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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

芸人、歌手の政治的発言が気になる僕の理由

 先日、安倍首相主催の桜を見る会にそれまで安倍政権を批判していた爆笑問題太田光さんが出席し、話題になっていました。すこし前にはサザンオールスターズ桑田佳祐さんの政治的とも見られるパフォーマンスが批判を呼んだりと、芸人や歌手といった芸能人の方が政治的パフォーマンスを行うのに難色を示す方が世の中には多いようです。

 そしてその中には僕自身も含まれます。

 僕は元来、政治的主張というものを好みません。だから選挙にも参加しない。そしてこのことと今回の話とは関わりがあると思うので、そのあたりも混ぜながら話してみたいと思います。

 

なぜ芸人や歌手の政治的発言が気に入らないか?

 理由は簡単です。僕はプロ以外の意見を信用していません。

 芸人の方はお笑いのプロ、歌手の方は歌のプロです。政治のプロではありません。

 だから実のところ、僕が政治的発言をするのにふさわしくないと思うのは芸人や歌手の方だけではありません。大抵の芸能人がそれに当てはまるし、それにも増して僕達視聴者側にも当てはまります。早い話が政治のプロではない全ての人の政治的発言が、僕にはなんというかそれほど大したものには見えません。

 僕自身が政治的主張をすることを好まず、選挙にも参加しない理由もこれです。僕は政治のプロではありません。だからその判断は信用ならない。だからなるべく判断をしない。

 これは別にプロだから信用するということはありません。そもそもそれは成り立ちませんから。というのは、プロの間でも意見が割れている事柄がほとんどですよね。その場合「プロだから信用する」とは具体的にどちらのプロを支持することを指すのでしょう? どちらにしろ、矛盾します。

 さて、今回の記事では反感を呼びそうな、ひっかかるであろう部分をもう出してしまいました。これからはそれをやわらげる説明を加えてみましょう。

 

自分がされたらどうか?

 突然ですが僕は「自分がされたら嫌な事はしない」という子供の多くがまず教えられるであろう倫理の基本がわりに好きです。なので、それで考えてみましょう。

 例に太田光さんと安倍総理をとってみましょう。

 太田光さんの政治批判、特に安倍総理批判は「政治のプロに政治の素人が口出しをする」ものだと判断できるわけですが、この立場を入れ替えてみましょう。太田光さんが「同じことを自分にされたら」どうなるか?

 太田光さんはお笑いのプロですから「お笑いのプロにお笑いの素人が口出しをする」というものだと分かります。具体的に言えば、安倍総理太田光さんに向かって「あのネタは面白くなかったですね、もうちょっと間を詰めて、オチも弱いので変えた方がいいです。あと毒舌路線ってもう限界じゃないですか? 有吉さんとか坂上さんとかマツコさんとか出てきてますし、太刀打ちできないでしょ、あなたでは」と言うようなものですね。さて、これに太田光さんはどう反応を示すか?

 これは単なる想像にすぎませんが、あまり良い反応は期待できないでしょうね。

 まぁ太田さんも大人ですから(そのことは今回の件でより明らかになりました)実際の言動に現れるかどうかは分かりませんが、内心穏やかではなくなるだろうな、とは思います。

 太田光さんの政治批判は、これと同じことをやってしまっているんですね。

 

プロフェッショナルとしての自覚

 なぜ太田光さんが安倍総理のお笑いへの口出しに反感を覚える(と思う)かと言えば。それはもちろん太田さんが幼稚だからではなく、逆にプロフェッショナルとしての自負を持っているからだと思うんですよね。

 太田光さんはお笑いのプロです。普段彼のお笑いを「つまらない」と評価している人たちも、彼と同じだけの笑いを同じだけコンスタントに生みだすことはできない。プロの条件は批判や批評のようにああだこうだ言えることではなく、「実際にそれが出来るか」ですから。当然彼には「素人よりもうまくやれる」自信と自負がある。だからこそやっていけるわけです。

 しかし、僕から見るに太田さんはプロとしての自負は持っていても、自覚は持っていません。といっても、この「自覚」とは僕が勝手に定義した言葉ですが。

 僕にとって「自覚」とは、自己のみならず周囲との関係も勘案したある程度客観的な自己認識のことです。「素人よりも(お笑いを)うまくやれる」という自負は「素人よりも」という部分ですこしは自覚的な側面を持っていますが、「では他のプロはどうか?」という視点が欠けている。だからこそ「お笑いのプロに素人が口を出す」ことは気に入らないのに、「政治のプロに素人が口を出す」ことは自分に許すというような矛盾を無自覚に孕んでしまっている。

 これは太田さんに限った話ではありません。世の中に生きるおよそ大人と呼んでいい人たちは、大抵はなにかしらのプロフェッショナルでしょう。彼らには自分の専門領域では「素人よりもうまくやれる」という自負がある、と思います。それが望ましいとも思う。でももしかしたら、彼らの多くは自負は持っていても自覚は持っていないのではないか?

 要するに、多くの(特に政治のプロでないのに政治的主張をしたがる人たちは)太田光さんとある面で同じ穴の狢ではないか? と思えるわけです。

 

相手の立場になって考える

 僕が政治のプロでない人の政治的発言が気に入らない理由は以上ですが、実のところ僕以外の人の理由もこれなんじゃないかな?とか思っていたりします。

 でも、もちろんこのことを「自覚」すれば、矛先は自分にも向くことになる。それで半ば「見ないふり」をした結果、太田光さん(や他の芸人、芸能人)の政治的発言には反感を抱くが、それ以外の政治の素人には抱かない、というようなよく分からない状況が生まれているのではないかな? と思います。

 そういう状況は好ましくないなーと思います。まぁ実際のところ、芸能人でもない一般人がどれだけ政治的主張をしたところで(それが許容されたところで)たいした影響は無いと思いますが、一方でネット環境の発達で「ごく一部の」一般人の影響力は高まってきているし、またこうした自覚の欠如が結局芸能人のような影響量の大きい素人への批判の根拠への「自覚」の欠如となってその弱体化を促しているなら、やはり好ましくないと思うわけです。

 芸能人の政治的主張を批判するのはいい。だけどその根本的な根拠にも「自覚的」でないと、その効力はよくて半減、悪くてまったく無くなりますよね? ということです。

 「自覚」するというのは、相手の立場になって考えられるようになる、ということです。ある分野のプロに素人である自分が意見をすることが、自分の専門領域に素人が口を出してくる現象の置換として理解できることです。「相手の立場になって考える」というのは単なる倫理的なマナーではありません。自己のあらゆる主張の根拠を根本的かつ客観的に探るための方法論です。

 

許される政治的主張

 まぁ、僕程度の素人が「許す」というのも変な話ですが、参考までに。

 僕が自分にそれでも政治的主張を許すとしたら、どんなケースかを最後に書いておきたいと思います。

 そこにはいくつかの条件があります。

・プロでも素人でも判断できる明確な根拠があるケース

(プロの間で主張が割れていない、など)

・その主張をすることに現実的な意味があるケース

(例えば選挙における投票には実質的に意味がないので該当しない)

・切羽詰まった状況であるケース

(その主張をしないと何らかの害が自分や他者に降りかかることが明確なケース、など)

・「自分が」その主張をすることに意味があるケース

(自分の主張を他の多くの人も行っているなら、わざわざ自分がする必要は明らかに無い)

 今回のこの記事が上記の条件を通過しているかどうか、また今回の記事はそもそも「政治的主張」に該当するかどうか、基準は人によって様々でしょうが、考えてみるのも一興かもしれません。

 

 さて、だいぶ過激な事も言ったような気がしますがどうだったでしょうか?

 なんだかんだ言って「自覚」には大抵の場合「痛み」が伴うわけで、今回の記事はあまり同意されることを期待していません。ただ、すこしでも「別の視点」の導入にでもなれば幸いです。