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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「宗教化するフェミニズム」を疑え

その他のお話

 最近話題のフェミニズムと弱者男性について、自分の考えが固まってきたのでここでひとつ書いてみたいと思います。

 と、その前に、この話題についていろいろ見ていく折にエマ・ワトソンさんのスピーチを見かけて、それが大変素晴らしいものだったので貼っておきます。

logmi.jp

 

「科学教」について

 さて、突然全然関係の無い話が出てきました。科学教。

 しかし実はそうでもないんです。

 僕はどちらかと言えば理系の人間で、唯物的な思想(というほど完成したものでもありませんでしたが)に傾倒していた時期がありました。そういう僕だからこそ「科学教」の問題点もある程度は分かる。

 いわゆる「科学教」的態度の問題点は「思考停止」と「ドグマ化」です。二つは同じ意味だと思ってもいいでしょう。

 現行の科学的見地を絶対視してしまう「科学教」的態度は、多くの場合指摘されるようにそのことによって科学的態度を既に失っています。簡単に言って「科学的」とは「常に疑うこと」だとすれば、「ここまで疑ったんだからもういいだろう」という妥協点をどこかに置いて「思考停止」しまうのが科学教的態度だと言えるでしょう。*1このとき現行科学の知見は、あたかも宗教の頂く「ドグマ」の如く絶対的真理として君臨するわけです。

 しかし「どうしてそれが真理だと言えるのか?」という懐疑を失くしてしまえばもはや科学的とは言えません。そして「こういう条件を満たせば真理だと言える」ような条件が発見されていない以上、どうあっても科学教的態度は科学的ではありえないわけです。少なくとも今のところは。

 さて、話題を戻しましょう。

 こうした「どこかで根拠を探るのをやめてしまう」科学教的態度は、現在の(少なくとも民間の)フェミニズムにも共通してしまっている。それが僕の言いたいことです。

 

女性しか守らないフェミニズム

 この話題でフェミニズム側の擁護でよく見たのが「フェミニズムは女性解放のためのもの」「フェミニズムは性差による不公正の解消を目的とするものであって、性差以外の不公正には関わらない」というもの、そしてそこから明に暗に繋がる「だから弱者男性を助ける義理は無い」という主張でした。

 ですが、ちょっと待ってください。

 どうして女性を解放しなければならないのですか?

 どうして性差による不公正を解消しなければならないのですか?

 どうしてそれを不問に付したまま信じてしまっているのですか?

 誤解しないで頂きたいのは「女性を解放する必要など無い」「性差による不公正を解消する必要など無い」と言っているわけでは無いということです。

 科学教信者の方に、その人の信ずる「科学的真理」がどうして真理たりえるのか問うことが「それは真理じゃない」というのとは違うように、これはただ「根拠」を聞いているだけです。

 フェミニズムの目的である「性差別の廃止」「女性の解放」「性差による不公正の解消」は、一体どのような根拠があって、それがなされる「べき」なのでしょうか?

 この根本的な根拠への思考を停止し、「性差別の廃止」「女性の解放」「性差による不公正の解消」をドグマ化してしまったフェミニズム(の残骸)を見るたび、僕は悲しい気持ちになります。

 そしてまさにフェミニズムと弱者男性を巡る一連の議論の問題点は、この「フェミニズムのドグマ化」「フェミニズムの宗教化」が一端を担っていると僕は思うわけです。

 

勘違いされるフェミニズム

 ここで僕の問題意識を更に深めてくれるのが前述のエマ・ワトソンさんの類い稀なスピーチです。

 まず題名を見てみましょう。「今こそフェミニズムを見直すべき」

 そう、見直すべきなのです。「性差別の廃止」「女性の解放」「性差による不公正の解消」といったお題目を神の御言葉の如く崇め奉るのではなく、またフェミニズムを「所詮女性の為だけのもの」と見くびるのでもなく、その欠点と美点を今一度見直すべきでしょう。

 あなたが平等を重んじる方であれば、きっとあなたは「自分では自覚していないフェミニスト」の1人です。女性の平等を願う気持ちを、皆が必ずしも「フェミニズム」という言葉で表現するわけではありません。

 スピーチ中のこの言葉は、僕がいままで見てきたどのフェミニズムに関する言説よりも、ずっしりと心に響きました。

 僕が言わなければならないのは「僕達はフェミニズムを勘違いしていた、誤解していた」ということです。当のフェミニストの方でさえ誤解をしていた人がいると言わなければならないでしょう。場合によっては、とりわけフェミニストの方こそは、と言わなければならないかもしれない。

 断言しますが、フェミニズムは女性だけの為のものでもなければ、男女間の不平等を解消するための道具でもありません。すべての平等のため、あらゆる不平等の解消を志向する思想・運動です。

 なぜならあらゆる平等のうち「男女間の平等だけ」守らなければならない理由などどこにも無いし、仮にすべての不平等が許されるとすれば、当然男女間の不平等も是正される必要など無いからです。

 つまり、弱者男性も(当然弱者女性も)その射程に含むより広範な「平等」に同意しない限り、どうあってもフェミニズムに同意することはできません。*2

 以降はこうした「勘違いされたフェミニズム」=「女性しか助けないフェミニズム」を「偽フェミニズム」と呼ぶことにします。*3

 

小学生式「なんで?」の連鎖

 別の説明を試みましょう。といっても至極簡単なものです。

 科学教の、そして現在の偽フェミニズムの問題点は「思考停止」と「ドグマ化」、それによる「科学」「(真の)フェミニズム」への誤解です。

 そして「思考停止」「ドグマ化」を解くには、根拠を問い続ける姿勢を再び獲得すればいい。そこで役に立つのが小学生のよくやる、あの小憎らしい「なんで?」の連鎖です。

 小憎らしいながらも「常に疑い続ける」その姿勢は科学や哲学に通ずるところがある。なかなかどうして侮れない方法です。

 

 性差別を廃止しなければならない ←なんで?

 女性を解放しなければならない ←なんで?

 性差による不公正は解消しなければならない ←なんで?

 

 なんだかやっぱり小憎らしいですね。

 ただそれでもそこで答えるのをやめてはいけません。そして偽フェミニズムは上記をドグマとしてしまっているために、この問いに答えられない。停止した思考を再び開始し「差別・不平等は廃止しなければならないから」「不公正は解消しなければならないから」と答えるべきでしょう。(そのほかの答えもあるのかもしれませんが)

 そこから更に「なんで?」と問われる。これはかなり難しい。それでも各人が各人なりの答えを出す筈です。僕なら「各人が平等に幸福を追求する権利をもっているから」と答えるでしょう。そしてまだ「なんで?」と返ってくる。

 どこかで「なんでも!」「とにかくそうなんだ!」と言いたくなる瞬間が来るかもしれません。すべての人が「常に疑い続ける」ことができるほど強くはないというのも分かる。どこかで「思考停止」「ドグマ化」してしまうのは仕方の無いことなのかもしれません。

 それでも、なるべく遠くまで行ってみましょう。

 出来るところまで疑って、それから「信じる」ことを自分に許しましょう。

 無論、そのとき、許されるのは自分だけではありません。

 自分のドグマ化を許したそのとき、同時に他者の同じ地点以上におけるドグマ化も許すことになります。

 この自己と他者の対称性が、フェミニズムの、平等の、そして弱者男性を助けるべき、ひとつの根拠であり素晴らしさだと思います。女性と男性は対称で、自己と他者は対称で、フェミニズムと弱者男性の擁護は対称です。そしてだからこそ、フェミニズムは平等は素晴らしく、また美しいのだと思います。

 

で、具体的にどうする?

 「美しいのだと思います。」とか言って綺麗に(?)締めくくってもいいのですが、それではあまりにも具体性に欠けるし、無責任というものです。

 エマ・ワトソンさんのスピーチは本当に素晴らしいものですが、それを受けた男性はふと「あれ? それで結局どうすればいいんだっけ?」と取り残された感じを受けてしまう感は否めない気もする。まぁスピーチという時間制約上、仕方の無い部分がかなりあるわけですが。

 少なくともこの記事はスピーチではないので、「具体的な事も言いたいんだけど時間がね、へへへ」と笑って誤魔化すことも「ここに記すには余白が狭すぎる」とフェルマーぶるわけにもいきません。

 といって、やっぱり具体的な行動となるとなかなか難しいものです。

 特に弱者男性側を代弁すれば、あんまり優しくされると、違う違うと思いつつ自己嫌悪に浸りつつも好意と勘違いしてしまうこともあるかもしれないし、そうでなくても好きになってしまうかもしれない。そしてそうなると女性側からしても非常に厄介です。無論、フェミニズムに対する男性側のぎこちなさにもこの種の原因が少なからずあったのでしょうが。

 そうした気恥ずかしさ・厄介さの回避のためには、フェミニズムが実際に成し遂げたような行政上・制度上の具体的な施策が有効でしょう。それが最重要だとも言える。

 ただそうなってくるとますます一般市民たる僕達には「具体的にどうすればいいのか?」遠くなってしまう感じがあります。

 ただ、一つとても簡単なことがあります。

 「自分がしてほしいことを他者にすればいい」のです。

 女性が男性に対してもうちょっと配慮してほしいこと、これを言葉にするとともに、自分も男性に対してそれと同種の配慮をしてみる。

 また弱者男性が女性に対してどうにかしてほしいことを、それを言葉にするとともに同じような困難が女性側にもないか考えてみる。あれば自分がしてほしいのと同じやさしさや思いやりを示せばいいし、無くても別の形でやさしさ・思いやりを示してもバチは当たらない。

 時には男性に対してはやさしさとなることが女性に対してはまったく逆に働いてしまうことなどもあるかもしれません。そのあたりは相手を思いやれば見えてくると思うし、それでは不十分なら対話するべきでしょう。

 いずれにしても平等に関するこの種の問題は本来、やさしさや思いやり無しには根本的には何も解決しないと僕は思います。どれだけ制度が整っても。そのことはもしかしたら今現在女性が痛切に感じていることかもしれません。

 そして自分が示しもしないやさしさや思いやりを相手に求めても、応えてくれる相手は少ないでしょう。今回の議論も本質的な原因はそこだろうし、それは双方(フェミニズム側、弱者男性側)ともにそうです。

 やさしくされたいならまず自分からやさしくする、結局、それしかないと思うんですよ。

 そしてそれは「義務」という重苦しい言葉よりは「共生」とか「情けは人の為ならず」という言葉で受け止められるべきでしょう。

 なにより、どちらかがどちらかにやさしくする社会より、どちらともが互いにやさしくする社会の方が、ずっと美しくて素晴らしくて「いい」と思いませんか?

*1:故に、妥協点をかなり最初の方に置いている「宗教」と、ある程度の地点までは疑っていた「科学教」をまったく同一視してしまうのは双方にとって失礼だとも思っていますが。

*2:当然、逆のことも言えます。つまり「平等は大切だ」と普段から言っている人が「男女間の平等だけは大切じゃない」と言うのは明らかにおかしいし、それと同じくらい女性しか相手にしないフェミニズムというのはおかしいのです

*3:どうでもいいことですが「にせフェミニズム」ではなく「ぎフェミニズム」です。特に理由はありませんが。