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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「お客様は神様」蔓延るネット・オタク界隈

オタクの嫌いなところ話

 ネットではわりに叩かれがちなクレーマーや「お客様は神様」的精神ですが、そのわりには、結構多くの人が知ってか知らずか「お客様は神様」を実行してしまっているように感じます。

 今回はこうしたネット上の、特に創作物に対する傾向について、追ってみましょう。

 

「お客様は神様」は何が悪いのか

 そもそも「お客様は神様」という態度はどこが悪いのでしょうか?

 もともと「お客様は神様」というのは三波春夫の言葉で、歌手である彼が、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払い、心をまっさらにして完璧な藝を披露するために心掛けた心構えなのだそうです。

 この時点でまず簡単な指摘として、あくまで「お客様は神様」は演じる側の心掛けであって、客側が神様を自称するための言葉ではない、というのが挙げられます。またこれは「心掛け」の類であって、義務ではない、ということも分かりますね。あくまで三波春夫氏が個人的に編み出した「完全な藝をする」ための方法であって、別の人には別の方法があるかもしれない。そして別の方法を否定する意図はこの言葉には特に無いわけです。言ってしまえば、「お客様は神様」と思う人だけがそう思えばいいことで、特にピンとこない人はなにも従う必要はない。

 また「お金をくれるから神様」ではないことも強調されているようです。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか」と。言われてみれば確かにそうですよね。「お客様は神様」という言葉は「金銭と商品の交換において金銭側の方が偉い」というよく分からない理屈とは一線を画した意味を持っているわけです。

 こうした本来の「お客様は神様」の意味から逸脱した用法への指摘は、僕がするまでもなくいろいろなところで為されています。もはや耳にタコでしょう。

 ところで、では、「お客様は神様」という言葉を前提とせずに、ただクレーマーとしてふるまうことは、何が悪いのでしょうか? こうした場合には「本来の意味と違う」という指摘は意味を持ちません。そもそも「お客様は神様」という言葉を前提としていないのですから。

 

クレーマーは何が悪いか

 よくよく考えてみると、クレーマーって何が悪いのでしょうか?

 なにか他者の権利を害しているのか、あるいは自己の権限を逸脱しているのか、ルール違反なのか、それともマナー違反なのか。

 よくわかりません。そもそもそうした「何が悪いか」というのは個人によって定義や基準が変わってくるものだろうし、その中で「この定義この基準こそが正しい」なんて絶対的なものも無いだろうと思う。かといってじゃあ悪くないのかと言えば、それもどうだろうなあ、という感じです。

 クレーマーの中にも役に立つもの立たないもの、的を射ているもの滅茶苦茶なもの、いろいろあるでしょうし、僕の中で「これ以上はダメ」「これくらいならいい」という基準もおそらくあるんでしょうけど、それをここで明らかにすることはしません。僕の中の基準は僕だけが気にすればいいことで、他の人を例えば従わせるだけの正当性はもちろんありませんから。

 なによりそうした「自分ルール」を他者に押し付ける態度こそが俎上に上がっているクレーマーの姿そのものでしょうから。その意味では唯一「価値観の押しつけ」という点でのみクレーマーは明らかに悪いのかもしれません。といっても、悪くないと思えばやはり悪くないのでしょうが。

 

創作物に対する「クレーマー

 このブログでも何度も言及していることですが、ネットでは「叩き」「批判」といったものが本当に活発ですね。アニメや漫画など、人気ジャンルの人気作品に対しては特に顕著です。

 こうした「叩き」「批判」と、クレーマーたちのクレームとは何が違うのでしょうか?

 実際のところ、特に違いは無いと思われます。世の中では「客観的な批評」なるものが実際に存在すると信じられている傾向があるようですが、それは価値判断を排した場合あるいは価値観や価値基準を共有できる間柄でのみ有効だと割り切っているような場合のみです。通常想像するような「客観的な批評」というものは存在しません。というのは「客観的」という言葉は特定の主観や主体や立場に依存しないものを言うわけですから、基本的に「誰もがそうであること」(例えば物理法則など)にしか付けられない修飾なのです。反対意見が一つでも存在した時点で「その意見を持つこと」は立場や主観に依存したものになり、「客観的」ではありえません。

 客観的な批評が無いとなると、「叩き」「批判」はどうしても個々の主観や立場に依存した「主観的なもの」にならざるをえません。そしてそうした「自分(だけ)の価値観」を他者に押し付けるという点で、「叩き」「批判」とクレームは共通しています。

 

「作者はどのような目的を持ってもいい」

 そのような「価値観の押しつけ」を悪くないものとしてみましょう。客側がどのような価値観を持とうが勝手だし、それを押し付けるのも自由だ。なるほど、たしかに、という感じです。

 ただその場合、もちろん作者側にも同様のことを言えてしまいます。作者がどのような価値観を持とうが勝手だし、それを押し付けるのも自由だ。この結果、それを認めてしまえばすべての「叩き」「批判」は「作者がやってもいいことをやってるのを叩いて批判している」というとんちんかんなものになります。この時点で「悪い・劣ったものを是正する」という意味合いは綺麗に消えてしまっているわけですね。簡単に言えば、ただのわがままです。

 客側だけ何をしても自由で、作者側には何らかの拘束条件が課される、という状況を作り出すためには、それこそ「お客様は神様」のような客-作者間の非対称性を導入する何らかの前提を取り込まなければなりません。しかし既に示したように、「お客様は神様」もまた普遍的でない一個の価値観でしか無く、その押し付けの正当化を支える理屈もいまのところありません。

 かくて客と作者は対称性を保ち、片方を自由とすればもう片方も自由となり、片方に義務を課せばもう片方にもそれ相応の義務が課されます。こうした場では「僕はこう思う」程度のことは言えても、とてもじゃないけど相手を従わせる正当性のある言説は存在し得ません。

 

 また、ここで一応「作者はどのような目的を持ってもいい」ということの内容について見てみましょう。

 どんな目的を持ってもいいわけですから、例えばAKB48に代表されるような商業主義も何も悪くありません。「悪くないけど音楽として質が低い」かと思えば、その「質」という概念も特定の価値観に依存せざるを得ない客観的でない指標ですから、意味ありません。

 そのほか、例えば作者は「つまらないものを作る」ことを目的にしてもいいわけですから、つまらない作品に対する批判は無意味化されます。また言うまでもないですが「つまらない」も特定の個人や主観や価値観に依存していますね、意味無いです。

 

 ここまでいろいろと方向を変えながら指摘してきたのは、まとめれば「批判や批評はどこかで論理的欠陥を抱えざるを得ない」ということです。そしてそれは仕方の無いことだから受け入れないわけにはいかない。

 そしてそんな欠陥を抱えた批判や批評を他者に押し付けるなら、それはまぁそれなりに悪いわけです。どれだけ悪いかと言えば、あなたが悪いと思うだけ悪い。もちろん悪くないと思えば悪くないわけですが、その場合他者があなたに価値観を押し付けるのも悪くない。結果として、あなたの批評や批判も批判対象を失い、それだけ意味を失います。

 言い換えれば、「お客様は神様」と言って憚らないクレーマーをあなたが悪いと思うのと同じ分だけ、批評や批判で他者に価値観を押し付けたときのあなたは悪いということです。

 

僕のやっている事はなんなのか?

 そろそろ「そういうお前はどうなんだ」という声が聞こえてきそうです。「そういうお前のやってることは、まるっきりネット批判、オタク批判ではないか。つまり押しつけじゃないのか」と。

 まぁたしかに、そういう一面はあると言えます。あるいは一面どころではなく全面かもしれない。

 ただ、その指摘が相当にリスキーなものであることは予め言っておこうと思います。

 というのは、僕のやっている事を本当に「押しつけ」にしてしまっていいのか、ということです。そうした時点で、同様あるいは同程度の語り口で語られるあなたの批評や批判もまた「押しつけ」になってしまう。

 つまり「あなたが悪いと思うだけあなたは悪い」のと同じように、「あなたが押しつけだと思うだけあなたは押しつけ」なわけです。そのあたりの判断基準は個人によって異なるでしょう。でも、まさか自分自身の基準に反論するわけにはいかない。

 僕のやっている事はなんなのか? その問いに僕は答えません。代わりにあなたが答えてみてください。そしてその答えがそのまま、自動的にあなた自身の行動がなんであるか、決定することになります。万事が万事、そうです。「お客様は神様」やクレーマーがなんであるか、悪いか、あなたが答えればその時点であなたの普段の行動がなんであるか、悪いかが決定します。

 そういうことを意識して普段から生きていれば、少なくとも「公正」であることはできる。僕はそう思います。