話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

信者とアンチ ~二種類の決断主義~ 前編

 昨今、例えばある漫画やアニメをすこしでも好意的に評価しようものなら「信者」と呼ばれ、かと思えば、ちょっと不満を言っただけで「アンチ」呼ばわりされる、そんな状況があると思いませんか?

 そしてそういった現状はおそらく、人々が自分の持つ「イメージ」を極端に重要視し、過保護になってしまった結果なのではないかと、僕は思います。

 

イメージを食べて生きる動物たち:信者

 東浩紀動物化するポストモダン』の中で提示された「動物化」という生き方は、簡単に言えば「他者との関わりを最小限にして、自分の好きなものを好きなように消費して生きる」というある種享楽的なものだったと思います。分かりやすい例で言えば「萌え豚」と呼ばれるような人種でしょうか。彼らは自分の好きなジャンル「萌え」に耽溺し、その外部からは距離を置いているように見えます。(例えば、現実の恋愛からは距離を置くなど)

 そういう生き方は一見すると格好は良くないものの平和的です。少なくとも嫌いなものには顔を突っ込まない分、争いを生む確率は減るでしょう。

 しかし、そのような生き方も結局は排他的で、争いを誘発するものにしかなりえない、としたのが宇野常寛ゼロ年代の想像力』だったと思います。好きなものを好きなように消費する、同じものが好きな者同士で集まる、そうしてできたコミュニティは次第に「そうでないもの」(=対象ジャンルや作品が嫌いな者、対象ジャンルや作品ではないジャンルや作品)を疎外する方向に働く。

 本の中で分かりやすかった例は二次創作についての話です。アニメや漫画の二次創作(同人やMADなど)ではキャラクターは必ずしも原作通りに扱われません。暁美ほむらが度を越して変態的なクレイジーサイコレズとして扱われたり、プリキュア達が筋骨隆々のおっさんの姿で描かれたり、碇シンジが「Q」における理不尽の数々を真正面から糾弾したり、リアル調のアンパンマンドラえもんなんかは「アンドラパロディ」とも呼ばれる結構古いジャンルの中でもよくあるネタですね。こうした原作の描写を超えた二次創作の想像力について『ゼロ年代の想像力』では「そのような物語の越境性から東浩紀は「キャラクターは物語から独立する」として物語批判として提示したが、実際にはこうした二次創作は前提として原作の設定の承認を前提とするし、むしろ再強化するものでしかない」というようなことを言っています。つまり、暁美ほむらが作中ではまどかのパンツを被っていないからこそ二次創作で被せる意味があるし、プリキュア達が可憐だという前提があるからこそ筋骨隆々にする意味がある、二次創作でいくら碇シンジが不満をぶちまけても、碇シンジというキャラクターは本当はそういうキャラクターなのだと信じる人はいない。二次創作で原作から逸脱すればするほど、原作のイメージは再強化される、ということです。

  こうして動物化の後の一見平和的なコミュニティも、原作のイメージとその解釈における共同性において排他性(つまり他のイメージは許さないという姿勢)を帯び、そのために争いの方向へ向かいます。

 その典型的な姿が、いわゆる「信者」というものだと言えるでしょう。彼らの攻撃性は作品に対する自分達のイメージの護持を根源として駆動しているのです。

 

イメージを食べて生きる動物たち:アンチ

 しかしこのことは「信者」に限った話ではありません。作品の肯定的な享受のみが娯楽でなく、逆に作品を否定し批判して「叩く」こともまた娯楽の一環になりつつある現代社会で、「自分達のイメージの護持」に躍起になって攻撃的になっているのは信者ばかりではないのです。

 むしろ攻撃性において元気なのは「アンチ」の方だと言えるでしょう。この「アンチ」についても先程の「信者」と同じ原理で説明できます。

 例えば「ラノベはキモイ」「ボカロはクズ」「ワンピースは中身がない」といった「イメージ」を彼らは好んで消費します。それは実際のところ「ヘスティア様は紐い」「ほむらはレズ」「PAD長は胸がない」といったやはり「イメージ」を消費する萌え豚たちとさして変わったものではありません。消費する対象が違うだけです。

 そして彼らの好む「作品やジャンルへの否定的なイメージ」にそぐわないものは徹底的に叩き、攻撃する。あからさまなくらいの「イメージの護持」です。

 

  ポストモダンに突入し、「大きな物語」が失墜した現在、僕達には共通して信じられる思想や理想や規範といったものがありません。そうなると信じられるのは自分の持ったイメージだけ。この自分のイメージを決断主義的に(根拠がなかったとしてもとにかく信じるという態度で)信じること、そしてその結果としての信者とアンチの大量生成は当然の流れと言えるかもしれません。

 

 ネットが不可避にする他者との遭遇

  それだけなら、信者もアンチも必ずしも争いを生みません。ちゃんと信者は信者だけで、アンチはアンチだけで棲み分けていれば、たとえ正反対のイメージを持っていてそれを必死に護持しようとしていたとしても、出会わない限り争いに発展することもありえません。

 しかしながら、ネットという環境がそれを許しません。好きなものを検索すればそれを叩く意見に必然的に出会ってしまう、嫌いなものへの否定的な意見を検索すれば肯定的な意見も目に飛び込んでくることになる。ツイッターやLINEにおいて「世界・社会と繋がっている」という意識が希薄なためにトラブルに巻き込まれる人が多くいますが、それは人と繋がろうとすれば必然的に繋がりたくない人とまで繋がらざるを得ないネット環境の宿命的な性質に根源を持つと考えられます。実のところバカッターを叩く人たちでさえ、そのようなネットの意図に反する開放性に関して無頓着で、その結果誰かを傷付けたり争いを呼ぶことが少なくありません。

 作品を褒める、あるいは貶すといった言動は「なかまをよぶ」特技のようなものです。そうやって自分のイメージを発信することで、同じイメージを持つ共感者を集め、互いのイメージを再強化し合うのです。しかしながら、その「なかまをよぶ」声自体が誰かのイメージを傷付け、苛立たせてしまう可能性を常に孕んでいる。そしてそんなことを気にしていたら何もできないから気にしない、という決断主義的な姿勢が自然に導かれます。

  逆に言えば、ネット社会で何かを言おうとする限り、ある程度は(僕自身も含めて)決断主義者にはならざるを得ない。その意味において誰もが多少なりとも信者あるいはアンチであるというのは、それほど間違った描像ではないとも言えるのです。

 というわけで冒頭の「すこしでも褒めたり貶せば信者orアンチ呼ばわりされる」という現象は、直接の原因は自分のイメージを護持し、イメージを傷付けるものを許さない信者とアンチの決断主義的な排他性だと言えます。しかしそれは傷付けたからこそ起こる現象とも言える。加えて、信者やアンチという精神的な傾向はポストモダン化の末の当然の流れであり、決して極端な異端者のことでもなければ僕達に無関係な話でもありません。

 つまり、裏返せば「すこしなら褒めても貶してもいいだろう」という意識こそが他者を気遣うことを面倒臭がる決断主義であり、ネットが世界や社会に開放されているという意識の(バカッターと同様の)欠如と相俟って、「それで傷付く方が悪い」という責任放棄に繋がるわけです。

 それを信者あるいはアンチ呼ばわりするのは早まり過ぎというものですが、一方で信者やアンチと同じ決断主義の結果でもある。そしてたとえすこしであれ「褒めよう」「貶そう」と思った動機が同じ仲間を見つけるための「なかまをよぶ」だったなら、更に自分のイメージと外れる他者には攻撃を加えようという意識があったなら、信者やアンチのミニマム版であることは確かなわけです。

 とはいえ、じゃあ何も言うなというのか。褒めも貶しも決してせず、目と耳を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ、というのはどうも現実的ではありません。

 価値観の異なる、イメージを共有できない他者とどう頑張っても出遭ってしまうネット社会、何を主張しても必然的に別の誰かのイメージを傷付けてしまうネット社会で、どうすればいいのか? 後編ではそのあたりを考えてみたいと思います。

 

信者とアンチ ~二種類の決断主義~ 後編