読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

俺ガイルは純文学である

 アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』の第10話、第11話を立て続けに見まして、すこし思うところあったので書いてみたいと思います。

 

「本物」求める純文学

 本作品の最近の展開の中で重要な主題として浮かび上がってきたのが「本物」というワードです。

 これまでひねくれながらもドライかつクールにトラブルに対処してきた主人公・比企谷八幡は第8話、雪ノ下雪乃との関係の崩壊の危機に瀕して、涙ぐみつつ「本物が欲しい」と心情を吐露します。

 葉山達グループに代表される表面的な(と八幡が判断する)関係性に対置されるこの「本物」という観念は、同じ奉仕部の雪ノ下や由比ヶ浜にも明確には理解されません。読者・視聴者にとってもそうであろうと思います。

 そもそも「本物」の問題とは「そんなものが本当に存在するのか?」ということであるために、仮に存在しないとしたら他者に理解されるはずもない。概念が共有されるためにはそれがまず第一に「存在」し、そのときには既に抱える問題は解決されてしまっている。そんなハードルがべらぼうに高い言葉なのです。

 さて、こんな「本物」を求める八幡を見て、僕は「純文学」だと感じました。

 ただしここにおける「純文学」とは褒め言葉ではありません。むしろその逆です。

 

純粋さを求める文学

 僕は「純文学」という言葉が嫌いです。純文学が嫌いなのではありません、「純文学」という言葉が嫌いなのです。

 これはそもそも日本文学の中だけで通用する「用語」です(僕の認識が正しければ)。そしてこの「純」の文字、なんとも鼻につきませんか。「そもそも誰がどうやって判断してその正しさは誰がどうやって証明するんだよ」とも思います。形而上学的です。

 純文学の中には「現実を描こうとする」思潮もありますが、ではこの「純」に対立する「不純」は「現実」ではないのでしょうか? むしろ見落とされがちなこの「不純」をこそ掬い取るのが「現実を描こうとする」ことなのではないですか? と思ってしまいます。

 と、ともかく不満たらたらなわけですが、そこまででなくとも八幡の「本物」を求める態度にもまた僕は不満を覚えました。(一方で涙ぐむ八幡を見て思わずグッときてしまってもいたわけですが……)

 僕は「偽物」が好きです。というより「本物」なんて形而上学的なものは無いと思うし、であれば世界はすべて「偽物」なのだから、世界を愛するためには必然的に「偽物」を愛する必要があります。

 ニーチェ的にいえば「背後世界を語るな」ということです。大地(=現実)を愛せということです。たとえ偽物でも実存に先立つ本質(意味)がなくとも、いまあるその偽物・無意味を愛さなければ現実を愛することもできない。そして実際に愛せなくなったのが八幡とも言える。

 ニーチェを考えると「俺ガイル」はけっこうすっきりと整理できます。あらゆる面で有能さをもつ葉山を「貴族道徳」に位置付けると、そこへの否定神学的なルサンチマンを原動力とする八幡の「本物」はキリスト教に似た「奴隷道徳」だと言えます。八幡の「本物」の問題点はまさにここでしょう。それは葉山「でないもの」というようになにかの否定を通してしか定義できない。それは葉山のような「偽物」を否定しつつも、一方でどうしようもなく依存してもいるわけです。*1

 

自覚的奴隷道徳から決断主義の超克へ

 一方で僕は、そうした奴隷道徳的・ルサンチマン的側面に八幡が(そして作品自体が)無自覚だとは思いません。むしろそうした自己への冷めた目線が自虐的なギャグや雪ノ下の辛辣な(しかし愛のある)言葉として結実している点が、この作品の優れた部分だと僕は思います。

 ルサンチマンであることを前提に「それでも」そこになにかしらの価値を見出そうとする姿勢、「本物」なんて存在しないかもしれない「それでも」本物が欲しいという態度、どれをとっても自覚的です。彼の奴隷道徳は「ニーチェ以前」というよりは「ニーチェ以降」なのでしょう。ニーチェが神を殺したその後に「それでも」神を求める人々と同じように。

  そして八幡と同じく「ニーチェ以降」を生きる僕達にとって、彼の姿勢はそのまま僕達の生活にもある種の示唆を与えうるものだと考えます。それはいま現に僕達をとりまいている決断主義的バトルロワイヤルに対する一つの態度を指し示していると思うわけです。

 

野ブタ。』の後継としての『俺ガイル』

  決断主義的バトルロワイヤルとは宇野常寛ゼロ年代の想像力』に出てくる言葉です。

 それは簡単には「なにが本当に正しいか分からない」状況において「たとえ究極的には無根拠でも、特定の価値を選択する(決断する)」決断主義に世の中が満たされることで生まれる、無根拠な価値観を共有する島宇宙同士のバトルロワイヤル状況のことです。

 身近な例としては、学校など日常の場としての「小さな共同体」におけるキャラクターをめぐる闘争が挙げられます。共同体の中で与えられる役割(=キャラクター)は各々の持ち寄る無根拠な価値観の衝突・拮抗・選択の結果として現れる、ということですね。

 この決断主義やバトルロワイヤルを描いた作品として挙げられるのが『DEATH NOTE』や『コートギアス』更には『野ブタをプロデュース。』などの作品です。

  『DEATH NOTE』の夜神月や『コートギアス』のルルーシュ、『野ブタをプロデュース。』の桐谷修二は「自覚的な」決断主義者として描かれます。クレバーな彼らは他者や自らの決断が「無根拠」であることをある程度知りつつ、知っていることによって他者を操ることができる。彼らが無根拠でありながら決断しうるのは、現在の状況もまた無根拠で、入れ替え可能な相対的なものでしかないことを知っているからでしょう。

 特に『野ブタをプロデュース。』の桐谷修二は、学校という小さな共同体の中におけるキャラクターをめぐる闘争を自覚的にコントロールすることで「いじめられっ子」を「人気者」にまで変えてしまいます。この「いじめられっ子」と「人気者」が入れ替え可能であるという認識こそが、彼らの強みであると言えるでしょう。

 『俺ガイル』の八幡と葉山もまた、自覚的決断主義者です。葉山は「期待に応える」ことで他者の抱く自分のキャラクターをコントロールし、なるべく誰も傷つかない状況を実現することを望む。八幡は八幡で、スクールカーストを相対化し、本来下位存在であるはずの自分にしかできない方法でトラブルを解決し、かつ学校を満たすキャラクター承認の無根拠性・相対性を示し、風刺する。

 そう考えると八幡の言う「偽物」とは決断主義のことだと理解できます。彼がそれを「偽物」だと気付けるのは、その無根拠性・相対性に自覚があるからです。だからこそ自覚的に学校における関係性を崩し、思わぬ解決を与えることができる。葉山が八幡と対等に接することができるのも、葉山を上位に置き八幡を下位に置くスクールカーストを相対化して見ることができるからです。彼らは葉山に体現される貴族道徳さえもまた、無根拠で相対的な決断主義であることをはじめから知っているわけです。

 ドラマ版『野ブタをプロデュース。』の桐谷修二は物語の終盤、学校における人気者という地位を失います。しかし彰と信子という「仲間」の存在に救われ、この「さらに小さく不滅でない」共同体に可能性と希望を見出します。同じく八幡は学校の中の地位のくだらなさを認識しつつ、「奉仕部」という「さらに小さく不滅でない」共同体の中に「本物」という希望の可能性を見出します。

 『俺ガイル』は、決断主義的バトルロワイヤルの超克を目指した『野ブタ。』の後継であると僕は思うわけです。

 

 「本物」の可能性

  僕は「純文学」という言葉が嫌いで、八幡の「本物」もあまり好きになれませんでした。それはありもしない幻想のために今ある現実をないがしろにする、単なる否定神学的なルサンチマン・奴隷道徳に思われてならなかったからです。

 でも、第10話、第11話を見て少し気が変わりました。彼の「本物が欲しい」という告白は、同じく自覚的な決断主義的プレイヤーであった一色いろはをさえ「変え」てしまい、葉山への告白へと導いた。結果は玉砕でしたが、それはやはり「明るい決断」であったと思います。

 コンスタティブには形而上学的で現実の否定であるように見える「本物」の希求も、パフォーマティブにはむしろ現実の人間を「変える」可能性を持つ。それはそもそも雪ノ下雪乃を引き留めるというパフォーマティブな効果を期待して「本物が欲しい」という言葉が発せられたことからも分かります。たとえ本物が無くても漸近すること、そのためには「それでも本物が欲しい」という言葉が必要です。

  僕は相変わらず「本物」が存在するとは思えませんが、その中でも八幡の態度には意味や価値がある、という認識を現在では持っています。葉山が八幡に寄せる期待も、そんなところなのではないでしょうか。

  一方で僕は葉山の選択にも期待しています。

それでも、僕は選ばない。何も。

それが一番いい方法だと信じてる。

  彼は一度やめようとした「みんなの望む葉山隼人」を再び選択し、期待に応え続けて自分では何も選択しない道を選ぶ。それはおそらく碇シンジ的な「誰も傷つけたくないからなにもしない」ひきこもり的態度の決断主義的アップデートです。現代においては「なにもしないひきこもり」さえも一つの決断主義にならざるを得ない。だから「なにもしない」のではなく「望まれる事をする」。現代版ノブレス・オブリージュとも言えるこの道は、八幡の「本物の希求」とはまったく別の道です。

 そして「何も選ばない」葉山と別の道を歩む八幡は今後、必然的に雪ノ下への気持ちと由比ヶ浜への気持ちの「どちらが本物なのか」という選択を迫られることでしょう。これに対してどのような答えを出すのかも見所です。

 八幡の自覚的奴隷道徳と葉山の自覚的貴族道徳、どちらがどのような結末を迎えるのか、期待しながら見ていきたいと思います。

*1:そしてこのことは、ライトノベル「でないもの」、娯楽小説「でないもの」としての定義される場合の純文学にも共有される問題と言えるでしょう。あるいはまた「通俗」的な文学への否定神学としての純文学にも。