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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

今更『ゼロ年代の想像力』を読んでみました

 今更ながら宇野常寛ゼロ年代の想像力』を読みました。

 かなり、ショックを受けました。大分と時期が過ぎた今でさえこうですから、この本が発売された2008年当時、どれほどの驚きをもって迎えられたか、想像に難くありません。

 そこで「どうせ今更なら」ということで「今更」でしかできない復習を今回は行いたいと思います。

 その前に、この本における議論をかなり大雑把にですが、見てみましょう。

 (書いてみると長くなってしまったので、次の「現代に蔓延る決断主義」まで飛ばしていただいても構いません)

 

決断主義的バトルロワイヤルの侵食

 この本で前提となっているのはポストモダン化による「大きな物語」の失効、そしてその更なる帰結として東浩紀氏が『動物化するポストモダン』の中で指摘した「動物化」です。

 僕達の社会は幾多の発展の末、様々な局面で流動性を獲得しました。「流動性」とは「取り換え可能であること」だと解釈しています。象徴的なのはユニクロマクドナルド、牛丼チェーンなど。これらの店舗はわざわざ都会のど真ん中に出なくとも、郊外の駅前に行けば大抵あります。そこでは「都会」の絶対性や特別性といったものが失われている。そしてこのような社会の変化は、個人の価値観構築にも影響を与えました。そこでは「主義」や「思想」「個人の存在」が取り換え可能になり、絶対性を持った主義思想が失われ、個人は取り換えのきく存在になりました。

 こうした状況の中では、絶対的な「大きな物語」が個人に「生きる意味」や「規範」を与えてくれる、といった回路が正常に働きません。こうして中心的な価値の喪失を経験した結果、オウムの出現や、その克服としての『エヴァンゲリオン』などの「ひきこもり的」な想像力の登場があったと言われています。

 大きな物語が失われた今、個々の人間やグループの信じる「小さな物語」を大きな物語に誤読することにはオウム的な危険性と暴力性がつきまといます。そしてその危険性に自覚的になったとき「社会で自己実現しようとすれば必然的に誰かを傷付けたり傷付けられたりする」といった「社会的自己実現への信頼低下」と、「そうなるくらいなら何もしない」といった(エヴァにおける碇シンジのような)「引きこもり的」な価値観が生まれるわけです。

 ここまでが、大まかな前提と言っていいでしょう。エヴァでは最終的に「キモチワルイ」とヒロインであるアスカに言われても他人と関わることを選ぶという前述の「ひきこもり」を脱却するような結末が選ばれたり、その決断を無視する形でエヴァを受けついだセカイ系の流行などがありますが、今回は省きます。

 こうしたひきこもり的な「~しない」という価値観は様々な分野に波及し、更に「新しい想像力」ともてはやされた時期がありましたが、著者はそれを「既に古い」と切り捨てます。

 そこで新たな想像力として「ゼロ年代の想像力」の前半部分に挙げられるのが「決断主義的」「バトルロワイヤル系」です。『DEATH NOTE』『コードギアス』『仮面ライダー龍騎』などが代表的な作品として挙げられると言えば、なんとなくピンとくる人もいるかもしれません。

 そこでは「傷付けたくない・傷付けられたくないから何もしない」といった引きこもり的な価値観は「それでは生き残れない」として退けられます。『仮面ライダー龍騎』のキャッチコピー「戦わなければ生き残れない!」にわかりやすいですが、生き残るためには他者を傷付ける事も厭わない、そんなある意味「ひきこもり」とは正反対のヒーローが(そしてダークヒーローが)創作物の中に姿を表していきます。

 こうした創作物の傾向における変化は社会状況の反映でもあり、またそこに生きる人々の反映でもあります。今回主に語りたいのはそこ。現代に生きる人々がどれほど「他者を傷付けることを厭わない」決断主義的なバトルロワイヤルのプレイヤーに染まり切っているか、を主に追っていきたいと思います。

 また、本書ではこうした決断主義的なバトルロワイヤルの克服を目指した(と著者の見る)作品がいくつも挙げられ、分析が加えられています。(むしろそこからが本題です)しかし現在の状況を見るに、未だ決断主義的なバトルロワイヤルは克服されていない、というのが僕の私見です。

 

現代に蔓延る決断主義

 「決断主義」とは大雑把に言えば「真正な価値や物語がないのは分かってるけど、それでも「あえて」特定の価値や物語を選んで絶対視する態度」と言えると思います。

 そしてそういう人は、僕の見る限り現代に溢れている。いや、恐らく正確には上記の「あえて」がすっぽり抜けた、いわば「動物化した決断主義」が横行しているのが現代でしょう。

 それは例えば「人それぞれ」という言葉へのある種の人々の苛立ちに見る事が出来ます。

 「人それぞれ」というのは中心的な価値の無くなったポストモダン状況をそのまま抉り出すような言葉ですね。今にピッタリな言葉と言えると思います。しかし例えばアニメや漫画を批評・批判している時にこうした言葉をかけられると「そんな事は分かってる」「それは前提とした上で言ってるんだ」と苛立ちを露わにする人がいます。これは中心的価値の無いポストモダン状況への苛立ちであるとともに、そんな状況は「前提として」折り込んだ上で「あえて」特定の価値観を選んだ決断主義的な前提への無知・不理解への苛立ちとも読めます。要するに、「人それぞれ」というのは決断主義の人から見れば「遅れている」わけです。

 「人それぞれ、だから傷付け合わないようにしよう」というのはエヴァ的でセカイ系的な「遅れた」発想です。「そんな甘いこと言ってられるか。俺は叩きたいものは叩くし褒めたいものは褒める」と返されるわけですね。こうしたアニメ作品内の世界ではもう結構前に通過した「ひきこもり」と「決断主義」のやりとりが、今なおネットのあらゆるところで繰り広げられているわけです。

 一方で、この本では「碇シンジのようなひきこもり的価値観を選ぶことも決断主義の一つ」とされます。「降りる」ことができないバトルロワイヤルの中で、決断主義に陥らない方法は、ほぼ無いと(あるいはまったく無いと)言えるのです。

 

「誰もが決断主義」ということの意味

 この「誰もが決断主義であらざるをえない」状況は、近年より前景化し、分かりやすくなっていると思われます。

 例えばAKB48やももクロといったアイドルブーム。こうしたアイドルを支えているのは広く一般人というよりは、一部のオタク達です。そこではこの本で「発泡スチロールのシヴァ神」と呼ばれうるような、外部の者にはおよそ理解できない、排他的な価値観に支えられた価値判断が横行し、そして一般人には理解に苦しむ行動や結果となって現れます。

 こうして見るとAKB48やももいろクローバーZといったアイドル達のファンは、決断主義的だと言えるでしょう。またバトルロワイヤルが決断主義的な島宇宙同士の動員ゲーム(パイの取り合い)として表れる事を考えれば、特にAKBに特徴的な過度で露骨な商業主義や情報戦略もその反映であると理解できるでしょう。

 一方でこのようなアイドル文化やアイドル達自身を批判する側もまた、極度に決断主義的であると言えます。彼らがアイドルを批判する時に頼る価値観(歌唱力に対する感性やその絶対視、反商業主義など)は、もはや絶対的なものではなく「大きな物語」でももちろんありませんが、そんな事は無視して彼らはその価値観を採用し、それを用いてアイドル達を叩きます。

 まさに、誰もが決断主義であり、そのため誰もが排他的で独善的になっているのが現代だと言えると思います。

 こうした傾向は他の様々な場面で見られます。ボカロ文化とボカロ批判、ラノベ文化とラノベ批判、特に「なろう系」と呼ばれるような特定のジャンルが集中的に流行する場は決断主義が多分に蔓延した場であると言えるでしょう。そしてそれへの批判もやはり決断主義的です。

 一部の批評では『ゼロ年代の想像力』や宇野常寛氏自身もまた、その態度によって決断主義的であると評されることもあるようです。(もちろん、その批評自体もまた決断主義であらざるを得ないのでしょうが)

 このように、現代において何かを主張しようとすれば必然的に決断主義的にならざるを得ない、そんな状況があると言えるでしょう。

 

コミュニケーションツールとしての「オタク」

 さて、昨今特に若い層のオタクについて「最近のオタクはオタクであることをファッションやコミュニケーションツールとして扱っている」というような批判がよく見られます。

 これも解剖してみればやはり決断主義ですね。別に「ファッションやコミュニケーションツールのように扱ってはいけない」決まりはないし、そのことが作品への愛の欠如を示すわけでもない。しかし「決断」して、それは悪いことであり愛の欠如であるとするわけです。

 一方で「オタクであることをファッションやコミュニケーションツールとして扱う」こと自体もまた決断主義、そしてバトルロワイヤル状況の反映として見る事が出来ます。

 そこでは「オタクはひっそりと隠れているべきだ」という分かりやすい「ひきこもり的」昔のオタク的価値観は「そんなこと気にしてられない」という決断主義によって退けられます。そして彼らは「気にしない」ことによってバトルロワイヤルにおける動員ゲームを有利に進め「覇権」を握っている強者でもあります。これはAKBにもジャニーズにもボカロにもラノベ(アニメ)にも言えると思いますね。今という時代、「気にしない」者がより勝者に近いのです。

 例えば一部の鉄道オタクやラブライバー、AKBファンのマナー違反が最近取り沙汰されたりしますが、もちろん単にネットの登場によりそういう一部の悪いユーザーが露出しやすくなったという面が大きいにせよ、一方で決断主義的な方向への発達(そしてそのことによる動員ゲーム上の勝利)の影響もあるのではないかなと思います。

 こうした「気にしない方が勝つ」「やったもん勝ち」な状況を非難する資格のある人は、恐らくかなり少ないでしょう。「誰もが決断主義」な現在の状況では、あるときには上品に振舞ったとしても、別のあるところでは決断主義的に「やったもん勝ち」な状況を利用して、他者を傷付けたり叩いたり批判したりしていることがほとんどでしょうから。

 そして僕が「オタクが嫌い」なのはまさにこの点です。自分が決断主義的に他者や作品を批判してストレス解消してるくせに、他者の決断主義的な側面(AKBの商業性や、最近のオタクのファッション化、気にしない化など)に対しては非難するというそのダブルスタンダードが、単純嫌いなのです。

 

決断主義の克服」を目指した作品たち

 僕には今「決断主義・バトルロワイヤルの克服を目指した」と個人的に思っている作品がいくつかあります。

 そしてそれらの作品が、次世代の想像力を創り出していくのではないかな、と考えています。

 そこで挙げたい作品は『機動戦士ガンダム00』と『魔法少女まどかマギカ』。いいずれもバトルロワイヤルな戦闘状況への介入を志向する作品として、決断主義の克服の可能性を描いていると個人的に思っています。

 そして特に虚淵玄氏の作品のいくつかに見られる「実は人間だった」というモチーフに、その克服の可能性が大きく表れていると考えます。これについてはまたいずれ、書くと思います。

 最後に、僕は今更になって『ゼロ年代の想像力』を読んだきりで、その後の宇野常寛氏の動向や、最近の作品への批評を知りません。もしそのあたりの事柄について詳しい方がいらっしゃれば、お教え頂ければ幸いです。