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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

手斧を投げよう

 はてな歴の短い僕にとって「手斧」という単語ははっきり言って謎でした。

 しかし元ネタのよく分からないタームなんてネットでは掃いて捨てるほどあります。特に気にもせず、なんとなくそういうものがあるんだなぁと元ネタを調べもせず放っておいていたのですが、最近ひょんなことからその起源を知りました。こういうことのようです。

 で、驚きました。

 素晴らしいじゃないですか、これ。

 「手斧」を武器とするモヒカン族(一部のはてな民などを指す)による「モヒカン宣言」をここに書き出させて貰います。

 

モヒカン宣言

    1. どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。
  • 宣言
    1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する
    2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない
    3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい
  • モヒカン族5つの価値
    校正
    間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。
    共有
    アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。
    ツッコミビリティ
    校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。
    全体最適
    たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。
    差異
    お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。

 

 もう一度言います。

 素晴らしいですねこれ。

 どれひとつとっても素晴らしい。僕もモヒカン族になりたい。と、そう口にするのがおこがましく思えるほど、これは素晴らしいと僕は思います。

 それで不思議なのは、このモヒカン族達の「手斧」飛び交う世界がはてなやネット空間の典型的な姿として受け止められているという「誤認」です。

 とてもじゃないけど、こんな素晴らしい世界はネットにもはてなにもほとんどありません。残念ながら。

 

手斧は人を傷付けない

 まず、手斧は武器ではありません。

 手斧(ちょうな)とは木工具であり古の大工道具です。

 釿 - Wikipedia

 人を傷付けるための道具ではないわけです。

 これはほとんど言葉遊びに近い偶然の賜物でしかありませんが、それにしても人格攻撃を目的としないにもかかわらず人格攻撃と裏読みされがちなモヒカン族達の「校正」と、木工具であるのに武器と誤解されているふしのある「手斧」のこの不思議な符合はなにか意味深げです。

 さらにこうしたアナロジーに身を委ねるなら「手斧飛び交う言論空間」とは、一見双方手斧をふるって相争っているように見えても、手斧の向かう先は人ではなくその「言説」であり、「言説」を互いに手斧でもって削り合うことで完成形に近づけていく創作的な大工たちの空間であると考えることが出来ます。

 大工たち(=モヒカン族)が手斧を武器であると取り違えることはありません。当たり前です。大工たちはちゃんと知っています、それは木工具であり、人ではなく木(言説)を削るためのものだと。

 それに比してネット空間における大多数が持つ、人を傷付けうるあの武器はどう見ても手斧ではありません。人を傷付けるために作られた武器としての斧でしょう。いや、もし仮にそれが手斧であったなら、それを扱う大工が相当に未熟か、さもなくばただの暴漢だとしか考えられません。

 

手斧をふるおう

 さて、この記事を書きながら以前見たある記事を思い出しました。

 伝えたいことがあるなら汚い言葉は控えた方がいい - Konifar's WIP

 かなり納得したのを覚えています。

 そして今考えると、「伝える」ことと「汚い言葉を使う」ことが根本から明確に違うものであることが分かります。前者は大工による創作であり、後者は人を傷付ける傷害です。目的からしてそもそも違うものが相容れる筈が無い。当たり前のことです。

 伝えたいことがあるなら武器としての「斧」ではなく、木工具としての「手斧」をふるわなければなんにもなりません。「でもボクにとってこうして血塗れに肉と骨がぐちゃぐちゃになった死骸こそが作品なんだどうして伝わらないのこんなに斧でグチャッこんなにグチャッこんなにも伝えてグチャッいるのに」ってそんなサイコな人もいるんでしょうが怖いのでやめてください。

 人を傷付けるためではなく、なにかを創作しあるいは完成させるための絶えざる修正としてのことば、手斧をふるいましょう。

 

手斧の有効範囲と限界

 ところで「ネットにはこんな素晴らしい空間は無い」と書きましたが、すこし考えてみるとそれはちょっと平等さを欠くというか、誤った表現だったかもしれません。

 そもそもそれが他ならぬ「はてな」を主に指す言葉である以上、もともとはもう少し特殊で狭い範囲を表す表現だったのかもしれません。具体的に言えばプログラミングやIT技術など正誤がある程度はっきりした領域、そして正しさが至高の価値になりうる領域でなら、感情的な裏読みを排したモヒカン族達の空間が今でもあると言えるのかもしれません。少なくとも昔はあったのでしょう。

 一方で、そうした特殊な専門領域の論理やノリを別の現実空間に持っていけば、当然痛い目を見るか、最悪の場合意図せずして痛い目を見させてしまいます。これはこれで愚かと言わざるを得ない。

 僕は「モヒカン宣言」を大変素晴らしいものだと思いますが、一方でその限界も認めないわけにはいきません。

 なにしろ今の世の中は、木工具が平然と武器として使われるような、モヒカン的な意味でなく真正な意味での世紀末なのですから。

 

「手斧脳」化するネット空間

  手斧が武器でなく木工具だったとして、しかし手斧を用いた殺人事件が立て続けに起きたとすれば。

 もちろん規制がだんだんと叫ばれるようになるでしょう。

 こうして「ゲーム脳」ならぬ「手斧脳」がささやかれる世界において、街中で手斧を持って歩いていたら、どれだけ「これは木工具だ」と主張したところで問題視されざるを得ません。

 大工さんがどれだけ悪くないにしても、それは仕方の無いことです。

 ネットは、はてなは、もはや大工さんだけの空間でもなければ、モヒカン族の世紀末でもありません。大工道具を平気で人を傷付けるために使うような、大工の風上にも置けないド素人が跳梁跋扈する一方で、悪意の無い大工さんの手斧にさえ傷付くような一般人がそこかしこにいる空間です。

 大工さんしか入れない建設現場なら「モヒカン宣言」はこの上なく有効でしょう。でも、今のネットやはてなはもはや「現場」ではない。ド素人や一般人も侵入可能で締め出す正当な理由もない「街中」です。当然自由に手斧をふるうわけにはいきません。

 もうモヒカン達が「ここはモヒカン達の手斧飛び交う空間だから気を付けてね」と忠告できる良き時代はとうに終わっているのです。「手斧は木工具でも使い方を誤れば人を傷付けるので、使う側が気を付けてね」と逆に忠告されてしまう、そしてそれが正当な時代はすでに始まっています。

 

 手斧を投げよう

  モヒカン宣言は素晴らしいものだと思います。

 でも、そこにあぐらをかいて「自分は間違いを修正してるだけだから、それで相手が傷付いても誤解する相手が悪い」と開き直るのでは、その素晴らしさは失われるでしょう。

 ましてや「モヒカン的に接すれば傷付く人がいる」という「事実」を無視して自分のやり方に固執するのが既にモヒカン性を失っているのは明白です。「アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。モヒカン宣言というアイデア自体、常にツッコミビリティを持った形で共有され、差異と全体最適化を前提に「校正」の機会を与えられなければなりません。

 梯子をのぼりきった後に梯子を投げ捨てるように、今や手斧を投げ捨てなければならない時が来ているようです。

 武器と(つまり人格攻撃と)誤解されやすい手斧は、今のネット社会にもそれを前提とした新たなモヒカン宣言とも合致しません。木工具であり大工道具であることが明白な、人を傷付ける心配の無い、人格攻撃と誤解される心配の無い優れたフォーマットこそが今必要な道具でしょう。僕達はこうした道具を発明し、手斧からそれに、持ち替えなければならない。

 といっても、さしあたって実際にやることは簡単です。相手のことを思いやりましょう。やさしさをもって接しましょう。たったそれだけで、インテリジェンスなモヒカン族達がついに到達しなかった真に知性的で自己言及的かつ自覚的な境地まで達することが出来ます。

 手斧を投げ捨て、やさしさと思いやりに持ち替えましょう。