話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

もう一度弱者男性について考えてみる

 既に二度ほど考えてみた弱者男性とフェミニズムについて、今一度考えてみたいと思います。

 これまでこの話題について考える中で、フェミニストの方とほんの少しですがコミュニケートしてみました。その中で僕は「今のままではフェミニズム側も男性側の協力を得られない」ということを言い、それに対して「そもそもこちらはそちらの協力を必要としていない」というような反応を頂いた(かなり意訳ですが)。それならば、仕方が無い。ということでこの件が気になりつつもしばらく考えるのを止めていたわけですが、

d.hatena.ne.jp

 この方の記事(以下、記事Aとします)を読んで、かなり納得するとともに、やはり考えずにおくわけにもいかないと思い直して、今に到ります。

 といっても、この記事Aも「フェミニズムは男性の協力を求めている」という趣旨だったわけではありませんし「フェミニズムは弱者男性と協力していける」という楽観的なビジョンを示すものでもありません。あくまで別の部分で気付きを与えてくれた、ということです。

 

弱者男性論によるフェミニズム批判のニヒリズム

 この記事で特にハッと気付かされたのは、多くの弱者男性に関連付けたフェミニズム批判がその実ニヒリズムを内包しているという点です。

 そしてそれは僕自身のド真ん中に直撃する、まさに「図星」でした。

 「宗教化するフェミニズム」を疑え - 話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

 宗教(特にいわゆる「科学教」)と関連付けてフェミニズムの公正性を根本から疑ってみる上記の記事は、まさに「ニヒリズム」でした。

 とはいえ、「ニヒリズムならば間違っている」ということではありません。実際上記の僕の記事は科学教に対するニヒリズムでもある。では科学教に対するニヒリズムが全て間違っているなら、それは即ち科学教が正しいということなのか。少なくとも僕にはそうは思えません。

 ただし、前述の記事Aを引用させて頂くと

社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。

 とあるように、ニヒリズムに陥っていてはたとえそれが正しくとも、「公正性」を定義できないためにフェミニズムのみならず弱者男性擁護さえも無力化してしまう。そのため「正しかったとしても役立たず」としか言いようがないわけです。*1

 これは僕自身の拙劣な一例ですが、他の「弱者男性論によるフェミニズム批判」もまた多くはこれと同じ欠陥を抱えている可能性があります。

 繰り返しますが、正しさを否定されたのではありません。有用性を否定されているのです。そして「弱者男性」への支援を掲げる限り、この有用性の欠如は致命的と言わざるをえません。

 

当面の戦略:各個撃破

 一方でこうしたニヒリズム的なフェミニズム批判に全く成果がなかったわけではありません。

 度々引用させて頂く記事Aの方も、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く可能性を検討されていますし、実際そういうことはあるのでしょう。特に今回そういうものが浮き彫りになってきた気もします。そういうものをえぐり出した「有用性」は、やはり評価されるべきだと思います。

 ここでこの有用性を無駄にせず、次に繋げていくのは決して相も変らぬフェミニズム全体への批判ではありません。フェミニズムの中に不公正な一部があったとしても、公正な一部もまたある。必要なのは不公正な一部に絞った具体的事例に対する具体的追求。つまりは「各個撃破」です。

 それはたしかに地道で、はがゆい方法かもしれません。しかし結局は、そうしていくことでしか「公正性」を保ちながら弱者男性支援への道を切り開くことはできません。もしここで「公正性」を無視して「弱者男性を救う」という大義名分の下に無茶な行動を起こすなら、批判する「不公正なフェミニズム」と同等の地位へ堕ちてしまいます。

 

 一方でフェミニズムが「常に」公正ではないという現状は、フェミニズムの自浄作用の弱さを示すものでもあります。

 仮にいつまでたっても状況がこのままなら、こちら側もまた自浄作用を働かす積極的動機を失う。具体的に言えば「女をあてがえ」などと明らかな女性差別的言動を繰り返す一部の自称弱者男性に対する自浄です。

 実際のところ女性・フェミニズム側がこうした人たちに対してそうでない(しかし同じ男性あるいは弱者男性である)我々に自浄作用を求めているのかいないのか、現時点では分かりません。このあたりは一部の不公正な女性・フェミニズムに対する公正なフェミニストの方の対応を見て、それに倣うのがまず適切かと思います。

 

「キモくて金の無いおっさん」から「キモいおっさん」へ

 ここまではやはりフェミニズムとの対応を主に追ってきましたが、やはり多くのフェミニストの方の言うとおり、そもそもフェミニズムとの関わりの中で弱者男性支援を行う必然性はどこにもないし、実際のところ非効率・不合理です。

 フェミニズムとは関係の無いところで弱者男性支援を進めていく必要がある。やはり手に手を取り合うことは、諦めるしかないと思うのです。あちらがこちらの手を必要としていない以上。

 ではどうすればいいのか。

 「キモくて金の無いおっさん」が詰んでいるのは、「キモくて」「金がない」からです。AND条件なんですね。「金が無くてもキモくないなら」「キモくても金があるなら」というのは弱者男性側の声でもある。だからまず、どちらかを解決しましょう。

 とはいえ「キモい」というのはちょっとどうすればいいのか分からない。もしかしたら「女をあてがえ」というのがこれに対応する要求なのかもしれませんが、まぁありえません。そこでまず目指すべきは「金が無い」の解消です。

 具体的に言えば金銭的な支援施策・セーフティネットの構築。そしてそのために必要なのは、そうした支援施策が「本当に必要である」と世の中に認めてもらうこと。つまり世論形成です。そしてこれは同時に「「キモくて金の無いおっさん」は同情されない」という弱者男性問題の根本への対応でもある。(その意味では「金が無い」ことよりも「同情されない」ことの方がより深刻で本源的と言えると思います)

 そして弱者男性への同情を醸成する世論形成に利用するべきだと僕が考えるのが、ネットです。

 

顔の見えないネット

 当たり前というかもはや常識ですが。ネットでは基本的に相手の顔が見えません。

 これまでネットの悪しき側面と捉えられてきたこの特徴ですが、もしかしたら「キモくて金の無いおっさん」への同情を広めるためにこれほど適した場もないのではないでしょうか?

 なにせ、顔が見えないのです。

 つまり「キモく」ない。

 「キモくて金の無いおっさん」はネットでは「金の無いおっさん」ですし、いや、金なんて顔より見えない。つまり「おっさん」です。

 もっと言えば「おっさん」以外を演ずることもできる。

 「キモくて金の無いおっさん」への同情を広めようにも、「キモくて金の無いおっさん」がそもそも同情を集められないのだから、なにをしてもどうしようもない――というこれまでのジレンマを一気に解決するのがネットだというわけです。

 実際、今回の「弱者男性」論議がネットという環境で爆発したのも必然であると言えるでしょう。これはすでに起こっていることです。そしてこうしたネット上での「弱者男性」への同情集めをここで終わらせず、継続させていけばいい。

 もちろん単純な戦略のみを採用する理由はありません。著名人への応援要請やスター論客の擁立、ゆるキャラ、創作を通じてのメッセージ送信、などなど、方法はいくらでもあります。

 あと最近の僕自身の関心対象に引き寄せて言えば、しっきー氏の

skky17.hatenablog.com

 というすごい!記事の方法論を見習ってみるのも手だと思います。「新はてな村」ならぬ「弱者男性村」ですね。*2

 

 とにかく、やれることはまだあると思います。

 そしてやれることがある以上、これ以上フェミニズム批判に労力やリソースを割くのは非合理だと僕は思います。

 確かにフェミニズムの協力が得られれば、それはこれ以上ないくらい心強いものかもしれません。でも「北風と太陽」の北風のように、強引に相手を従わせようとしても協力は得られません。

 それとは別に、弱者男性の側からはフェミニズムなどの反応に対して「こっちはそちらになにも求めていない、ほっといてくれ」という声も散見されます。少なくとも弱者男性全体が「女をあてがえ」と言っているかのように吹聴する一部の不公正なフェミニズムの対応は、とても上品とは言えない。そこはこれからも声を挙げていくべきところでしょう。それこそ、各個撃破です。

*1:一応言い訳をさせてもらえば、この記事を書いているときでさえ、僕はこの種の欠陥に完全に無頓着だったわけではありません。だからこそ結論部分ではどこか牧歌的で楽観的な「共生」礼賛を公正性への信仰の代わりに持って来なければならなかったのです。その結果、記事自体はかなり稚拙な仕上がりになってしまいましたが。

*2:あるいはこの案単独を採用して、恋愛とは別の承認欲求満足回路を形成し、弱者男性のケアに当てるという手もアリかもしれません