話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

『パンク侍、斬られて候』読みましてん

 すこし前に町田康さんの『パンク侍、斬られて候』を読み終わりました。

 今回で町田康さんの本は二冊目なんですが、かなり面白かったです。その魅力はちょっと一言には収まらないし、そもそもうまく言語化できないし、僕がまだ感じられていない素晴らしさもあるんでしょうが、つらつらと思いつくままに書いてみたいと思います。

 

 まず読後すこし経った今でも鮮明に印象に残っているのは言葉遣いの面白さ、ですね。

 江戸時代を舞台としながらちょいちょい、というか後半になればほとんど常態となる現代的な口語や語彙。

 今パラパラとめくってみるだけでも「フリーランス」「プレゼンテーション」「リズム」「イーメール」「ファクシミリ」「オリンピック」「サッカー」「ヒロイック」「メソッド」「シュール」「レトリック」などと、およそ時代小説とは思えない単語がぽろぽろと見出されます。

 言葉遣いも「マジ汚ねぇよ、放せっつうの」「やばくない?」「いいねぇ。ほんと、いいねぇ」「っていうか」などなど、現代的な口調が突然出てきたりします。これが江戸時代らしい古い口調や語彙や文脈とごっちゃになって出てくるのがまたいいんです。「その方、余をアホだっと思ってんの?」「家老だぞバカヤロー。百年はえーっつーんだよ。ぶっ殺してやる。つって……」「分かりました。みなさーん。間もなく突撃ですよ、とつげきー」「あ、よかった。叱られるかと思った。ではいつごろ参りましょう」「余はむかついておる」「まぁ殺すでしょうね。ただでさえ面倒くさいんだから、これ以上面倒が起きそうなファクターを藩内に抱えていたくないからね」「尊公は俺が嘘を言っていると思っていたのか?」「……お主、できるな。その腕に免じて俺の名前を教えて進ぜよう。俺は真鍋五千郎といいます。よろしくお願いします」といった感じです。この、江戸時代という堅固そうな構造を一度仮構しておいて、それをひっくり返し、ぶっ潰す、みたいなのが非常に心地よくて気味がいいというか「うふふ」って感じなんですね。

 もう読むだけで笑けてきます。

 あと、特に面白くて電車の中で思わず吹き出してしまったのが、超人的剣客(というたびたび出てくる呼称もどこか滑稽で面白いのですが)である主人公と敵対する暗殺者・真鍋五千郎の必殺技の名前『悪酔いプーさん、くだまいてポン』です。

 なんですか『悪酔いプーさん、くだまいてポン』て。まず「それ技名か?」って感じですし想像する情景が面白いし語感がやたらいいしもう大好きです。

 他にもいくつかかなり変わった技名が出てくるのですが、あまりネタバレするのもアレなので置いておきます。

 他にもサラリーマン的な武士たちや「最近の若者」的な武士たちなど、あからさまなまでに現代の風刺を意識した描写がくすりとさせます。一方で自分にまんま当てはまるような事や耳に痛いような事も書いてあり、無視できません。

 ともかく、面白いです。笑えます。おもろ、です。

 ただ明るい笑いというのとは少し違うかもしれません。風刺であり諧謔であり、どこか不条理や悲しさがあって、その上におもしろさがある。それもこの小説の魅力だと思います。

 

 また別の魅力としては、「笑い」と「死」の近さがあると思います。

 特に終盤の馬鹿VS猿(ときどき武士)の戦争に雪崩れ込むにつれて、展開はグロテスク方面へと大きく傾きます。ばったばったといとも容易く人が死にます。

 こうした小説全体の構造を象徴的に表しているのが宗教組織「腹ふり党」の元幹部にして教祖・茶山半郎でしょう。

 「わはははは。弾圧ですな。僕は岐阜でこの刺青をいれられてからこっちもうどこまでが夢なのかわからなくなっている。当然のことだな。恵愚母の婚礼でしょう。狐の。それで縄次さん。なにか用があっていらっしゃったのでしょう。その用を私に言いなさい」

 意味不明な、全きカオスな彼の口調はかなり不気味です。一方でちょっと笑ってしまう面白さもある。

 そして混沌として怖ろしいのは口調だけではありません。彼の顔いっぱいには滑稽極まりない刺青が施してあり、人はこれを見て笑わないわけにはいきません。そして笑った人に対し茶山はこう言います。

 「私の顔がおもしろいですか。かまいませんよ。それは大いに議論してください。あなたの脳漿が後で焼けますので。核心ですので。僕はこの刺青を岐阜で入れられたのです」

 「笑いの発作というのはこの憂き世を覆う邪悪な条虫がもっとも嫌がることです。けっこうなことです。あなたをおへどにさせていただきます」

 ちなみに「おへどにする」というのは殺すということ。つまり彼は顔面の刺青で人を不可避に笑わせておいて、笑えば斬るのです。こわい。とんだ「笑ってはいけない江戸時代」もあったものです。絶対に遭いたくない。

 そんな教祖が君臨する「腹ふり党」なる宗教組織が藩内を侵食するにつれて、国は「笑い」と「死」の混沌に覆い尽されます。この様子が、途轍もなく怖ろしいながらも、途方もなく可笑しくて、ちょっと笑ってしまう。実はこうした「笑い」と「死」の近さは茶山半郎や腹ふり党と関係無い場所でも、序盤からずっと小説の中央にひそかに鎮座していたことが分かります。

 倫理観の麻痺と痺れを感じながらもどんどん読み進まずにはいられない不思議な牽引力がこの小説にはあります。

 

 僕はまだ日本の文学、特に純文学と呼ばれるジャンルの文脈をそれほど把握していないのでこの小説の位置づけもよく分かっていない部分があり、一般的にはどのあたりが評価されているのかもよく分かっていません。そういう人でも楽しめる小説であることは間違いないと思います。

 ただ、同じく純文学領域で活躍し、僕の好きな作家でもある舞城王太郎さんとの共通点や相違は、分からないながらも気になる部分ではありますね。

 以下はネタバレを含みますので、できれば一度作品をお読みになってから読んで頂けると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞城王太郎さんの小説が好きと言っても、やはりまだ数冊しか彼の小説を読んでいません。

 その数少ない既読の作品の中で特に好きなのが『好き好き大好き超愛してる』と『九十九十九』です。

 この中で『九十九十九』はメタ・フィクションの作品です。章が進むごとに前章の内容が小説として主人公・九十九十九の下に送り付けられ、事件を解決し、人が死に、次の章へ移る。

 僕がこの種のメタ・フィクション的作品(他には村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』など)に拘らずにいられないのは、それらが「フィクションとの関わり方」を問題にするからです。『九十九十九』でも問題となるのはフィクション的な偽りの世界と、その偽りの世界の住人である愛する女性とどう関わっていくべきか、ということです。

 偽りの世界から抜け出て現実の世界へ出て行くべきか? しかしそれは偽りの世界の恋人を捨てることでもある。この選択に関する自己の望みと倫理、その両面が問われる切実さがこの種の作品にはあると思います。

 一方でこの系譜に属する作品や、そこから影響を受けていると思われるセカイ系ライトノベルなどへの批判もまたあります。その一つはヒロインの虚構性に真正面から立ち向かうにしても、彼女たちに「愛される」という大前提までは崩されない、というもの。宇野常寛さんが「安全に痛い」反省と呼ぶものですね。

 エヴァにおけるアスカの「気持ち悪い」の無い、拒否の無いヒロイン。その無条件の愛情は女性を一個の女性としてみるというよりは「母」としてみることなのかもしれません。もしそうならそれはマチズモからの脱却というよりは、別のマチズモへの転換です。*1

 さて、話を戻しましょう。

 『パンク侍、斬られて候』も、終盤になってそのメタ・フィクション性を露わにさせます。*2 しかしこの作品では偽りの世界の美少女は「自分を愛してくれる」理想的な母ではありません。

 むしろ「拒否」するためだけに主人公に近付く者であることが分かります。

 さらにこのヒロインは、主人公・掛の「君はこの世界は虚妄の世界だと言ったよな。だったら親を殺した相手を殺す、つまり仇討ちなんていうことはしなくてもよかったんじゃない。こんな虚妄の世界でなんでそんな単純な因果に固執するのか、僕にはさっぱり分からない……」という言葉に「むかつくからよ。それに……」「それに?」「こんな世界だからこそ絶対に譲れないことがあるのよ」と返す。

 フィクションの世界では、フィクションであるがために許されていることが無数にあります。殺人に強姦に犯罪。これらは現実で行えば当然ながら罰せられますが、フィクションの中で存在しないキャラクターに対して行う分にはTPOを弁えれば悪くないとされている。

 こうした神としての作者や読者に弄ばれるキャラクター側からのひとつの返答が「こんな世界だからこそ絶対に譲れないことがあるのよ」なのではないでしょうか?

 「拒否」という『九十九十九』の属する系譜の描く「愛」とは正反対のものを描きながら、「フィクションのキャラクターにどう向き合うか」を描いた点では共通するものがあります。

 「たとえ虚構でも愛すること」と「たとえ虚構でも拒否されること」はともに虚偽の存在に対して現実の人間と同様の地位を与えるという点で同じです。

 どちらが優れている、ということは無いと僕は思います。これらは相補的な双子の関係と見るべきでしょう。ともかく『九十九十九』やその種の作品が描きえなかったものをこの作品は描き果せている。そう思うわけです。

 

 僕がこの小説の数々の魅力を取り纏め、一本の軸として小説全体を貫いていると思うのは、「構築」から「破壊」へと流れる一本の軸です。

 江戸時代という「昔」の仮構とその破壊としての現代語の流入。不条理や悲しさと、その破壊としての笑い。「笑い」への「死」の流入、あるいは「死」への「笑い」の流入。小説世界の構築とその破壊としてのメタ・フィクション。キャラクターの構築とその死。

  すべて一度構築し、それを自ら破壊することで、批評性や面白さが生まれていると思うのです。

  とにかく今回の読書体験は最高に笑えて最高にスリリングで最高に面白いものでした。作者の他の作品も読んでみたいと思います。

*1:例えば『九十九十九』ではその母から醜さにより目玉をえぐられる、という体験があるので、一概にそうとも言えませんが。

*2:あとから読み返せば「腹ふり党」の教義自体、予告であったことがわかるのですが。