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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「キラキラネームは問題ない」と考えてみること

 子供に珍しい名前や通常の読み方とは異なった名前を付けるいわゆるキラキラネームが流行し、問題になっているようですが、僕は問題ないと思います。

 人をその名前で判断するような悪辣な人がいなくなれば。

 無論、実際にはそうした人たちを撲滅することはできない以上、これは机上の空論ということにならざるをえません。

 しかし

 多くのキラキラネーム批判は実はこれと同じ過ちを犯してしまっているのではないか?

 と思うわけです。

 どういうことか?

 

キラキラネーム(とその親)をなくすことはできない

 たしかに人をその名前で判断するような人をこの世からなくすことはできません。

 しかし同様に、キラキラネームやその名付け親をこの世からなくすこともまたできません。

 「キラキラネームを子供に付けるな」と人はいいます。

 でもそれで問題が解決すると考えるのはあまりに楽観的過ぎる。それで解決するなら「キラキラネームで人を判断するな」と言っても解決します。二つは、変わらないわけです。

 実際これまで結構長い間キラキラネーム批判は存続しつづけていますが、その効果はと言えば、なかなかふるわないというのが残念ながら現実のようです。なにしろキラキラネーム批判は今なお存続しつづけているわけですから。本当にキラキラネーム批判に効果があるなら、そのうちキラキラネーム批判は必要なくなって消える、というのは当たり前の帰結ですね。

 一方でキラキラネームを完全に撲滅できなくても、キラキラネーム批判はその減少には一役買っているという可能性も、若干怪しいながらありえます。(キラキラネームの推移などを調べていないので結論はなんとも言えませんが)

 しかしそれとてキラキラネーム批判批判とでも呼ぶべき「キラキラネームで人を判断するな」という言葉はもしかしたらそれと同じくらいの効果は発揮するかもしれません。

 いずれ、どちらが優れているという判断はなかなか難しいわけです。

 

状況を悪化させるキラキラネーム批判とキラキラネーム批判批判

 キラキラネームの問題は端的に言って「キラキラネームのせいで子供がなんらかの被害をこうむる可能性がある」ことです。

 そしてこの「被害」には「原因」と「加害者」という二つの大きな構成要素がある。

 「原因」(=キラキラネーム)に着目するのがキラキラネーム批判、「加害者」(=キラキラネームで人を判断しなんらかの損害を与える人)に着目するのがキラキラネーム批判批判ですね。

 二つの異なる構成要素に着目するこの二つの批判は、ともに似たような問題を抱えています。それはキラキラネームによる被害の減少を目的とするにもかかわらず、状況を悪化させうる側面をともに持っていることです。

 どういうことか?

 キラキラネーム批判が激化すれば、キラキラネーム自体は減るかもしれませんが、キラキラネーム批判を真に受けあるいは曲解した「加害者」は増え、また正当化されて過激化します。特にこどもはこうした加害者側の正当化を行いやすい面がある。こうしてキラキラネームは減ったものの、完全になくすことはできず、残ったキラキラネームの子供は以前にも増して過酷な状況に突き落とされます。

 逆にキラキラネーム批判批判が激化すれば、加害者は減るかもしれませんが、キラキラネーム批判批判を真に受けあるいは曲解する親が増え、キラキラネーム自体は増加します。一方で加害者を完全になくすことはできないわけですから、キラキラネームによる不幸は弱まりながらも残存し、被害者は増え続けます。

 二つの批判の問題点は原因において似通っていますが、それらが生む結果は大きく違います。大まかに言って、キラキラネーム批判は「少人数の大きな不幸」を生むのに対し、キラキラネーム批判批判は「多人数の小さな不幸」を生むと考えられる。どちらが好ましいかは、まぁ好みでしかないでしょうね。

 

オルタナティブあるいは組み合わせ

 こうした比較論が陥りやすいのは単純な二項対立による別の選択肢(オルタナティブ)の忘却、そしてそもそも「二つは対立している」という幻想です。

 まずオルタナティブですが、僕達がキラキラネームに対してとりうる態度はキラキラネーム批判とキラキラネーム批判批判だけではありません。二つの批判のような副作用をもたない別の態度も十分にありえます。

 ただし二つの批判と同じくオルタナティブな選択肢もまた恐らく必然的に抱えるであろう根本的な弱点が一つあります。

 それは「自分の選択でしかない」ことです。

 キラキラネームの抱える問題が社会全体の問題である以上、その対処には社会全体で当たらなければほとんど意味がありません。たとえ自分がキラキラネーム批判やキラキラネーム批判、オルタナティブのいずれかを選んだとしても、他の多くの人々が同じ選択をしなければたいした効果は得られない。しかしどれかの選択肢にみんなが集中して団結するなんてことはまずありえません。とすると、状況は副作用のみを受け取ってただただ悪化するばかりです。それも加速度的に。*1これではなにもやらない方がマシというもの。

 オルタナティブもまた抱えるであろうこうした弱点の原因は「一つを選べば他を選べない」という条件の排他性、とそうであると思い込んでしまう幻想です。

 そう、幻想です。

 実際にはこれらは矛盾しないし、キラキラネーム批判もキラキラネーム批判批判もオルタナティブも全部選べばいいという至極簡単な問題でしかないのです。

 

批判対象と批判者

 オルタナティブはともかく、何故キラキラネーム批判とキラキラネーム批判批判が矛盾しないと言えるのか?

 それはこの二つの批判の「批判対象」が異なるからです。

 簡単にまとめましょう。

 

 批判            批判対象          批判対象を含む集合

 キラキラネーム批判     キラキラネームを付ける親  親

 キラキラネーム批判批判   加害者           すべての人々

 

 一目瞭然ですね。

 キラキラネーム批判は親に向けたものです。逆に言えば親以外の人が気にする必要はない。つまり端的に言ってしまえば、キラキラネーム批判はキラキラネームを持つ人に攻撃する理由にはまったくなりません。なにしろその加害者は「親」ではありませんから。

 またキラキラネーム批判批判は加害者となりうるすべての人に向けたものですが、キラキラネームについてその名付け親が加害者も兼ねるというケースはあまり考えられません。つまりキラキラネーム批判批判は、キラキラネームを付けることを正当化しないし、キラキラネームを付ける理由にはならないということです。

 すこしややこしいかもしれませんが「批判を受ける側」の立場で考えてみればわかりやすいかもしれません。

 あなたが「親」のとき、あなたが気にするべきはキラキラネーム批判です。キラキラネームを付けないようにしましょう。

 あなたが「親」でないとき、あなたが気を付けるべきはキラキラネーム批判批判です、キラキラネームを持つ人を差別しないように心がけましょう。

 たった、これだけです。

 簡単ですね。

 ただし、注意すべき点あります。

 というのはあなたがキラキラネーム批判を行おうとした時、あなたは「親」ではないわけですから、あなたはキラキラネーム批判批判を気にして、キラキラネームを差別しないようにキラキラネーム批判をしなければならない。これは当然で、しかし「面倒臭い」配慮です。こうした配慮を疎かにしたキラキラネーム批判が跋扈し、副作用だけばら撒いているという馬鹿馬鹿しい状況が、今です。

 こうした困難を取り除くためには、単にキラキラネーム批判とキラキラネーム批判批判を同時に選ぶのではなく、二つを組み合わせた新たな批判を予め構築しておく必要があります。

 

ニュー・キラキラネーム批判

 組み合わせて新たに構築する、といっても実際は単純なものです。

 

 親はキラキラネームを付けるな、かつ、キラキラネームを差別するな

 

 単純に、これだけです。

 これだけで「加害者を増やす」というキラキラネーム批判の副作用は解決される。

 一方で気を付けるべきは「差別」という言葉で、この言葉は往々にして「これは差別ではなく区別だ」という言い訳を生んでしまいます。しかも実際にはこの「差別」と「区別」の区別自体、極めて主観的で恣意的なものにならざるをえませんから、放っておくわけにもいかない。

 そこでこう言い換えるべきかもしれません。

 

 親はキラキラネームを付けるな、かつ、キラキラネームと他の名前で扱いを変えるな

 

 すこし回りくどいですし、他にもっとうまい省略の仕方や言い表し方があるかもしれません。そういうものを思い付けば、教えて頂ければ幸いです。

 

 ともかく、これで僕達がそれぞれにやるべきことはハッキリします。

 多くの場合、僕もあなたも「親」という立場ではないでしょうから、僕やあなたが気を付けるべきは「キラキラネームを差別しない」「キラキラネームと他の名前で扱いを変えない」こと。もっと噛み砕いていえば、「キラキラネームは問題ない」と考えてみること、です。

 そして自分の子供に対する「親」の立場に立って初めてキラキラネームを付けないよう心掛ければそれでいい。とても単純な話です。

 

別の問題との関連

 最後にキラキラネームを巡る問題を一般化し、敷衍して他の問題との関連を見て終わりましょう。

 キラキラネームの問題は根本的には「名前に優劣が持ち込まれる」ことだと思います。

 名前に優劣が持ち込まれるからこそ、珍しい名前を付けて個性化を図りたいという欲求に駆られる。そしてキラキラネームの加害者は自分なりの「名前の優劣」をもとにキラキラネームを「劣」とみなし、なにかしらの損害を与えます。

 キラキラネームを付ける親が第一に囚われる「名前の優劣」という構造を抜け出ることができていないという点で、キラキラネームに対する加害者は所詮は同じレベルに留まっていると見ることができる。キラキラネーム批判にしてもそうです。一方でキラキラネーム批判批判は一部そういうものを抜け出ている部分があるのは無視できない。そこは評価すべきだと思います。「名前に優劣など無い」という側面ですね。

 こうした構造を一般化して「~への優劣の持ち込み」「~の優劣に囚われた者の加害」「~の優劣に囚われない批判」を考えてみると、いろいろな問題に当てはまるのが分かります。

 例えば「容姿」例えば「血液型」例えば「性別」例えば「出自」例えば「人種」。

 なにかとなにかの間に「優劣」があるとする観念は、常に人々を虜囚にし、そうすることで差別を生み、不幸を生みます。そして最終的(あるいは理想的)には「そこに優劣など無い」という確認と批判によって差別は後退を迫られる。

 一方で今回の教訓は「そこに優劣など無い」という批判もまた過程においては副作用をもちうるということでしょう。キラキラネーム批判批判は多くの人々が今なお囚われる「名前の優劣」という観念を抜け出てはいるものの、差別をなくす過程では逆の効果も発揮せずにはいられませんでした。同様の副作用を他の「差別に対する批判」も持っているのかもしれません。

 そしてそうした差別批判の副作用を回避するために「差別と差別批判の組み合わせ」を用いるといい場合もある、というのも今回得られた新たな考えかもしれません。

 

*1:なにしろ「加害者を増やす」キラキラネーム批判の副作用と、「原因(キラキラネーム)を増やす」キラキラネーム批判批判の副作用が合わさるわけですから、これは最強です。目も当てられない。そして状況はまさにこの「最悪」と言えるでしょう