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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

意識高い系を叩くのではなく、目指そう

 なんというか今更な話題ですが、今回は「意識高い系」について。

 揶揄されることの多い「意識高い系」ですが、僕は結構凄い人たちだなと思うんですよ。見習いたいと。

 そこのところを整理してみたいと思います。

 

有能さと自己顕示によるカテゴライズ

 意識高い系とその他について、簡単にまとめると次のようになると思います。

 

  有能で自己顕示しない(能ある鷹)|  有能で自己顕示する(意識高い人)

 -----------------+-------------------

  無能で自己顕示しない(クズ)  |  無能で自己顕示する(意識高い系)

 

 縦軸が「有能/無能」の対立軸、横軸が「自己顕示する/しない」ですね。

 ちなみに僕自身はというと、恐らく「クズ」に入ると思います。まぁはてなブログとかやってる時点で意識高い系寄りな気もしますが。

 それはともかく意識高い系を叩く人の大半は、やはり僕と同じ「クズ」に入るでしょう。それは確率的に言って仕方の無いことです。それに、有能な人たちにとって意識高い系は眼中に入るほど気になる存在でもないでしょう。

 上記の図だと、どれくらい「クズ」より「意識高い系」の方がマシか、わかりにくいです。むしろ自己顕示しない分だけ「クズ」の方がマシにすら見える。

 そこで別の例と比較してみましょう。

 

     消極的なイケメン     |     積極的なイケメン

 -----------------+-------------------

     消極的なブサイク     |     積極的なブサイク

 

 今回も僕は前回(クズ)と同じ位置、「消極的なブサイク」に該当します。悲しいですね。

 さて、ここで「自己顕示する/しない」→「積極的/消極的」、「有能/無能」→「イケメン/ブサイク」と変換すると上の図が下の図になるわけですが、どうでしょう。こうすると「クズ」より「意識高い系」が大分とマシな理由が見えてきませんか?

 消極的なブサイクよりも積極的なブサイクの方が好もしいですし、実際モテるチャンスも増えます。一見してブサイクと言われるような人でも、ちゃんと恋人がいたりする。羨ましいですね。

 他に例を挙げるなら、就職活動などでも同じ学歴、同じ能力なら、積極的で自分からアピールできる人材の方が求められるでしょう。

 同じことが「意識高い系」についても言えるのだと思うわけです。同じ無能でも、自分からアピールしていける自信があった方が人格的にじめじめした所がなくて好もしいでしょうし、しかも顔と違って「有能/無能」が一生変わらないパラメータでない以上、何事にも積極的な方が「無能」から「有能」へと移り変わるチャンスに恵まれるのは当たり前のことです。

 

クズ(僕)が消極的になる理由

 ではブサイクでも消極的であるより積極的である方が、「クズ」より「意識高い系」の方がマシだと分かっているのに、どうして僕はせめて積極的になれないのでしょうか?

 答えは簡単で「無駄に高過ぎるプライドや自尊心から」あるいは「傷付きたくないから」だと言えるでしょう。

 一般に「プライドが高い」などと言われがちな意識高い系ですが、それを批判する「クズ」の側にこそ、僕は身の丈に合わないプライドや自尊心、自意識を見ます。もちろん自分も含めて。

 そうして考えると、意識高い系批判に躍起になる人々というのは、悲しいほどに滑稽です。他者の自意識への批判を、自分の自意識の高さ故にやめられない。まるで自分自身を傷付けるために他者を傷付けているかのようです。

 「クズ」から見ると「意識高い系」は、「意識高い人」や「能ある鷹」ほどではないにせよ(いや、下手に身近なだけより一層)眩し過ぎるんです。

 僕達「クズ」がある種異様なほどに恐れてしまう「失敗」や「恥」に対するプレッシャーを、いともたやすく飛び越えてしまう。そうした姿に嫉妬してしまうのでしょう。

 そしてその点にこそ、彼らを見習うべき理由が隠されています。

 

思ったほど深刻に危険じゃなかった失敗や恥

  なにより大事なのは「意識高い系」の人々が少なくとも傍から見る分にはなに不自由なく「意識高い系」の自分を楽しんで日々を過ごし果せているという事実です。

 僕達「クズ」は度を越して失敗や恥といったものを恐れますが、僕らが躊躇するそうした行動を彼らは実践して見せ、実際に危険が無いことを証明してくれる。それはもう、わざわざ僕達「クズ」が「批判しなければならない」ほど、放っておけば彼らにこれといった障害は無いわけです。

 彼らが渡り切った橋をそれでも恐れるのは、もはや「慎重」とは言えません。ただの「臆病」です。そしてそんな臆病さを正当化するために橋を渡り切った者を批判するのは、あまりに卑しい行為ではないでしょうか?

  だから、彼ら「意識高い系」を目指すべきだと思うんです。彼らは橋を渡った、無能でもそれがひとまずできることを示してくれた。もしそれでも橋を渡りたくないとすれば、その理由は「自分が意識高い系よりも更に無能だから」以外にあるでしょうか? またそれを認めてしまっていいんでしょうか?

 

 「恥」を知らない意識高い系とクズ

  ところで「恥」と何度か書いてふと思ったのは、

 「自分は意識高い系と同じく無能だが、少なくとも「恥」は知っている。だから意識高い系のような振る舞いはしない」

 という反論(というか言い訳)がありうるなということです。

 たしかに異常なほどに臆病な僕達「クズ」は、ある意味で「恥」に物凄く敏感です。そこに可能性を見出すこと自体は悪くない線だとも思う。

 ですが、どうも「クズ」は「意識高い系」じみたことをする恥にはかなり敏感でも、かえって「クズ」であることの恥には驚くほど鈍感ではないでしょうか?

 つまりそうすると「クズ」の恥に対する敏感さは、自己否定を為し得るほどには鋭くはないわけです。自己には決して向かわず、もっぱら他人に向かう「恥」ほど性質の悪いものはありません。それではむしろ短所でしょう。

 「クズ」であること、「少なくとも恥を知っている」ことを自認しそこを誇りに思うなら、せめて「クズ」であることの恥にも敏感になりましょう。そしてそうなれば「クズ」から別の象限へ移る必要性も感じられる筈です。

 

目指すべきはどこか?

  ではどこへ向かうべきか?

  もう一度先程の図を見てみましょう。

 

  有能で自己顕示しない(能ある鷹)|  有能で自己顕示する(意識高い人)

 -----------------+-------------------

  無能で自己顕示しない(クズ)  |  無能で自己顕示する(意識高い系)

 

  この中でもはや「クズ」ではいられないとすれば、どこへ向かうべきか?

 「能ある鷹」ですか? いやいや、それはあまりにも厚かまし過ぎるというものです。無能から有能に移り変わるのは不可能ではありませんが、一方で、人間そう簡単に有能になれれば苦労はありません。そしてその「欠くべからざる苦労」はすこし前の自分(クズ)から見れば痛々しいものでしかないでしょう。

 つまり、僕達は「痛々しさ」を通してしか有能へ移り変わることはできない。

 僕達「クズ」がどうしても「意識高い系」に顕著な自己顕示に肯定的になれないのは、ルサンチマンもあるでしょうが、「能ある鷹」と「意識高い人」の有能層での印象を誤って無能層にも適応してしまうことに原因があると思います。有言実行よりも不言実行の方がなんとなく格好良くて有能そうに見える。実際自己顕示せずとも成果を出せる人というのはかなりの実力者と見ていいでしょう。

 でもそうした「自己顕示しない(能ある鷹) > 自己顕示する( 意識高い人)」のそれだけでも素朴すぎる構図は、無能層においては全く通用しないわけです。

 「クズ」が「能ある鷹」に近そうに見えるという誤った印象を与える上記の図を、僕達が辿りうる道と一緒に書き換えてみましょう。

 

                  |

  有能で自己顕示しない(能ある鷹)  有能で自己顕示する(意識高い人)

 ----<超えられない壁>----+------------------

  無能で自己顕示しない(クズ)    無能で自己顕示する(意識高い系)

                  |

 

 こんなところでしょう、実際のところ。

 一足飛びに「能ある鷹」になれるなんて夢を見ていても何の役にも立ちません。有能になるためには苦労しなければならないし、努力しなければならない。そして実績も実力も未だ無い無能のそうした努力や苦労は、どうしたって滑稽なものに見えるでしょう。でもその滑稽さを通過しない限り、<超えられない壁>の向こう側に行くことはできない。どれだけ同一化の妄想を膨らませたとしてもです。

 

「意識高い系批判」とは結局なんだったのか?

 今にして思えば、もはや過ぎ去ってしまった感もある「意識高い系批判」がなんであったのか、案外単純なものだったなと気が付きます。

 なんのことはない、それは以前にもよくあった(そして今でも猛威をふるい続ける)「頑張るのはカッコワルイ」「努力するのはダサい」という例の、それ自体カッコワルくてダサい言い訳じみた価値観の変形でしかなかったのです。

 「頑張るのはカッコワルイ」「努力するのはダサい」なら簡単にはねつけることが出来る人でも「意識高い系批判」にはコロッと騙されてしまう。そんなところに人間の思考の皮肉な軽さを見ずにはいられませんね。

  どうかそうした些細な変形に簡単に騙されない判断力を持ちたいものです。

  そしてそのためにもあくまでも通過点として、「意識高い系」を目指しましょう。