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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

純文学はライトノベルである

 「ライトノベルは果たして文学か」という議論は、今なお盛んに行われているのではないかと思います。

 最近も

 鼎談「ライトノベルは文学か」にまつわる議論 - Togetterまとめ

 というのを読みまして。ふむふむなかなか難しいなと思う次第です。

 それでこの議論の俎上に挙げられている鼎談『藝大我樂多文庫 第七集2015』を読みながらふと思ったのは、「ひょっとして純文学はライトノベルだったのかもしれない」ということでした。

 

消える文学と生まれるライトノベル

 この鼎談を読む中で印象に残ったのは「今果たして我々が「文学」と呼んでいたものは存在するのか」というこれまで文学に携わって来た方々の実感を伴った懐疑です。これは非常に重要な実感であるとともに、少なくとも上の言い方ではすこし楽観的過ぎるとさえ言えると思う。

 というのは、そもそも文学とりわけ純文学が言語表現による芸術である以上、その目指すところは普遍性を帯びなければいけない。と思う。となると、「今存在しないもの」は少なくとも普遍的でない故に、「文学」とは今存在しなければ永遠に存在しないものということになるのです。

 普遍的なもの、というのは、過去現在未来に亘って永遠に存在するか、さもなくば永遠に存在しないかの二者択一、オールオアナッシングです。となると、現在に存在しなければ自動的に過去にも未来にも存在しなかったことになる。

 そしてまた同時にこの鼎談で語られているのが「ライトノベルというのはよくわからない、正体が掴めないけど、とにかく売れていて、若者に支持されているようだ」ということです。

 さて、ここで僕にはもうこの鼎談の主題は解決されたように思えます。「ライトノベルは文学か」答えは否です。少なくともライトノベルを理解できない人が過去現在未来のどこかに一人でもいれば「普遍的」でありえない以上、上記の証言がそのままライトノベルが文学たりえないことを示しています。というか、その前に「文学は永遠に存在しない」ことを示してしまった以上、どうしたってライトノベルも文学ではありえないのですし、「ライトノベルは文学ではない」という僕の答えに更に一言付すならば「文学も文学ではない」のですが。

 

純文学が暗示するライトノベルの末路

 Toggetterのまとめの中で藤田直哉という方が危惧しているのが「純文学の権威化と同じ道を将来ラノベが辿ってしまうのではないか」ということです。

 純文学がもはや「存在するのか」と思われるほど存亡の危機にある現在(まぁ村上春樹など、そうとも言い切れない部分も多々ありますが)、必然的に権威化することでしか自らの重要性を主張できない。

 いずれライトノベルが人気を失い「古いもの」になったとき(そんなときはいつか来ると僕は思いますが)同じように権威化することでしか自らの重要性を主張できない以上、やはり(可能なら)権威化してしまうのではないか、と。

 この危惧には僕も同意します。それがやってくるのが果たしてどのくらい後なのか、10年後か100年後かは知りませんが、純文学の寿命が案外短かったことを考えるとそう遠くないような気もする。

 こうして「ライトノベルも文学も文学でない」ことと「ライトノベルは純文学と同じ末路を辿るかもしれない」という心配を考えてみると、「どちらも同じなんだなぁ」とふと気付くわけです。

 そこで自然に出てくるのは「では純文学とライトノベルはなにが違うのか?」という疑問です。

 

純文学(自然主義小説、私小説)が目指す「現実」

 ここで鼎談でも参照された東浩紀氏や大塚英志氏による「純文学とライトノベルの違い」を見てみましょう。

 そこで導入される対立軸は「なにを描こうとするか」あるいは「どのようなリアリズムを採用するか」ということです。

 現実を描こうとする自然主義小説あるいは私小説は「自然主義的リアリズム」、アニメやまんがのような虚構の世界を描くライトノベルは「アニメ・まんが的リアリズム」あるいは「ゲーム的リアリズム」というのもあったりします。

 こうして見ると、ははぁなるほど、両者は違うねってことが分かるわけですけれども、だとしたら自然主義小説や私小説といった純文学が衰退する理由が分からない。現実を描く、いいじゃないですか、なんでこれが売れないのか甚だ不思議です。

 そこで僕が思うのは、というか確か『ゲーム的リアリズムの誕生』に書かれていたような気がするのは、自然主義的リアリズムは実際には「透明」ではなかった、即ち現実を描こうとしながらも描けていなかったのではないか、ということです。

 ここで僕がぼんやりと想定するのはラカン想像界象徴界現実界という概念です。といってもラカンについてはよく知らないので深入りは避けますし、深入りしないまでも既に間違っているかもしれませんが。

 僕の曖昧で未熟なラカン理解で言うと、幼児は最初、世界を「ありのままに」体験している。そこでは自分-世界というような対立も自分-他者のような対立もなく、自他未分の状態があります。恐らくこれが「現実界」に対応する。それが鏡像段階を経て言語という象徴秩序(「象徴界」)の網の目をもとに世界を再構成して、ようやく僕達がするような世界認識に到達する。それが「想像界」です。

 さて、まぁわけがわかりませんがひとまず言葉の表層に注目してみますと、僕達認識している世界あるいは「現実」は「現実界」ではなく「想像界」なのです。そしてこの「想像界」は言語という「象徴界」の恣意的な網の目に依存している。

 ここで僕がこの「現実界」を「まるでアニメやまんがのようだな」と感じるのは理解力や知識が乏しいからでしょうか?

 仮に僕の理解がそこそこいい線いってたとするなら、自然主義小説や私小説の書き手が鏡像段階に達しない幼児でない以上、これら純文学が描こうとしていた「現実」はそのじつ真に現実ではなく、時間的あるいは空間的にローカルな「想像的な現実」「虚構化された現実」だったのではないか、という疑義が呈せられるわけです。

 もしそうなら、文学が普遍性を実は持っておらず、そのせいで今危機に瀕している事も理解できます。純文学が書いていた「現実」が普遍的ではなくローカルなものだったから、もちろんその隆盛もローカルなものにしかなりえなかった。そう理解できるわけです。

 

島宇宙化する純文学とライトノベル

 こうした純文学の「現実を描くこと」への挫折と普遍性の獲得における挫折は、ライトノベルにとっても他人事ではありません。むしろライトノベルの方こそあからさまなまでにローカルでハイコンテクストな萌え記号に依存する以上、純文学にも増して普遍性からは遠ざからざるを得ない。

 一方で東浩紀氏の『ゲーム的リアリズムの誕生』や宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』など、アーキテクチャ面でのライトノベル仮面ライダーシリーズ、ドラマの持つ普遍性を探る試みはちゃんとあるにしても、それが理解されるかどうかはまた別の話です。特にライトノベルの場合、どうしても軽視される風潮のある現状、そうした先入観をまずどうにかしなければやはり難しいでしょう。

 こうして純文学もライトノベルも自らのローカル性とハイコンテクスト性により自閉していくとすると、鼎談における「文学という枠組みに(最終的に入れないにしても)ライトノベルを取り込もうとする」動きや、それに対するライトノベル側の反発も含めて宇野常寛氏の「決断主義的バトルロワイヤル」の一環として理解することが出来ます。

 かなり穿った見方をしてしまえば、この鼎談で何度か繰り返された「ライトノベルの良さを説明してほしい」という要求にもかかわらず、彼らは説明されてもそれを理解する気はないのです。あるいはあったとしても理解は無理でしょう。なぜならそもそもライトノベルは普遍性を持っていないし、ローカルでハイコンテクストなので、部外者にはやっぱり理解できないのです。

 そして無論、純文学も同じです。これは「純文学」と「ライトノベル」という普遍ならざる二つの島宇宙の、交戦でありやりとりなのです。「純文学」と「ライトノベル」の上下を考えるからややこしくなる。二つをフラットな地平に並べれば、存外起こっている事は単純です。

 

データベース消費としての純文学

 さて、「純文学」と「ライトノベル」の間のフラットな関係を強調する意味も込めて、更に純文学とライトノベルの類似性を見ていきましょう。

 ライトノベル消費に特徴的なのは鼎談にも言及があった通り「データベース消費」です。これは作品を超えたライトノベル全体にまたがる記号のデータベースから取捨選択された記号の組み合わせでライトノベルが形作られ、それを読者が読みこむことによって快楽を得る、という図式です。

 もちろんこうした単純化に還元できない部分はライトノベル消費にも残ることでしょう。しかし今はすこし横に置かせて貰って、こうしたデータベース消費を純文学消費にも見出してみたい。というのは、今やその可能性が開かれたからです。純文学の描く「現実」が、記号の集積としての象徴界を通して実現される想像界として理解できる今となっては。

 現実を僕達は言語という記号の網の目を通してみることで、例えば「りんご」と「みかん」を、「りんご」と「リンボー」を区分けし、今見ているような「現実」に再構成している。

 この記号のデータベースとしての言語を読み込むことの快楽すわなち「文学」自体、データベース消費の一環としてみることが出来るでしょう。さらに鼎談でも主張されている「作家性」「文体」へのこだわりにも、作家のキャラクター性を担保する記号としての「作家性」「文体」が伺えます。一時期ネットで「後ろで爆発音がした」を各作家やライトノベル風に書いたコピペが流行りましたが、その中に村上春樹村上龍も含まれていました。あの「そうそう、これこれw」感はどこか「萌え」に似た部分があると前から思ってたんです。純文学消費は、「作家性」「文体」という記号に「萌えている」と捉える事が出来るのです。

 こうした捉え方に対して純文学側・純文学読者の方は反発を感じるかもしれません。しかしそうした反発すらライトノベルにとっては「今更」でもある。こういったことは「文学」側からライトノベルへずっと行われてきたことに比べれば幾分ぬるくすら感じられるものだし、それに、こうした同一視がなければ、やはりライトノベルを部外者が理解するのは不可能でしょう。島宇宙同士の無根拠な交戦にしかなりません。

 

純文学はライトノベルである

 僕のこれまでの書き方にはすぐに見つかる矛盾がいくつかあります。

 例えば「部外者にはやっぱり理解できないのです」と言っておきながら「こうした同一視がなければ、やはりライトノベルを部外者が理解するのは不可能でしょう」とまるで実は可能性があるような事を書いている。

 また「純文学」と「ライトノベル」を異なる二つの島宇宙とし、互いに互いの成員を「部外者」としているくせに、純文学とライトノベルの類似性を強調してもいる。

 こうした矛盾を解決する手立てはあるでしょうか?

 僕はあると考えます。

 それに必要な命題二つ。

・部外者から部内者に変わることは可能である

・純文学はライトノベルである

 これで十分です。

 まず第一の矛盾は第一の命題で解決できる。部外者は理解できないが、部外者が部内者となることで理解は可能になるわけです。

 次に第二の矛盾は第二の命題です。「純文学」と「ライトノベル」という二つの島宇宙を更に<ライトノベル>という大きな島宇宙で包むことで、その類似性を説明できる。

 このとき大きな意味での<ライトノベル>は純文学も含むためにこれまでのライトノベルとは定義が異なります。それは「普遍性を持たず、ローカルな価値観やハイコンテクストな約束事によって成り立ち、データベース的に消費されるもの」としてひとまずは理解できるでしょう。

 純文学をこのような<ライトノベル>として捉えること、そうして純文学の持つ凝り固まった権威性をときほぐし、「ライトノベル」との類似性に気付くこと。こうした同一化をもって初めて「ライトノベル」の部外者は<ライトノベル>の部内者になり、完全には理解できぬまでもある程度は「ライトノベル」の部内者にもなることが出来ると、僕は考えます。

 無論「そもそもライトノベルなんか理解したくねーよ」って人は多くいると思います。それは当然でしょう。そんな必然性はどこにもない。

 ただ、「理解したくない」従って「理解しない」にもかかわらず批判だけはしたいというのは、これは決断主義としか言いようがない。そんな態度で果たして純文学の権威性を守れるのか、むしろ傷付けはしないか、疑問です。

 同じことはライトノベルにも言えます。何も考えず「純文学」を敵視し、理解しないままに批判するのではやはりそれは決断主義であり、無根拠にならざるを得ない。

 まぁ、もっとも、今回僕が示した純文学像は、そもそも純文学側からかなり反発がありそうなので、それを単に採用するのはその意思が無いにしても攻撃と受け止められかねない。ひとまずは純文学側からの回答待ちということにならざるを得ないでしょう。そして回答を待つための、まずは提起です。「こうこうこんな感じで純文学はライトノベルだと思うんですけど、どうでしょ」「こう理解すると互いにもっと仲良くできると思うんですけど、どうでしょ」といった感じですね。

 そして最後に強調しておきたいのは、純文学読者の方やあるいはそうでない人でさえ感じるであろうこの記事に対する違和感・拒否感・反発を、どうかそのまま発露せずに一度冷静に考えてもらいたいということです。

 果たしてその違和感・拒否感・反発は「純文学>>>>>ライトノベル」という既存のイデオロギーに指示されたものではないと言い切れるでしょうか? そしてそうしたイデオロギーは、どこにどういう根拠があって、正当だと言えるのでしょうか? いやそもそも、絶対的に正当なイデオロギーなどありうるでしょうか?

 僕は当然ながら、「~はライトノベルである」という言葉に侮蔑の意味も軽視の意味も込めていません。そう捉えられる可能性を想定しつつも、それが解きうる誤解であると確信しつつ使っています。

 こうした言葉が、少なくとも純文学読者の方になら届くだろうという信頼と安心感とともに、記事を閉じさせていただきます。