読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

批評とは何か?

批評的な その他のお話

 最近、ちょっとしたきっかけからこのような議論を読みました。

 

togetter.com

 

 2012年ですから3年も前ですね。しかし今でも通用する議論でしょう。

 論争における両者の立場をごく簡単にまとめると、音楽批評に関して「歴史や背景や作者の人物像などの周辺情報や資料を探ることを疎かにしてはいけない」という立場と「周辺的な情報や資料を批評するのではなく、音楽そのものを批評するべきだ」という立場だと言えるでしょう。もっと言えば「客観的な情報無しの批評はただの感想だ」という意見と「客観的な情報だけでは批評たりえない」という意見のぶつかりあいだったと言えると思います。

 かなり長いのですが、ずらっと(時に目を滑らせながらではありますが)一気に読んでしまいました。非常に興味深い議論です。

 そしてこれは音楽批評に限った話ではなく、あらゆる批評に共通する議論だとも言えるでしょう。

 

唯物的世界観と現象学のぶつかり合い

 先に僕自身の立場を明らかにしておくと、僕は高橋健太郎氏の意見(「客観的な情報だけでは批評たりえない」)に賛成です。以下それだけ偏った記述になる可能性を容れて(なるべくそういうことは無いようにするつもりですが)お読みください。

 両者の立場は、もっと簡単に言ってしまうと「客観」VS「主観」だと言えると思います。あるいは「理性」VS「感性」あるいは「論理」VS「感覚」。しかし一方でそう簡単に言えない部分もあります。というのは「批評」というものがそもそも「客観」と「主観」、「理性」と「感性」、「論理」と「感覚」の両者を必要とするからです。

 お二人の議論を見ていても「感覚」側がむしろ論理にこだわっていたり、「論理」側がむしろ理念にこだわっていたりと、互いの要素が混じり合いながらぶつかり合っています。

 それだけ見るとただのカオスなのですが、僕はこの論争になにか既視感じみたものを覚えました。

 それが何か考えてみてふと思いついたのは、「唯物論」と「現象学」でした。

 

 歴史や背景や作者の人物像といった客観的な周辺情報から演繹的に音楽に込められた意味を取り出そうとする批評が微熱王子氏の立場だと思います。

 これは科学的な、特に物理学的な世界の眺め方に非常に似通っています。

 実験をし、そこから得られた客観的な情報をもとに別の事実を演繹あるいは推論する。これが基本的な科学の営みです。

 そこでは主観的な情報は重視されません。「長い」という感覚よりも「何センチか?」という客観的な情報が、「重い」という感覚よりも「何グラムか?」という客観的な情報が求められます。

 こうした科学的な世界の捉え方は、実際長い間世界中で(特に先進国で)信頼されてきました。現在も主流であり最も妥当な考えであると言えるでしょう。

 

 ところが哲学の世界ではこうした世界観について結構昔から疑義が唱えられていました。その中でも特に衝撃だった(と僕が考える)のがヒュームの経験論哲学です。

 これは簡単に言えば「因果関係」「因果律」と呼ばれるものの否定です。物事に「因(原因)」と「果(結果)」の関係があるというのは、人間が習慣の中で見出した勝手な思い込みだというのです。

 これは非常にものすごい考えです。例えば僕が誰かに殴られた時、もちろん痛いわけですけど、ヒュームによればこの痛みと殴られたことの間には関係が無いのです。ただ「殴られた」という事実と「痛い」という事実があり、その間の関係を僕が勝手に見出しているだけだというのです。

 そしてこうした考えを推し進めると、科学的なものの見方は幾分怪しくなってきます。ある客観的な実験結果と、どのような他の事実も因果関係にないとすれば? どれだけ実験を行っても何の科学的主張も行えません。りんごの下になにもないことと、りんごが落ちるという結果の間に何の関係もないとすれば、その関係を説明するための「重力」という概念すら用を為さないのです。

 

 この経験論をさらに先鋭化させたものが現象学だと言えると思います。現象学はその名の通りただ現象のみを問題とします。

 例えば僕の目にりんごが見えるとき「りんごが存在する」ことは必ずしも真ではありません。非常に精巧な模型かもしれないし、CGを見ているだけかもしれないし、あるいは僕がりんごを見る夢を見ているだけなのかもしれない。しかしたとえそうでも「僕の目にりんごが見えている」という「現象」が現にあることだけは確かです。そしてこの唯一確かな「現象」だけをもとに考えていこうというのが現象学です。

 デカルトの「我思う、故に我あり」にわりと近いと言えます。デカルトはあらゆるものを疑いに疑い抜いた結果「それでも考えている自分(コギト)だけは疑いようがない」という結論に達しました。現象学ではそこからさらに進んで「考える自分がたとえいなくても、考えたという現象だけは疑いようがない」と結論するわけです。

 

 さて、だいぶ遠回りをしてしまいましたが、この現象学のスローガンである「事象そのものへ」と高橋健太郎氏の「音楽そのもの」を志向するの批評の間には非常に似通ったものがあります。

 のみならず、「私にはこう聞こえた」という「現象」を最重要視する態度や、「面白い」という現象を「面白い理由」より先行させる態度、客観的な情報と音楽そのものとの間に因果性を認めない態度は優れて現象学的です。また「批評対象は、批評という表現行為、あるいは作品の材料でしかありません」という態度も、批評対象と批評という行為の間の隔たりを意識したものだと解釈できる。

 そう考えると、ある種科学的に音楽を(そして批評を)捉えようとする微熱王子氏との対立も必然だと言えます。現象学的な理解にとって、科学的な「因果律を前提とした」演繹・推論は飛躍と映ってしまうのです。その結果、客観的な情報をいくら並べても「私はこう感じた」という主観が無ければ音楽そのものという現象にはいつまでたっても結びつかない。

 一方で微熱王子氏の苛立ちも自然に理解できます。彼の苛立ちはまずなによりも「現実の」音楽批評に対する怒りであり、その科学性の無さに対する怒りだと言えるでしょう。現象学だか何だか知らないが、そんなテツガクを追い求めてばかりだと確かなことをなにも言えないだろう、ということですね。

 かなり大雑把に言えば、高橋健太郎氏は論理性を追求し続けた結果、本当に確実な「現象」にこだわる現象学的な音楽批評に行き着き、微熱王子氏はまずなによりも現実に有用な批評を求め続けた結果、科学的な批評に行き着いた、ということなのだと思います。

 当然、どちらにも固有の美点があり欠点があります。加えて折衷できるような生易しい関係でもない。改めてこの議論は必然だったのだなと思います。

 

批評とは何か?

 決着はつかない、と言いつつも、やはり僕が共感するのは高橋健太郎氏の現象学的な批評です。

 どうしても僕には、科学的な批評の因果関係を前提とする飛躍がひっかかってしまう。客観的な情報をどれだけ積み重ねても、論理的には「音楽のよさ」「こう聞こえた」という主観には到達し得ないのです。そして主観のみを実在とする時、客観的な情報を積み重ねることには「説得」力の向上以外の効果はありません。

 また、議論の中でも触れられていますが、科学的な批評が特定の「正解」である批評の存在を前提としてしまうことはある種当然の帰結です。一度因果律を仮定してしまえば、因と果は無限に連なり、決定論的に「客観」と「正解」は繋がります。あとはその因果の糸を辿るだけです。でも、実際には批評に「正解」など無い。となれば、因果律の仮定もまた勇み足なのです。

 決して「正解」でありえない批評。それでは一体それはなんなのか?

 「間違い」です。

 正解でないのだからそれは当たり前に間違いです。

 そもそも、音楽でも文学でも映画でもアニメでもなんでもいいですが、それらは何かと言えばただの音であり文字であり映像であり絵です。ただの物質やそのパターンに「意味」なんてものを見出すこと自体なにかの「間違い」だし、それで興奮したり感動したりするのもなにかの「間違い」です。

 「二次元への愛」を考えるとそのことはよくわかります。

 二次元の世界の住人である美少女キャラクターは、現実には存在しません。当たり前です。そしてそんなものに興奮したりあまつさえ「愛」を感じるなど、どう考えても「間違い」です。

 でも、それは現にあった。

 現象としてあってしまった。

 現にあった間違い、それが視聴体験であり読書体験であり、またその再表現である「批評」なのだと思います。

 

 批評が間違いでしかありえない以上、その真理性に価値を見出すことなど当然ながらできません。

 つまり批評の価値は、もしそんなものがあるとすれば「正しさ」や「確からしさ」とは別のところから持って来なければならない。

 もっといえば批評そのものが単独で(批評対象を必要とせずに)価値を持っている必要があります。

 それこそが高橋健太郎氏が重視する「批評自体の面白さ」なのだと思います。

 現象学的な批評がそれ自体に面白さを必要とするのは論理的に当然の帰結です。

 批評とは言ってしまえば「面白くて間違ってる批評」か「つまらなくて間違ってる批評」しかないのですから、求めるべきは「面白さ」に決まっています。

 そして面白さとは「現象」です。「この批評面白い」という現象をいかに引き出すか?

 そのために客観的な背景や作者像に関する情報が役に立つのであれば、無論取り上げるべきだと思います。

 批評にとって、すべての王は「正しさ」ではなく、「面白さ」だと、僕は考えています。

 批評とはまずなによりも、音楽を奏で、小説を書き、映画を撮り、アニメを描くのと同様の「創作行為」だと思うのです。