読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

『魔法少女まどか☆マギカ』は龍騎ではなくファイズである  ~決断主義の克服を目指して~

 最近、今更ながら『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を見ました。

 ただそのことは実はあまり関係無くて、今回は主にテレビ版の話です。

 (まどかマギカ仮面ライダーシリーズ各作品についてのネタバレを含みますのでご注意ください)

 

魔法少女まどか☆マギカ』と『仮面ライダー龍騎』の類似性

 「まどマギ」と「龍騎」の類似性については、まどマギ放送当時から様々な点について指摘されていました。

 複数の「仮面ライダー」と複数の「魔法少女」が「ミラーモンスター」あるいは「魔女」という敵と戦いながら、同時に仮面ライダー同士魔法少女同士でバトルロワイヤル的戦闘を繰り広げるという展開や、それに対する主人公の姿勢、また「願い」と「対価」の関係であったり、終盤になって明かされるループ展開などですね。まどかマギカの脚本を担当した虚淵玄氏自らその影響を認めており、その後『仮面ライダー鎧武』の脚本を虚淵氏が担当するきっかけにさえなっています。

 というわけで、もうこの時点でタイトルは半分以上嘘であるとも言えます。『魔法少女まどか☆マギカ』は明らかに龍騎です。

 しかし僕は、まどマギに影響を与えた仮面ライダーは果たして龍騎だけだっただろうか? と思うのです。

 

仮面ライダーの伝統:同族殺し

 昭和から平成に到る現在まで連綿と続いてきた仮面ライダーシリーズには、いくつかの伝統があります。

 分かりやすいのは「仮面ライダー」という呼称と、その名に象徴される「バイクに乗る」こと。あとは「ライダーキック」などでしょうか。(一部作品ではこれらの伝統を踏襲していないと見られる作品もあるようですが)

 そしてまた一つの伝統として「敵と起源を同じくする力で戦う」というものがあります。

 そもそも初代仮面ライダーが、悪の秘密結社・ショッカーの改造手術によって「仮面ライダー」となり、ショッカーから送り込まれる怪人たちと戦うという構造はわりと有名だと思います。ショッカーの改造によって得た力でショッカーと戦う。このような構図は後続作品にも引き継がれます。僕も全てを知っているわけではないのですがいくつか例を挙げると、望月博士という狂気の科学者の手によりバッタの遺伝子を組み込む改造手術を施され、同じく望月博士により生み出されたネオ生命体・ドラスと戦う『仮面ライダーZO』や、怪人・ドーパントに変身するためのアイテム「ガイアメモリ」を変身ベルトに複数本挿すことで変身する『仮面ライダーW』など、平成以降のシリーズ作品にも受け継がれています。前述の「龍騎」もまた、人間を襲うモンスターであるミラーモンスターと契約して力を得、同様にミラーモンスターと契約した他の仮面ライダー達と戦うという二段構えで「敵と起源を同じくする力で戦う」ヒーローであると言えます。 

 通常このような構造は「同族殺し」あるいは「親殺し」などと表現されますが、そこにおける葛藤や苦悩の表現にはヴァリエーションと程度において作品間にかなり差があります。

 そしてこの「同族殺し」の葛藤と苦悩において臨界に達したと思うのが『仮面ライダー555』――ファイズです。

 

やさしい怪人と怪人しかなれない仮面ライダー

 『仮面ライダー555』には主人公である乾巧の他に「影の主人公」とも呼ぶべきキャラクターがいます。それがホースオルフェノク(怪人)である木場勇治です。

 彼は怪人である「オルフェノク」という存在でありながら人として生きようとし、「人類とオルフェノク共存」を目指します。その過程で人類に危害を加えるオルフェノク達の秘密結社的企業(本作におけるショッカー的な位置の)スマートブレインと対立しながらも、同時にオルフェノクに危害を加える仮面ライダーとも対立を深めていきます。

 同じく「人として生きようとする」「人の心を失くしていない」オルフェノクである長田結花や海堂直也との共同生活・共同戦線の様子は、乾巧達の日常と戦いとともに物語中の大きな分量を割いて描かれます。こうして物語のかなり早い段階から「怪人は悪い」「仮面ライダーは善い」といった善悪二元論は退けられていると言っていいでしょう。

 そして木場勇治が「やさしい怪人」として描かれる前半からの転換点では、乾巧もまた「やさしい怪人」であることが明らかになります。本作の主人公であり仮面ライダーファイズであった彼は、ウルフオルフェノクでした。

 そして更に仮面ライダーに変身するための3つの変身ベルト(ファイズギア、カイザギア、デルタギア)を装着し変身するためにはオルフェノクオルフェノク因子を持つ者でなければならないことが判明します。簡単に言えば「怪人しか仮面ライダーになることはできない」のです。

  こうしてそれまでの仮面ライダーシリーズを覆っていた「怪人VS仮面ライダー」という構図は、心は人間でもある怪人を人間が殺す「人間VS人間」あるいはオルフェノクオルフェノクを殺す「怪人VS怪人」という同族殺しの構図に置き換えられます。

 そしてその置き換えを促す契機は「オルフェノク(怪人)もまた人間である」そして「(オルフェノク(怪人)を倒し人類を守る)自分もまたオルフェノク(怪人)である」という二種類の気付きでした。初代仮面ライダー龍騎などではほとんど最初から明らかだった「同族」であるという事実が、序盤では登場人物や視聴者に対して隠され、後に驚きを含んで明らかにされることで、ドラマを生み出すギミックとしても機能しているのです。

 

魔法少女と呼ぶべきだよね

  さて、随分仮面ライダーについて話し込んでしまいましたが、本題はまどかマギカでした。

 『魔法少女まどか☆マギカ』においても「同族殺し」というモチーフとそこに驚きとドラマを生む「気付き」があります。願いを叶える対価として少女たちを魔法少女にする契約を持ちかけるキュゥべえは、物語の後半にこう言います。「この国では、成長途中の女性のことを少女って呼ぶんだろう? だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」。人間を襲う悪である魔女の正体は、戦いの果てに人間や世界を呪った魔法少女達の成れの果てでした。

 こうした「実は人間だった」という同族殺しの気付きが生むドラマというモチーフは、本作のみならず虚淵作品のいくつかにも見られます。前述の虚淵氏が脚本を担当した仮面ライダー鎧武でも取り入れられました。一部では「ワンパターン」と言って批判される事もある複数作品に亘る同一モチーフのこの共有は、むしろ時代と状況への創作における鋭敏性であり一貫性と読むべきかな、と僕は思います。

 それは、価値観の違う他者・外部をもはや「同じ人間」としては見ない、現代に典型的な決断主義への警鐘とリマインダーとして機能しうると思うのです。

 

共感性の欠如した決断主義者達

 価値観の違う者を「同じ人間」として見ない決断主義の傾向は、現代のあらゆる場面で顔を見せます。

 例えば「バカッター批判」とその炎上が挙げられるでしょう。ツイッター上で馬鹿な振舞いをした(主に)若者に対して徹底的に攻撃を重ね炎上させる攻撃者達には、もはや攻撃対象を「同じ人間」として見る共感性は見られません。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、もはや彼らにとって罪人は人ですらないのです。

 その他にも「オタクは気持ち悪いから迫害してもいい」という価値観が見え隠れする特に犯罪者のオタク趣味糾弾に典型的なオタク批判や、ネット上に蔓延する「ま~ん(笑)」などの女性差別的な言動、「ゆとり」などのレッテルを用いた批判、あるいは単にネット上のあらゆる批判に見られる「相手を傷付けることをまったく厭わない」姿勢などに、相手を「同じ人間」として見ない決断主義が見られます。

 皮肉なのは、往々にしてある場面では攻撃者であった決断主義者が、別の場面では被害者として別の決断主義者に「同じ人間」とは思われずに攻撃されているという事実です。例えば「犯罪者がオタク趣味を持つたびに報道するのは不平等だ!」と叫ぶあるオタクが、別の場面では「ま~ん(笑)」と女性差別を躊躇いなく実行するなど、ある種「自業自得」「因果応報」的な部分がほとんどの場合について認められます。それはある意味では当然で、普通に考えて常に「相手」とは「同じ人間」であり、そのことを無視すればどこかしらに皺寄せは行く。そしてそれが自分に返ってこないことなんて、ほとんどありえないわけです。

 

まどかマギカにおける「男性」:決断主義的搾取者

  こうした決断主義の問題を、まどかマギカという作品は巧妙に描いていると思います。

 少女たちを戦いに誘い、彼女たちが魔女になる際の「希望から絶望への相転移」のエネルギーを回収しようとするキュゥべえは、レイプファンタジーと呼ばれることのあるセカイ系の性質(僕はこの言葉が好きではないので今後は単にセカイ系といいますが)のメタファーとして読めます。

 戦闘少女と無力な「ボク」という関係性、そして傷付いた戦闘少女からの無条件の承認という構図がセカイ系作品の中に見られますが、それを「描く」「消費する」というメタ的な部分を眺めれば、それはとりもなおさず「ヒロインを戦わせ」「そのことによって承認を搾取する」というある種自分勝手な男性像であることがわかります。そしてそんな通常は隠蔽された姿を、キュゥべえインキュベーター)は体現することによって暴露しています。

 ヒロインであり主人公である鹿目まどかに「早く魔法少女になってほしい」と望むという点で当時の(一部の)視聴者とキュゥべえが重なっていたということからも、このことは窺えます。

 キュゥべえは明確には男性ではありませんが、この作品に現れる数少ない男性の中にも似たような姿があります。例えば美樹さやかに愛されながらもそれに気付かず「鈍感」で、結果的に彼女を戦いの世界に導く原因となり最後には魔女化の引き金のとなる上条恭介は、典型的なセカイ系作品の主人公像として見る事が出来るでしょう。そしてそこに僕は「動物化して他者を気にかけなければ、その気がなくても誰かを傷付けることになるよ」というメッセージを見ます。

 また、更に典型的な決断主義者としてはホスト達が挙げられます。前述の「~~魔法少女と呼ぶべきだよね」というキュゥべえのセリフのすこし前、美樹さやかの魔女化の直接の引き金として彼らは登場します。彼らは電車の中、二人で「自分に惚れている女性からいかに(金銭などを)搾取するか」という話を美樹さやかの目前で繰り広げます。「いやぁほんと、女は人間扱いしちゃダメっすねぇ。犬かなんかだと思って躾けないとね」「てめぇみてぇなキャバ嬢が」などと女性に対して言及する彼らの姿は明らかに女性を「同じ人間」として見ない、決断主義者です。

 (例えば「てめぇみてぇなキャバ嬢が」というホストのセリフからは、ホステスのアルバイトをしていたことによって女子アナウンサーの内定を取り消された職業差別・女性差別に関わる一件が思い出されますね)

 上条恭介については流石に微妙なところがありますが、キュゥべぇとホスト達「搾取者」に共通なのは、相手とは違う価値観を持ち、相手を「自分と同じ存在」として見るような共感性に欠けているという点です。

 こうした彼らの傾向に対して怒りを露わにすることもある視聴者ですが、その実その多くは、別の場面では決断主義的に、他者を「同じ人間」とは見做さずに搾取し傷付けているということを考えると、なかなか意味深いものが感じられます。

 

価値観の違う者とどう付き合うか?

  現代において、異なる価値観を持つ者と接する機会はあらゆる場面であります。特にネット社会の流動性は、「好きなものを検索する」際にどうしても「嫌いなもの(とそれを好む者)との遭遇」を誘引します。例えば好きなアニメを検索するとそのアニメへの叩きや批判と出会ったり、逆に嫌いな作品の話題ばかり話されていたり、YouTubeで好きな楽曲やアーティストを検索すると聞きたくもない素人の「歌ってみた」ばかりがずらっと並んでいたり。

 こうした「他者」との出会いをどのように処理すればいいのか?

 キュゥべえやホスト達のように相手を「同じ人間」と見做さずに搾取や攻撃をすればそれでいいのか?

 それとも「相手も自分と同じ人間である」ことに気付き、また「自分もまた攻撃すれば相手と同じ決断主義者である」と気付くことによって平和的な解を探すべきなのか?

 という現代において不可避な問題への問い掛けを、虚淵氏は「実は人間だった」というモチーフを用いて繰り返し行っているのではないか? と僕は考えます。

  そこで例えば「魔法少女が最後に魔女にならないようにする」というテレビ版でのまどかの結論や、「すべてを背負って自己犠牲となったまどかの人格を召喚し、共に日常を過ごして救う」という叛逆の物語におけるほむらの選択を考えてみますと、前者は「相手を人間ではないと見做さないような環境の構築」とそのための「決断主義的な攻撃者・搾取者となる前に刈り取る」社会設計的な立場と読めて、後者は「決断主義的に振舞いながらも他者へ与える影響は最小限に留めるよう気遣う(システムとしてのアルティメットまどか(円環の理)までは奪わない)」姿勢と読めます。

  いずれにしても、解はこれだけではないでしょう。重要なのは「今あなたが傷付けようとしている相手は、あなたと同じ人間ではないのか?」という問いかけであり、そのための「実は人間だった」なのだと思います。そこから各々が自分の答えを出して、それこそ「別の答え」を出した者に対して「同じ人間じゃない」と思うことなしに、別の答えの存在も認めたうえで付き合うのが、今現在最も必要な姿勢なのではないでしょうか?