなくともネット世界においてはなかなか無視できない集団へと変貌を遂げました。前述の「にわか」論議からもわかるように、もはやオタクであることがマイナスどころかプラスのステータスとみなされつつあるような場面も(一部には)あるほどです。

 実際「意識高い系」批判に対する開き直りはかなり有効だと思います。「うん俺は意識高い系だよ、それで?」と言われた場合、なんと返せばいいのでしょう? せいぜい精一杯の罵言を浴びせて去るくらいが関の山だと思われます。

 なにより「意識高い系」であることは何も悪いことではないし、続ければ成長にも繋がるでしょう。これがニートなど、放っておけばおくほど悪化するものであれば「開き直り」との相性は最悪なのですが、意識高い系はそれには当たりませんから、開き直って放っておいてもらえばもらうほど、得しか無いというわけです。 

 

日本鬼子に学べ

 オタク的開き直りが功を奏した典型例として記憶に新しいのが「日本鬼子」です。

 覚えている方も結構いらっしゃると思います。中国における日本人に対する蔑称であった「日本鬼子」を、萌えキャラとして描くことで見事に無力化してしまった。この一例を見てもオタク的開き直りがいかに強力か見て取れます。(最近ではISILに対する糞コラ騒動もこの類似例として考えられますね。あちらはすこし行き過ぎて不謹慎な部分もありますので、深い言及は避けますが)

 要するに、徹底的に茶化してしまえばいいわけです。

 「意識高い系」と言われて真面目に反論しても埒が明きません。むしろ茶化して開き直って横滑りさせてしまえば、もはや意識高い系批判をする意味も、そこに期待される成果も得られなくなるでしょう。

 

まぁ放送上リリカルなのは ~なまえをよんで~

 また別の手として「意識高い系」批判の方法をそのまま用いるという手もあります。

 そもそもいわゆる「意識高い系」は、以前は「ミサワ」などとも呼ばれていました。オタクはこうして、馬鹿にしたい何かに名前を付けるのが非常にうまいのですね。まぁ、それが彼らの嫌悪する「草食系」などのタームを生むのと同種の才能である点はなかなか皮肉ですが。

 対象に名前を付けるだけでなんだかそれを分かったような気になり、一気に攻撃しやすくなります。意識高い系批判そのものも、こうした対象化に支えられています。しかし今は別に攻撃が目的ではありませんから、ここまでやる必要はないかもしれませんね。

 それに意図して何かを流行らせるのは、そう簡単な事ではありません。

 

 その他雑多な対策集

  他にもいろいろ考えてみました。

・「なるほどですね!」とあくまで意識高げに返す

・意識高い系と馬鹿にされたことをブログのネタに

・「石北カイさんって誰です?」とかとぼける

・むしろ石北カイとしてブログを始める

・「ロラン・バルト的見地から見て、意識高い系の物語性の持つコノタシオンとデノタシオンの複合性を、あなたはどのようなものと捉えているの?」とか言ってみる

中島みゆきの「 ファイト! 」を歌いだす

・「撤回はしなくていい 所詮獣の戯言 オレの心には響かない」

・『以下略』のヒラコー張りに意識高い世界へ誘う

・ヤクザを誘う

・ドラゲナイする

・キラキラした目でこちらを見つめてきやがる

 などなど、あなたも自分だけの対策を見つけて友達と対戦しよう。

 

やめられない 止まらない

 さて、本当に長くなってしまいましたね。

 でも実のところ、僕はあまり心配していません。

 正直なところ、意識高い系批判で意識高い系をやめる人ってあまりいないと思うんですよね。

 だって、なろうと思ってなったもんじゃないから、いつのまにかそう呼ばれるものになってただけだから、やめるとかそういうことじゃない。

 オタクをやめられないのと同じです。単にそうするのが好きな事に対して、周囲の目とか、関係無いんですよね。そんなものはやめる理由にはならない。

 顔も知らないような赤の他人の言葉ならなおさらです。特に意味はありません。

 意識高い系だろうがなんだろうが、自分の好きなようにやればいい。結局はそれだけです。

 他者を行動の理由とする意識高い系批判者と、自己を行動の理由とする意識高い系、その対比だけで、もはや十分とも言えます。

 自分の気持ちに素直に正直に、今日も精いっぱい意識高い人生を歩みましょう。