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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

アイドルも芸人もスポーツ選手もアニメキャラも漫画家も作家も人格を持つな

 久々に、どストレートに「オタクの嫌いなところ話」です。

 最近、といわず結構前からアイドル叩き、芸人叩き、漫画家叩き、または漫画の実写化叩きなど、結構ネット上に目立ちますよね。これらが過熱する要因が、なんとなくすこしずつわかりかけてきたので、書いてみたいと思います。

 

オタクにおける「他者」の問題

 今回の話の最初のきっかけとなる気付きを得たのは、最近読んだ浅田彰氏の『構造と力』の読書体験からでした。といってもきっかけとなったのはこの本の主題である構造主義やポスト構造主義とはあまり関係の無い、ほとんど余談のような形でさらりと撫でられた、サルトルの「他者」についての問題の部分です。

 ここにその詳細を書くことはしませんが、この議論はオタクというものを考えるにあたって非常にクリティカルなものだと感じます。

 他者とは、自分と同じ人間でありながら、自分と同じようには心や痛みや感覚を共有できない、不思議な存在です。

 サルトルはこの他者との関わりを「メドゥサ同士の「見るか見られるか」の絡み合い・死闘」と表現します。メドゥサはギリシャ神話に登場する、見た者を石に変えてしまう化物。つまり人間は、同じ人間である他者を対象化してモノ(=石)として見ることで自己の主体性を確認する、メドゥサのような生き物だと言うことができるわけです。そしてこのメドゥサの視線の先にいる他者もまた見る者を石に変えてしまうメドゥサですので、自然と他者との関わりは「石にするか石にされるか」=「見るか見られるか」の死闘という様相を呈すわけです。*1

 すこしわかりにくいですが、オタクについて考えるとこのあたりは幾分すっきりします。というのもオタクこそ、この永遠に終わらない「見るか見られるか」の死闘に疲れ果て、最初から石である石像を一方的に「見る」ことにある意味「逃げた」者たちだからです。

 この現実からの「逃げ」としてオタクを捉える言説には、自分自身がオタクであることもあって以前は反発を覚えていたのですが、今となってはなかなか納得できる部分があります。また、むしろ最初から石を眺めるオタク達より、人を石にする一般人の方が実は残酷な面がある、という解釈もありうるわけで、なかなか捨てたものではないと思います。

 さて、話が逸れましたが、オタクを通過することで「人とモノ」の関係を「人とキャラ」の関係へと置き換えることができ、メドゥサの「石化」能力が他者の「キャラ化」、つまりは他者を「こういうもの」として決めてしまうことやそれに類することであることがわかったかと思います。例えば「草食系男子」や「肉食系女子」といったレッテルを貼り付け、他者の人格を固定して主体性を奪ってしまうことが、その典型として挙げられますね。その帰結として、教室内での「キャラ」がすべてを左右し、また他者によって決められてしまう、「キャラを決めるか決められるか」の死闘=決断主義のバトルロワイヤル・動員ゲームがあるとも言えます。

 

再びメドゥサ化するオタク達

  以前は人を石化することを嫌い、最初から石である石像(キャラ)と戯れていたオタク達ですが、今となっては見る影もありません。いわゆる碇シンジ的な「ひきこもり」から夜神月的な「決断主義」への変貌ですね。

 典型的には「草食系」「肉食系」という一般人世界での石化に負けず劣らず、「意識高い系」「萌え豚」「硬派厨」「懐古厨」「ステマ」などなど、数えきれない強力な石化(キャラ化、レッテル張り)がオタク世界で生成・進化され続けています。

 それまでずっと石と戯れていたオタク達は、さながら鎖に一日中触れることによって鎖を具現化する能力を得たクラピカの如く、いま一度石化に転じればその石化能力は一般人をはるかに凌駕するものとなっていました。

 彼らはいとも容易く他者を石化し、そのことに躊躇いも感じません。それが彼らの日常的な営為であり、疑問を抱くようなことではないのです。

 そして今や「最強のメドゥサの群れ」と化したオタク達という観点から見れば、アイドル批判や芸人批判、漫画家批判や実写化批判もまた容易く読み取ることができます。

 

アイドル ~人間を商品にする~

 それにしてもアイドル=偶像という言葉の関係はなかなかに示唆的です。

 アイドルというのは商品というモノとして対象化された人、ですから、積極的に石にされにメドゥサの群れのど真ん中に飛び込んだ者だと言えるでしょう。そして『構造と力』の中の言葉を使うなら「無償の贈与の一撃」を与えた者を「全員一致で殺すこと」によって、中心0は生成され、一度カオスの地の底まで下がってから天へ急上昇することで象徴秩序を吊り支える「神」あるいは「父」となる。

 要するにアイドルというのは、「恋愛禁止」などの方法で主体性・人格を奪取される事によってモノとなり、鏡となり、基準点となり、神となる。その結果として「排泄をしない」神話として君臨することができる者だと言えます。*2

 そう考えてみると、例えばアイドルを批判しつつ、むしろそうしたアイドルとの距離感からしか自己の位置を測定できないアーティスト達の存在の必然性が説明できます。あるいは特定のアーティストのファンがそれをすることもある。いずれにしろアイドルが批判されるとき、彼ら彼女らは紛れも無く「基準点」として動作しているのであり、皮肉にも、アイドル批判こそがアイドルとしての機能の十全な発揮の典型例とも言えるわけです。

 またアイドルの恋愛スキャンダル批判もまた、アイドルというシステムの肯定であり、人を石化するオタク達のおぞましさの一つの表現であると言えるでしょう。無論、本人に「アイドルオタク」の自覚が無くとも、です。

 ときに「商品なんだから」と言うあからさまに開き直った理由で正当化されるアイドルの恋愛批判は、まさに「商品は商品らしくしろ」「コンテンツらしくしろ」というメドゥサの視線に他ならないわけです。

 

芸人叩きと漫画家叩き

 さて、ところで最近では自分自身をほとんど明確に商品として提出するアイドルのみならず、名目上はその話芸や作品を商品として提供することになっているお笑い芸人や漫画家たちへの批判も過熱しています。

 これはまさに、他者を石化することに慣れたオタク達が、次の獲物を見つけた結果だと言えるでしょう。こうして芸人や漫画家たちの自己主張→人格もまた、アイドル同様に奪取されます。

 記憶に新しいのは「反日」というレッテルを貼られた8.6秒バズーカですが、他にも「嫌なら見るな」と言うことも許されず、徹頭徹尾「商品として行動しろ」と芸人達が迫られる場面はネット上で多くあります。彼らには批判に対して反発を覚えるという極めて基本的な人格さえも、その所有が許されていないわけです。

 同様のことは漫画家に代表される多くのクリエイター達にも起こっていると言えるでしょう。典型的なのはネットに流布する以下の画像です。

 

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  そもそもこの話を「だから好きなように批判しても自由だ」と解釈すること自体、かなり冒涜的だと思いますが、ともかく、実際上この画像は大抵の場合批判の正当化(ときにはただの罵詈雑言の正当化)に使われがちだというのが現実です。残念なことですが。

 クリエーターだって人間です。たとえ正鵠を得た批判であっても腹が立つこともある。それが普通です。的を外した単なる悪口ならなおさら腹が立って当たり前でしょう。しかしそんな普通の人格さえ持つことを許されない。何故か? 彼らもまた彼ら自身という人ではなく、商品として見られているからです。すくなくともそう、オタク達は見て、石化しているからです。

 スポーツ選手に対して常に人格者であることが求められ、「負け」た場合には人格批判さえも許されてしまう現状も、同種のものと言えるでしょう。

 

 実写化 モノがヒトになるとき

  ところで、漫画『DEATH NOTE』の実写ドラマ化がいろんな意味で話題になっています。『ゼロ年代の想像力』読者としては、ゼロ年代の想像力の代表の一つである『DEATH NOTE』と、同じくゼロ年代的な「アイドル」というモチーフの融合からして実はなかなか期待していて、第一話を見た限りでは期待半分残念半分といった感じですが、まぁいいでしょう。

 ともかく実写化です。

 ときに「原作レイプ」という言葉で揶揄されることもある実写化は、公開前から批判が噴出するのが通例です。*3そして僕はそこにオタク達の他者性への恐怖を見る。

 他者とは、ままならぬものです。心の中を覗けず、なにを考えているかもわからない、自分に従わず、むしろこちらの自由を侵害することさえある、「こういう人だ」と一度わかったつもりになっても、ふとした瞬間、見慣れない、得体のしれない側面が覗いてこちらを見ている。そういう不気味な存在です。

 対して、キャラというのは安心です。どういうキャラなのか、お約束的な記号を通してただちに理解することができ、あからさまなまでに反復して確認されることでより一層その行動は予測可能なものになります。*4

  そこで実写化というものを考えてみると、これは単に演じるのがモノからヒトに変わるという意味を超えて、原作読者の「知っている」キャラの「知らない」側面の顕現という意味でも、「ままなる」キャラから「ままならない」設定改変という意味でも「他者の顕現」であると言えます。そしてモノとして石化していたキャラや作品は突如として動き出し、他者となることでヒトとして我々の目の前に現れます。

 このモノ→ヒトへの変化に対する圧倒的な拒否感をオタク達に見るとき、彼らがもはやどうしようもなくメドゥサで、石に囲まれた楽園にほとんど依存していることを見ることができます。

  彼らはもはや万人に要求します。

 「人格を持つな」

 と。

 「俺の言うとおりに動け」

 と。

  彼らは実際にこれまでずっと、最終的には自分の思い通りに動いて自分を満足させてくれる、あるいは自分の意思にそぐわない場合には捨てることも、罵倒することも、殺すことも自由であるような「キャラ」達と戯れ、そのことに慣れ切ってしまったわけですから、これを現実の人間に対して行使するのも当たり前の帰結と言えます。

  彼らは言います。「自分達は虚構と現実の区別くらい付いている」「オタクが現実と虚構を混同していると思う方が現実と虚構を混同している」

 しかし、本当にそうでしょうか?

 現にあるアイドル批判や芸人批判や漫画家批判や実写化批判の、そのどうしようもない他者への恐怖、他者を躊躇い無く石化して人格を奪うおぞましさを見たうえで、本当に彼らが人をモノとして見ていないと言えるのでしょうか?

 

※追記

 ところでこの記事自体もまた明らかにオタクに対するレッテル貼り=石化です。いや、そもそも「オタク」という言葉自体がある種の石化でしょう。

 願わくば、この石化した「オタク」像が思いもよらぬ動きを見せ、僕にとっての他者性を(つまり「オタクはそうじゃない」ってことを)思いがけず目撃できれば、と思います。

 僕も嫌いたくて嫌ってるわけじゃないのです。

*1:この説明は紙幅や分量やわかりやすさのためにある程度正確性が省かれていますので、詳しく知りたい場合は別の資料に当たって頂ければ幸いです。

*2:全然読んでいないのですが、『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48』という例の本も、もしかしたらそういう内容なのかな?とか勝手に想像しています

*3:ところでこの「レイプ」という言葉のあまりに軽々しい使い方について、同様に「レイプファンタジー」という言葉があることを知った時、彼らがどう反応するのか、すこし興味があります。どちらの言葉も僕は好きではありませんが。

*4:その意味で『化物語』に代表される西尾維新のキャラの構築→崩壊(あるいは脱構築)の手法は非常に例外的で、興味があります。