話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

どうして「又吉」ではダメなのか?

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 お笑い芸人のピース・又吉直樹さんが第153回芥川賞を受賞されました。

 本当に素晴らしいことです。

 ちなみに僕は、実はまだ読んでないのですが、絶対に読もうと決めた所存です。

 

 ところで、どうも「お笑い芸人」の方が芥川賞を受賞することが受け入れられない人がわりにいるようです。「報道ステーション」の古舘伊知郎さんが受賞に違和感があるような事を言ったり。それで批判されたりなどもしている模様。

 普通に考えれば、職業と芥川賞受賞出来るかどうかは関係無いし、もし関係するとしたらそれこそ差別です。でも、何故か受け入れられない、それは何故か?ということを今回は考えてみます。

 

if… 又吉直樹がお笑い芸人でなかったら

 もし又吉さんがお笑い芸人でなかったら、今回の受賞に違和感を唱えている人々は同じように違和感を口にしたでしょうか?

 これは、かなり怪しいのではないかと。例えば古館さんはどうも僕同様にまだ本は読んでいないような口ぶりだし、だとしたら判断基準は本来受賞できるかどうかとは無関係の筈の、お笑い芸人という職業くらいです。これでは、まぁ、なんというか、こう言ってはなんですが、お粗末です。

 又吉さんがお笑い芸人かどうかということだけで批判内容や、批判するかどうかさえ変わるのであれば、その批判に実があるとは言えないでしょう。

 他にも「売れない芸人だったら」という仮定もありえます。「売れない芸人が書いたお笑いに関する情熱の籠った本」。なんとなくそれっぽくありませんか。すこし穿った見方をして、今回の受賞への違和感の原因が「メジャーへの反発」だったとすれば、又吉さんが「売れない芸人」になった途端に態度が180度変わるなんてこともありえそうです。

 

 こうした仮定から見えてくるのは、本来関連しないはずの「芥川賞受賞」と「職業」の間に因果性を見出そうとする意思の存在です。そしてこの「今自分に見えている情報」のみからすべてを判断しようとし、あるいは判断できると考えることこそが「違和感」の原因なのだと思います。

 

記号化された静的な世界

 僕はこれまでの二つの記事で「他者性」について追ってきました。他者性とは自分に理解できない、あるいは自分が覗けない他者の不可解で不気味な側面。決して覗き見ることのできない他者の内心などがあたります。

 人はこうした「理解できない」「見えない」不安とストレスをどうにかするために、「記号」を用いて他者性を(見かけ上)削減します。

 記号とは情報の圧縮・代理です。例えばこの記事全体を「A」と呼ぶ時、これだけの文字数がAというたった一文字に圧縮され、代理されます。僕達はこうした記号化を日常的に使っています。例えば「賢い」という意味を「眼鏡」という記号に代理させたりする。創作物などでよく使われるテクニックですね。それに、そもそも言葉自体が「記号」ですよね。「飛行機」というたった三文字であの大質量かつ複雑なシステムを表現できるし、「ゴジラ」というたった三文字で存在しない仮想のものまで表現できます。

 こうした記号化による情報の圧縮を逆に利用することで、あの恐ろしい他者性を削減することができます。

 例えばスタバでMacを広げる行為を僕が理解できないとしても、そこに「意識高い系」という記号を貼りつけることで僕は理解したつもりになり、安心できます。例えば流行している漫画や映画のどこがいいのか、何故流行っているのか一向に理解できなくとも、「どうせ流行に流されるミーハーが乗ってるだけなんだ」と作品の称賛者に「ミーハー」という記号を貼りつけることで理解したつもりになり、やはり安心できます。

 実際にはそういう風に他者の属性や内心を決めつけてしまうことには大いに問題があるわけですが、記号化に慣れた僕達には特に不自然を感じずに、こうした「不当な情報圧縮」としての記号化が可能なわけです。

 こうして、不安定で未知で恐怖を駆り立てて動的だった他者性に満ちた世界は、ひとつの固まった、静的な世界へと変貌します。そこでは記号が与えられれば直ちにその内容が翻訳され、安全に世界は「決めつけ」られます。

 

記号の傷口から噴出する「他者」

 ところが、当然ながらこうした大雑把な情報の圧縮は、どこかで無理が出てきます。

 かなり簡単な例を言えば、「女は論理的思考ができない」と決めつけていた人が、理路整然と極めて論理的に話す女性に出会った時、などですね。このとき「女」という記号に「論理的でない」という誤った情報まで含めて圧縮させていた彼の世界観は、崩れます。理解したつもりになっていた「女」という対象が、再び理解の範疇から脱し、他者性を再獲得します。

 今回の件も、こうした「記号化」による極めて雑な情報圧縮と、その破綻の末の「他者性」の噴出として理解できます。

 多くの人は無意識に「お笑い芸人」という記号に「低俗」「大衆的」「文学とは関わりの無い」などの、含める必然性の無い意味まで含ませ、圧縮して日常的に使っています。また「芥川賞」あるいは「純文学」という記号の側にも「高尚」「一般人には手の届かない」などといった意味を含ませて圧縮している。そしてこうした場合、「芥川賞を受賞するお笑い芸人」は彼らの記号にどうしても解消できない矛盾を生み出します。

 このとき、彼らが安住していた静的な世界観は崩れ落ち、再び他者性に満ちた奈落へと落とされる。それは静的な世界を愛していた彼らにとって、不安でありストレスであり危機でありもしかしたら侮辱なのです。

 そこで、彼らのうちに反発心が生まれる。再び静的な世界を構築しようとする。このとき、選択肢は二つです。「お笑い芸人」と「芥川賞」という二つの記号の意味内容の矛盾が問題なわけですから、「お笑い芸人」という記号の意味内容に手を加えるか、さもなくば「芥川賞」という記号の意味内容に手を加えるか、です。

 前者は「お笑い芸人」の見直し、と呼べるでしょう。「お笑い芸人」という記号の中から「低俗」「大衆的」「文学とは関わりの無い」という意味を削除し、「芥川賞を取っても不自然でない」ものと再解釈することで矛盾を解消するか、あるいは「又吉直樹」にのみ例外的にそうした見直しを適用するかです。

 後者は「芥川賞」の見損ない、と呼べるでしょう。今回の件よりずっと以前から「芥川賞」の選考に関する様々な批判や流言飛語がありますから、それを利用して「単なる販売戦略」としてしまう。つまり「お笑い芸人」は「実力で選ばれたわけではない」と合理化してしまうわけです。

 僕としては前者の見方の方が好ましいと思います。それは単に心情的に同意できるからではなく、記号化による「決めつけ」の部分的な解消になっているからです。

 「お笑い芸人」の見直しは、これまで「お笑い芸人」という記号に何の必然性も無く混ぜて圧縮していた「低俗」「大衆的」「文学とは関わりの無い」という「決めつけ」を解除することです。これは論理的に言って、よりコンサバティブな、妥当な判断への遷移だと言えます。

 逆に「芥川賞」の見損ないは、「高尚」「一般人には手の届かない」といったやはり必然性の無い「決めつけ」の解除を伴うにしても(あるいは、ときに解除なしに)「単なる販売戦略」「欺瞞」「人気取り」などの新たな「決めつけ」を追加してしまっています。これは単純に論理的に不正な操作と言えるでしょう。

 

動的な世界観「この世はどんなことだって起こる」

 今回の件から得られる教訓は「静的な世界観にはいつか限界が訪れる」ということです。それはひいては「記号化」の限界を示すものでもある。

 世界は、常に動いています。あるときにつじつまの合う記号化も、世界の動きによって通じなくなることもある。そういう限界をまず認知してみるところから始めるべきではないでしょうか?

 そしてそういう場所に立ってみたとき、世界の無限の可能性が見えてきます。

 あらゆる記号は決まった意味をもたず、従って「お笑い芸人」が「芥川賞」を取ることもあれば、「意識高い系」ではなく「意識高い人」が、あるいは「普通の人」が「スタバでMac」することもあるし、「ワンピース」が「ミーハー」でなく通常の判断を持った「普通の人」から正当に「人気を得る」こともある。

 そうして「この世ではどんなことだって起こりうる」と考えてみたとき、そこにはもはや「決めつけ」る余地なんて無いし、なによりそっちの方がずっと楽しそうじゃありませんか?

 それは確かに不可解な他者の他者性をそのまま「わからない」としておくのは不安かもしれません。でもそれは自分にコントロール出来ない代わり、自分には全く思いもよらないような想定外の楽しい「なにか」の入り口でもある。言い換えれば「可能性」です。

 もし世の中がつまらないと感じてしまっているとしたら、それは自分があまりにも多くのことを記号化し、「決めつけ」てしまっていて、そのために残された「可能性」があまりにも少ないからかも知れません。

 又吉さんの芥川賞受賞を「新しいことが起こった!」とワクワクしながら眺めるか、「また「アレ」が起こったよ」とため息を吐きながら眺めるか、ひとつの同じ事象でも、捉え方によって「新しい」か「古い」かさえ入れ替わってしまい、「可能性」が更新されるか、依然変わらずかさえ入れ替わります。

 まず自分の中で「可能性」の幅を広げなければ、「新しいこと」なんて降ってこないのかもしれません。世の中はつまらないままなのかも知れません。

 それよりは、絶えず動き続ける動的な世界をもう一度捉えなおしてみては、いかがでしょうか?