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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

信者とアンチ ~二種類の決断主義~ 後編

アニメの話 オタクの嫌いなところ話 その他のお話

この記事は↓の記事の続きです。

信者とアンチ ~二種類の決断主義~ 前編

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 さて、前編では「信者」と「アンチ」という二つの決断主義とその振る舞いの原因を明らかにし、「すこしでも褒めれば/貶せば、信者/アンチ呼ばわりされる」現状の原因を考えました。

 その過程で明らかになったのは「すこしだけ褒めたい/貶したい」と思うこと、そしてそれを実行することが多少なりとも信者やアンチと同様の決断主義性を帯びるということでした。

  では、そんな誰もが決断主義的であることを避けられない現代社会において、その中でも「マシ」であるためには、言い換えればなるべく信者でもアンチでもないような人になるためにはどうすればいいのか、考えてみたいと思います。

 

提案1「主観的な事はなるべく言わない」

 世の中には大別して「イメージ」と「そうでないもの」があります。

 といってもそれも厳密には微妙なのですが、しかし基本的には「地球は回っている」「何も食べないでいると腹が減る」「人を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」 「自分という人間は生きている」といういわゆる「事実」や「現実」はイメージとは違って「誰にとってもそうであること」ですよね?(これは信念のことを 言っているのではなく、例えば誰かが地球が回ってないと言っても地球は回り続ける、というようなことです)

  この二つの区別は、実のところ結構簡単だったりします。現実や事実といったものは一般化を伴いません。例えば「地球は回っている」は「地球以外の惑星も 回っている」ことを意味しませんし、「自分という人間は生きている」は「自分以外の人間も生きている」ということまでは主張していません。その視点では、実は「何も食べないでいると腹が減る」「人を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」は一般化を伴っているので間違いあるいはイメージでしかない可能性があります。 例えば胃に直接栄養を送り込む機械を取りつけている人が一人でもいれば「何も食べないでいると腹が減る」は必ずしも真ではありませんし、鉄アレイに耐えうるヘルメットをかぶっている人にとっては「人を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」は嘘です。

 このように考えると批判や批評といったものはほとんどの場合「イメージ」に属します。「私はつまらないと思った→だからこの作品はつまらない」という一般化をほとんどの場合に含みますから。

  例えば「ラノベはゴミ」という批判は何重にも問題のある一般化を含んでいます。まず「ゴミ」という言葉が指す内容、定義が明らかでないという点で、その解釈が「誰もが自分と同じ解釈をするに違いない」という一般化を含んでいます。仮に「ラノベは文章力がない」に変えたとしても、「文章力」の定義がやはり不明で、しかも「文章力がないものは劣っている」というニュアンスを含んでいるとしたらそのような個別の価値観を一般化していることになる。更に「ラノベ」 全体をすべて見た人は恐らくいないでしょうから、個別の作品ではなくラノベという括りへの言及もまた一般化だと言えます。また「~という作品は文章力がない」というのも誤りでしょう。というのはある作品の中で文章力が常に一定なんてことはないでしょうから「~という作品の~ページの~という部分は……」と一般化せずに指定しなければならないわけです。

 このように「主観的な事はなるべく言わない」というのは一見したところではなんとなくできそうですが、実はかなり難しい、というかほとんど不可能です。それを成し遂げるには現実的にはほとんど黙るしかないでしょう。

 

提案2「偶然性を意識する」

 「主観的な事はなるべく言わない」ことが難しいのは、そもそも「何が主観的なのか」「どこが一般化なのか」判断するのが難しい(というか面倒臭い)ことと、それに従うとほとんど何も言えなくなることが原因だと思います。

 厳密に、一般化を避けようとすればそれだけ言葉を重ねねばならず、そのための労力と聞く側の負担を考えると現実的ではありません。

 では、考え方を変えてみましょう。何かを言う時にいちいち「どう言うべきか」考えるから面倒臭いのです。そうではなく、そもそも「何かを言う」ときの「何か」を規定するような、普段からの自分の意識に手を加えておけば、発言時にいちいち気にする必要は無くなります。

 そこで有効なのが「偶然性を意識する」ということです。

 内容は「主観的な事をなるべく言わない」とほとんど変わりません。一般的でない個別のイメージ(主観性)とは、すべて偶然的なものですから、それはほとんど「自分の主観性を普段から意識する」ということと変わりません。

 そこでわざわざ「主観性」ではなく「偶然性」という言葉を用いるのは「主観性」という言葉が既に手垢に塗れていて、既存の邪魔なイメージをどうしても拭えないからです。そのせいで、主観的であっても主観的でないと信じられている事柄が多すぎる。要するに意味自体は悪くないけど実用的でないのです。

  「偶然性を意識する」のは簡単です。単純に、例えばなにかのアニメを見て良いだの悪いだの感想が出たとしても、それについて「ああ、これは偶然だな」と思えればそれでいい。要するに「別の感想もありえた」ということです。

 例えば見るときの体調が違えば別の感想になっていたかもしれないし、おいしいクッキーを食べながら見れば別の感想になっていたかもしれない。原作を知っていれば/知っていなければ別の感想になったかもしれないし、主人公と似たような人生を歩んでいれば違う感想になったかもしれない。もし自分がリア充なら、オタクなら、腐女子なら、大人なら、子供なら、アメリカ人なら、宇宙人なら、違う感想になっていたかもしれない。そう思えることです。

 そうやって「別の感想の可能性」を考えれば、自分の感想が決して絶対的なものでもなければ特権的なものでもないことがわかる。

 自分の感想が偶然的である、ということは何も悪いことではありません。むしろ素晴らしいことと言えるでしょう。あなたという人間が別の人間とは違うことが、その偶然性の中に詰め込まれているのですから。 そうした偶然性を引き受けてはじめて、あなたはあなたという個人となることが出来るとも(すこし大袈裟ですが)言えるのです。

 

 どこで聞いた話だったか忘れましたが、確かある社会学だか哲学だかの学者の方が「どのように社会を設計すれば良い社会になるか?」というような問いにこう答えたそうです。

 「一人の人間が生まれる前、どの人間に生まれるか分からない状態で、社会を設計させればいい」

 生まれる前に雲の上から下界を見ながら、社会を設計させるイメージでしょうか。その設計者は自分が設計し終わった社会の中で、男性に生まれるとも女性に生まれるとも分かりません。ゲイかもしれないし、レズかもしれない。政治家かもしれないし、貧乏人しれないし、スポーツの才能があるかもしれないし、ないかもしれないし、どこの国に生まれるかも分からないし、ひょっとしたら宇宙人かもしれない。そうなれば、もちろん女性が地獄のような思いをする社会は作れないだろうし、なるべく差別の無い社会にしようとするだろうし、貧乏人にもやさしい社会を作ろうとする筈です。なにしろそれは他人事ではない、直接自分に降りかかってくる問題かもしれないのですから。

 かなり記憶があいまいなので、話の内容もズレているかもしれませんが、僕はこの話が好きです。なるほど、と思います。

 「偶然性」を考えることはこの話に似ています。自分が今の自分でなかったとしたら――そう考えることで自分とは違う他者への共感を取り戻すことが出来る。「同じ人間」であることが意識出来るようになる。

 偶然的な「わたし」と偶然的な「あなた」、どちらも偶然的であるというこの対称性を取り戻せば他者のイメージを傷付けることが自分のイメージを傷付けられることと重なり、他人事ではない自分のこととして考えられるようになると思います。

  価値観の違う、イメージの共有できない他者であっても、「別の自分」「そうであったかもしれない自分」として見る事が出来れば、相手を殴ることは自分自身を殴ることでもある。そういう認識に立ったうえでは、信者やアンチのような排他的で暴力的で決断主義的なイメージの押しつけも出来なくなるのではないでしょうか?

  そうすれば、多少は「マシ」になることが出来ると思います。場合によっては、もっと素晴らしい結果があるかも知れません。つまり「誰かを傷付けないように発言できる」ということです。

 決断主義がはびこるこの社会で今必要なのはそのような姿勢なのではないか、そう僕は思います。

 

 

※追記

 「偶然性を意識する」ためには、実際に「そうであったかもしれない」別の感想や解釈を直接見てみる事も有効だと思います。

 自分と違うイメージや感想を「もしかしたら(何かが違っていれば)自分もそう感じたかもしれない」ものとして見る姿勢さえあれば、価値観の違う他者との遭遇の避けられないネットの開放性も、むしろ偶然性を意識するチャンスを与えてくれる良い性質でしかなくなるのです。

 例えば、最近流行りの「ラッスンゴレライ」が「面白くないなぁ」と思う人があれば、ラッスンゴレライ徹底解剖!この記事を読んでみてください。「もしかしたら自分も持っていたかもしれない解釈」を僕なりに書いてみています。そこで「面白くないなぁ」という自分の感想の偶然性を意識出来れば、例えば「ラッスンゴレライ」が好きな人を傷付けないような振る舞いが出来るかもしれません。そういうことを、あらゆる物事に対して適用して行けばいいのです。