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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

モノでありヒトであるアイドル -そしてXENOGLOSSIAへ-

 先日書いた記事

q9q.hatenablog.com

  のコメントで「アイドルは二次元なのか三次元なのか」という議論についての話を頂きました。

 たしかに、なかなか難しい問題ですよね。キャラとしてのアイドルは二次元と言っていいような気はするけれど、同時に間違いなく三次元でもある。

 先日の記事の文脈にさらに寄せれば「アイドルはモノなのかヒトなのか」というところでしょうか。もっと言えば「アイドルは商品なのか生身の人間なのか」とも言い替えられるかもしれません。

 そしてそう考えてみると「アイドルに対する恋愛感情」が一つの特異点となっていることに気付きます。つまり、商品(=モノ)としてのアイドルの典型的な消費者であったファンが、しかし恋愛感情という場合には生身の人間(=ヒト)として見てしまう、というパラドキシカルな状況がありえるわけです。

 このあたり、面白そうなのでちょっと追ってみましょう。

 

モノとしてのアイドル ヒトとしてのアイドル

 先日の記事では「モノ/ヒト」の区別を「他者性」を用いて定義していました。今回もそこは変わりません。

 モノつまりキャラとは共有され、幾度となく常に反復して確認されるある種の予定調和であり、他者性が極限まで切り落とされた状態です。例えば寒色系の髪色に無表情とくれば「ああ無口系だな」とか「綾波系だな」とかある種の人には瞬時にわかってしまうように、記号化とその反復によって多くの場合「キャラ」は暗黙のうちに了解されます。

 対してヒトとは他者性の極大点あるいは他者性そのものと言えるでしょう。現実の人間というのはそうそう単純な「キャラ」で回収できるものではなく、「この人はこういうキャラ」と思っていてもふとした瞬間にそこからのズレが顔を見せるものです。また、他者の心の中を覗くことはできません。痛みなどの感覚を共有することもできない。その意味で他者つまりヒトとは必然的に、どこか得体の知れない、不気味な側面を持っているものなのです。

 基本的に、アイドルはモノとしての側面を強調することでアイドルたりえます。なにかしらの「キャラ」があり、コミュニケーションのたびにこのキャラに沿った行動をすることで、そのアイドルのキャラが常に再確認される。ときにはキャラと違うこと、行動から他者性が覗くこともありますが、多くの場合は「ギャップ萌え」などの形でむしろキャラ強化の方向に利用され、危うげなく回収されます。

 ところがこうしたキャラの権化とも言えるアイドルのモノ性がとりかえしのつかない危機に陥る場面があります。脱退や解散、それから恋愛です。

 往年のアイドル、キャンディーズの有名な言葉「普通の女の子に戻りたい」からもわかるように、アイドルにとって脱退や解散とは、キャラというヴェールを脱ぎ捨ててモノからヒトに戻ることです。その意味であの言葉は「普通のヒトに戻りたい」と言い換えられるでしょう。

 それはキャラを押し付けられること(メドゥサの視線)の拒否であり、商品ではなくなることです。*1仮にその後、別の形・別のグループでアイドルとして活動することが確定しているようなケースがあったとしても、それでも脱退・解散の場面その瞬間までキャラを維持することはかなり困難であると言えるでしょう。そのとき彼女のアイドルとしての側面は剥がれ落ち、他者性の断面が顔を覗かせることになります。

  そしてもう一つの危機が恋愛です。

 アイドルがアイドルとしてあるためには各々の「キャラ」から逸れず、反復する必要があるわけですが、多くのアイドルのキャラと「恋愛」は相容れません。ましてや恋愛から暗示される「アイドルに愛される他者」の途轍もなくグロテスクな他者性の影は、とても「キャラ」に回収し尽くせるものではない。*2だからこそアイドルは通常、他者性の噴出する「恋愛」を封印して、モノになりきらなければならないわけです。

 基本的には、アイドルはモノでありキャラであり二次元であると言えるでしょう。そしてアイドルの持つヒト性、他者性、三次元性は極限まで削ぎ落とされ、またファンに忌避される傾向にあります。

 

アイドルへの恋愛感情

  しかし、では、アイドルへの恋愛感情はどうなるのでしょうか?

 アイドルに最もそぐわないはずの恋愛が、何故かファンがアイドルに向ける感情の筆頭候補ですらある。これははっきり言って奇妙です。

 と言っても多くの場合、恋愛感情に見えるそれは恋愛とは関係ありません。

 アイドルとは「全員一致で殺すこと」つまり皆が彼女にメドゥサの視線を向け、皆が彼女をモノとして見ることで彼女自身が象徴秩序の中心0――つまり価値の基準点――となったものです。それ以降ファン同士の間での独立した相互評価のコミュニケーションは断ち切られ、価値判断・評価・承認は必ず中心0(つまりアイドル)を経由することを求められます。*3

 つまり多くの場合ファンがアイドルに求めるのは中心0からの承認であり、それがあってファンは自分の価値を再認識することができる。これはアイドルとファンの一対多の関係を前提としており、恋愛とは少し違う話です。(まぁ一対多の恋愛も無いわけではないですが)

 しかし僕は「アイドルファンがアイドルに向ける感情はすべて恋愛とは違う」と言うつもりはありません。一部には恐らく、本当に恋愛感情と呼べるような感情はあるのでしょう。

  そしてその道はアイドルのアイドルらしい消費とはうって変わって、厳しく辛い道のりであることでしょう。そこではもはや、アイドルをヒトつまり他者として見る以上、アイドルの他者性から目を逸らすことはできません。例えば恋愛スキャンダルに関しても「キャラと違うじゃねーか」とか「商品らしくしろ」ということを軽々しく言うより先に、アイドルの恋愛感情の実在性、またはその真剣さに目が行く。そして彼女をモノにできない以上、そうした彼女の他者性、つまり「ままならない」こと、自分ではない誰かを愛してしまうことを、受け入れないわけにはいかないのです。

  壮絶な覚悟ですが、現実の恋愛ではむしろよくあることです。こうした他者の「ままならなさ」を受け入れていくことで、人間は他者を自分と同じ感情も感覚も持った「同じ人間」と認識し、自分と違う感情も感覚も持った「違う人間」と認めて接していくことができるのでしょう。

 

 モノにヒトを見る二次元への愛

  ところでオタクを語るときに欠かせないのがアイドルと、それから二次元です。

  ときにオタク達は、まぎれもなくモノであるはずの二次元の存在に対して恋愛感情を抱いてしまう。

 もちろんその性質自体は、アイドルへの恋愛感情ならぬ恋愛感情と同様、現実の人間にその矛先を向けて他者の人格を否定するまでなる可能性のある、非常に危ういもので、先日の記事にはそのことを書きましたが、同時に可能性を持ってもいます。

 つまり、モノと接することに慣れ過ぎることによってヒトさえもモノと見做して人格を否定するのではなく、モノをヒトとして扱うことに慣れることによってより一層ヒトをヒトとして扱い、その人格を(つまり他者性を)肯定できるようになる。そんな可能性です。

 早い話が他者の人格を尊重し、自分と違う部分も許容できるようになるのではないかと。

 もちろん、現実の目を向ければそういうケースは稀に見えます。むしろ目立つのは人格の否定の方向に行ってしまった人ばかり。

 非常に残念なことですが、しかしそんな現状も、少しずつ変えていくことはできるのではないかと思います。「真の二次元への愛」について認識を広めることで。

 

 他者性と向き合った臨界点 XENOGLOSSIA

  ここで僕が思い出すのが、まさに「アイドル」をその作品名に冠するシリーズ《アイドルマスター》シリーズのアニメ化作品でありながら異端児でもある『アイドルマスター XENOGLOSSIA』です。

 ※以降、『アイドルマスター XENOGLOSSIA』のネタバレを含みます、ご注意ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この作品で「アイドル」とは隕石除去人型重機・iDOLのことを指します。そして原案であるゲーム『THE IDOLM@STER』において(芸能人としての)アイドルとして活躍していた少女達は、iDOLの操縦者――つまり「アイドルマスター」となって隕石を取り除き、世界の危機を救います。

 簡単に言えば、アイドル(美少女キャラ達)とアイドルマスター(ゲームのプレイヤー(の最高位))の関係が逆転しているのです。しかもアイドルプロデュースモノからロボットバトルモノという、今話題になっているドラマ版『DEATH NOTE』が猫の赤ちゃんほど可愛く思えるほどの設定改変の嵐です。

  案の定賛否両論極端に分かれる作品なのですが、もともとアイドルマスター自体のファンではないこともあって僕はこの作品がすごく好きです。とはいえ、結構前の作品なので今思い出してみると記憶がすこし曖昧ですが。

 さて、「アイドル」と「アイドルマスター」の反転に呼応するように、アイドル自身の構造もまたこの作品では反転しています。つまり、ヒトにモノ性を見出す通常のアイドルとは逆に、このアニメではモノであるロボットに感情(=ヒト性)を見出し、最終的には少女達はiDOLと恋愛関係となって結ばれるのです。

 ところでこのモノにヒト性を見出して愛するという主人公・天海 春香たちの態度は、そのまま二次元への愛を実行する二次元オタク達と重なります。普段は二次元美少女として愛される側の彼女らが、二次元への愛の形を自ら実演してみせるという、非常に興味深い構図が形成されているのです。恐らくそれは、二次元への愛の実現可能性への祈りに近い賛歌となってオタク達に希望を与えることでしょう。

 そしてモノをヒトとして見る限り、そこに現れる他者性からもまた逃れることはできません。そもそもXENOGLOSSIAとは「真性異言」の意、正確な定義とは違いますが「妖精や精霊、または超自然的な存在の言葉を理解する巫女を指す」言葉として意図されているようです。つまり春香たちは本来理解できないはずのロボット・iDOLたちの言葉を解する巫女ということになりますが、逆に言えばiDOL達は本来通じ合えないはずの存在(=他者)なのです。

 実際、少女達とiDOLとの心のすれ違いは何度も劇中で繰り返されます。春香と恋仲となったiDOL・インベルが昔の恋人である如月 千早に奪われるという展開もあり、モノでありながら「ままならない」他者性が何度も強調されています。

 主人公達の属する組織モンデンキントと敵対するトゥリアビータに属する(あるいは属することになる)キャラクターたちにおいて、他者性はより一層深刻に現れます。如月 千早は過去にインベルに拒否された過去を持ち、インベルへの執着心と現在の恋人である春香への敵愾心を露わにします。また菊地 真は当初モンデンキントに属するものの「iDOLの心」については否定的で、途中で離反しトゥリアビータに入ることになります。これはモノに宿る他者性(ヒト性)への拒否感と解釈できる。さらにトゥリアビータからスパイとしてモンデンキントに潜り込んでいた萩原 雪歩の千早に対する依存心や、真の三浦 あずさに対する依存心も他者への拒否と、その結果としての特定の人物(というよりも固定されたキャラ)への依存として解釈できるでしょう。

 インベルを春香の元から強引に奪い去った千早は、しかし春香の愛の告白に正気を取り戻したインベルに拒否され、命を賭けてインベルと完全に融合しようとするも、やはり拒絶されて命を落とします。

 そして千早を慕うあまりその死と末期にショックを受ける雪歩は、春香に「千早のインベルに対する感情は、本当に大切な人のことを考えない一方的な思い」と諭され、過ちに気が付きます。

 ここで表れるのはまさに主人公側と敵キャラクター側の他者性に対する態度の違いでしょう。真はモノであるiDOLのヒト性を受け入れずモノとして扱い、千早はインベルに熱烈な恋愛感情を寄せながらも、その実は自分本位の、相手の人格を尊重しない、他者をヒトというよりはモノとして扱ってしまう歪んだ愛です。その結果、恋人を奪われるという強烈な他者性を受け止めきれずに自滅してしまいます。

  物語の最後、春香は世界の危機を救うためにインベルと一緒に自らの命を投げ出す覚悟を決めます。しかしインベルは春香のリボンを片方ほどいて「これだけでいい」と言い、自己犠牲の間際、春香を射出して地球へ返します。

 このときに表れる美しい他者性の側面、他者をモノとして自己に隷属させるのではなく、固定化された他者のイメージに依存して自己の価値認識に利用するのでもなく、ただ自分と異なる相手として他者性を受け止め、わかりえないはずの他者とそれでもわかり合おうとすること、そしてときに自分自身よりも優先してその幸福を願うこと、それこそが、ありうる二次元への愛の真の形なのではないでしょうか?

 

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*1:そう考えると現在の小倉優子をもしアイドルと言いうるなら、かなり特異なアイドルと言えるかもしれません。キャラの拒否そのものが一つのキャラになっている。それはまたアイドルという「キャラの押し付け/押し付けられ」の構造をわかりやすく可視化する、メタ・アイドルと言えるような存在でもあります。

*2:とはいえ、驚くべきことに例外はいます。AKB48柏木由紀との恋愛スキャンダルを巻き起こしたNEWS・手越祐也がまさにその典型です。彼は恋愛スキャンダルすらも回収してしまうような強烈な、そして特異な「キャラ」を持つことによって、ファンをあまり失わずに済んだわけです。すごいですよね。まぁAKB側も指原莉乃峯岸みなみなど、恋愛スキャンダルのキャラへの取り込みを試み、ある程度成功してはいるのですが、さすがに手越し君には敵わないといったところでしょうか。

*3:それをうまく可視化したのがAKB48の総選挙であると言えるでしょう。価値判断の基準点(ある意味では神)にさえなれるからこそ、あれだけのお金を動かすことができるのです。