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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

決めつけない難しさ ~あなたは神の存在を信じますか?信じませんか?~

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 神は存在すると思うか、存在しないと思うか。

 基本的に無宗教者は多くても無神論者はそれほど多くない(と感じる)日本でこの質問をすれば、恐らく少なくとも3割ほどの人はこう答えると思います。

 「存在するとも存在しないとも信じない」

 これそのものではないでしょうが、これに似た答えはわりと多いんじゃないでしょうか。

 神が存在するかどうかの議論でも、こうした態度の人は結構出てきます。

 存在する証拠は無いけれど、存在しない証拠だって無い。

 となると神の存在を信じることが科学的でないとしても、存在しないと信じることもまた科学的でないということになります。

 僕個人はと言えば心情的には無神論者に近いのですが、といって証明できるわけではないですから、こうした意見の正しさを認めないわけにはいきません。

 存在すると決めつけるのも、存在しないと決めつけるのも間違っています。

 そして、こうした「決めつけない」態度の人が多いことは、とてもいいことだと思います。

 

 

 が、

 しかし、

 とても残念なのは、こうした態度が他の問題では綻びがちだということです。

 これは単なる予想でしかありませんが、神の存在に対しては「決めつけない」態度を取れている人でも、他の問題では思わず「決めつけ」てしまう人が、わりといるんじゃないでしょうか?

 

他者の内心を決めつけること

 最近とみに感じるのは「他人の内心を決めつける人が多いなぁ」ということです。

 ネットでまとめサイトを見たり、あるいははてなでブクマ欄などを見ていたりすると「こいつはこう思ってるに違いない」「どうせ~したいだけなんだろ?」という書き込みやコメントをよく見かけます。

 彼らは読心能力を持った能力者なんでしょうか? 恐らく違うでしょう。つまり知りもしない他人の内心を自分の想像で「決めつけ」てしまっているわけです。

 例をいくつか出しましょう。

 典型的でよく見るわかりやすい例はなんといっても「意識高い系」です。本当に心からの向上心から出たかもしれない行動を、勝手に自己顕示欲や承認欲求によるものと「決めつけ」てしまっているわけですから、まぁひどいものです。

 それから女性がナンパ被害や痴漢被害についてネット上に書き込むと、「自慢なんだろ」など心ない「決めつけ」をする人もいます。悲しいことです。

 女性側で言うと、すこし前にはてな界隈を席巻していた弱者男性に関する議論で、フェミニスト側から「どうせ甘えさせてくれる女性が欲しいんでしょ」というやはり「決めつけ」が一部ながらありました。そしてそれに反論する側からもフェミニストへの「決めつけ」がやはり一部にいくつかあったように思います。

 すこし前には女優の広瀬すずさんの発言が問題となりましたが、あのときも彼女の知りもしない意図・覗けないはずの内心を勝手に想像して「決めつけ」た人が何人もいました。

 ネット上ですこし変わった話に遭遇するとすぐに「創作だ」と「決めつけ」る人もいますね。この場合「決めつけ」ているのは内心ではありませんが。

 漫画やアニメの感想などでも、「こうすれば視聴者が喜ぶとでも思ってるんだろ」「作者の顔が透けて見える」「媚びている」など、やはり読心能力者でもなければ知りえないはずのことを「決めつけ」て批評した気になっている人は大勢見てきました。

  他にも例を挙げればキリがありません。特に誰かが激しく批判されているとき、必ずと言っていいほどその内心を勝手に想像して「決めつけ」る人が出てきます。

 にもかかわらず、そういう「決めつけ」をする人が、例えば犯罪者がオタク趣味を持っていた時のマスコミによる偏向報道(つまりオタク趣味と犯罪の間の因果関係の「決めつけ」)に憤っていたりするのだから、もう、なんというか、救いようがありません。

 これだけ「決めつけ」る人が多いと、神の存在・非存在について「決めつけない」態度を称揚していた人でさえも、何割かはここに重なってしまっているのではないか、と僕は想像してしまうわけです。

 

わからないから決めつける

  何故こうも「決めつけ」てしまうのでしょうか?

 僕の考えでは、それは「わからない」からです。

 と、これは当たり前ですね。そもそも「わかっている」ことは決めつけるまでもなく「わかって」います。原理的に「わからない」ことでないと「決めつけ」ることもできないのは当たり前のことです。

 しかしそれ以上に、やはり「わからない」からこそ「決めつけ」てしまうのだと思います。

 どういうことか?

 僕が最近なにかにつけ気になっているのが人の「他者性に対する恐怖心」です。自分と異なり、またその心を覗けない不気味な存在である「他者」。この他者の特徴はなんといっても「わからない」ことです。ネットが発達し、いろんなものが見えるようになった今でも、他人の内心だけは覗けない。この「わからない」ことが恐怖を駆り立て、ストレスを生み、それをなんとかしようとして人は「決めつけ」てしまうのではないか、そう僕は考えています。

 今の僕自身でさえ、「決めつけてしまう」人の心理が確固としては掴めず、こうして想像をたくましくしている始末なのです。いまのところはそれをあくまで想像として留めて「決めつけ」ずにいられていると思いますが、それもいつ崩れるかわからない。いや、もしかしたらこれまでの文章で既に何度か「決めつけ」てしまっているかもしれません。

 ともかく、「わからない」ことは恐怖なのです。かなり注意深い人でもこの恐怖に負けていつのまにか「決めつけ」てしまうというのは、ありそうな話です。

 でも、だからといって「仕方無い」で済ましていい話とは僕は思いません。

 なにより誰もがわかっていることではないでしょうか?

 自分の内心が「決めつけ」られることが、どれほどショックで悲しいことで、人の心を傷付けるのか。

 ましてや、普段「神がいると決めつけるのも、いないと決めつけるのも、間違っている」と言っているような人なら、なおさらその姿勢を貫かなければなりません。

 

想像のトレーニング

 ではどうすればいいのか?

  「決めつけ」のエネルギーを逆用してみてはいかがでしょうか?

  「わからない」ことは想像をかきたてます。この想像をたった一つに断定してしまうから「決めつけ」になるのです。「わからない」ことに対する想像を複数立ててみれば? そのどれもが平等にもっともらしいとき、「決めつけ」ようがありません。

 そしてそういう「複数の想像を立てる」トレーニングを普段から積んでおけば、いざというときに「決めつけ」ずにいられると思うのです。

 例を考えてみましょう。

 ニュースを見ます。53歳の男性を24歳の女性が殺害したらしい。まぁなんて無茶をするんだろうとふつふつと加害者に対する怒りが湧いてくるわけですが、ここで思考一端をストップしてみます。本当にこのまま怒っていいだろうか?

 そして想像のフェーズに入ります。もしかしたら男性が女性に乱暴しようとして、正当防衛、あるいは揉み合った結果殺してしまったのかもしれない。もしくは過去に何度も乱暴され、更に脅された末のことなのかも。あるいは、男性がひとりで転んで、その拍子に重い物が彼の頭の上に落ち、死んでしまったのかもしれない。いやまてよ、男性がなにかしらの権力者で、女性の両親を過去に殺したがその事件をもみ消し、女性は司法で裁けない仇を討った、なんてこともあるのでは。いやいやそもそも、冤罪かもしれないぞ。何者かが男性を殺し、その罪を女性になすりつけたのかもしれない。いや、ひょっとしたら、男性は人の姿に化けた妖怪で、女性は妖怪ハンターとしての仕事を全うしただけなのかもしれない!

 と、女性側の肩ばかり持っていたらそれはそれで偏っていて問題ですので、女性側が悪いケースもいろいろ考えて、ともかく「宙づり」の状態を作り出すわけです。

  普段僕達がニュース等から得られる情報では、ほとんどの場合、「どちらが悪いか」なんてことは決められません。僕らが知らないなんらかの事情があるのかもしれないし、実は伝えられた情報すら間違っているかもしれない。そんな状態で「決めつけ」てしまうというのは、どれほど無責任で、ひどい行為でしょうか?

 それを避けるために、関係者それぞれについて「悪いケース」と「悪くないケース」を作っておく。あるいは「誰も悪くないケース」まで考えられるとなおいいでしょう。そうしておけば、「誰が悪いか」なんて簡単に「決めつけ」られなくなるのです。

 

  漫画やアニメやドラマや映画、とにかく様々な創作物において、主役たちが事情を知らない「一般人」に不当に蔑まれ、真実とは異なる認識から責められる展開は、よくあります。

 なんとなしにそのまま通り過ぎてしまいがちなこうした場面は、もしかしたら途轍もなく現実に対して批評性を持っていて、ばかりか、僕達読者・視聴者を毅然と指差してはいないでしょうか?

 もしかしたら僕達は、ときに怒りを以って眺める創作物の中の「事情を知らない癖に主役たちを不当に蔑む一般人」そのものなのではないでしょうか?

 こうした観点を前述の想像のトレーニングと組み合わせたとき、単なる想像の乱立とは違った、異なる想像同士の「横のつながり」、そして横のつながりを想像することで浮かんでくる「横のひろがり」が見えてきます。

 

想像のトレーニング 応用編

  トレーニングに必要なのは、とにかく多くの創作物に触れることです。単に創作物に触れるだけでも想像力の幅は広がり、いろんなパターンを考えられるようになります。

 そして「不当な一般人」に出会った時、その状況を敷衍して様々なケースに平面展開します。(読書中や視聴中にやると邪魔かもしれないので、キリのいい時や読み終わってからで大丈夫です)

  例えば『君に届け』の主人公・黒沼爽子を序盤、その陰気な見た目から「貞子」と避けていたクラスメイト達と自分を重ね合わせてみることで、単純な見た目から人を判断することの理不尽さに気付き、改めることもできるでしょう。そういう意味では少女漫画には「主人公には秘密・事情があって、それを知らない人から蔑まれ・避けられるけど、わかってくれる人がいる」という構図は結構あるような気もします。『俺物語!!』もそうでしょうか。

 また不良っぽい外見で避けられ、周囲に内心を「決めつけ」られるも、実はいい人、というのもよくある展開です。ここからステレオタイプなイメージから人の内心を「決めつけ」てしまうことの危険性を平面展開できます。このすこし変わり種に、巨人化の能力で危険視されていた『進撃の巨人』のエレンがあると言えるかもしれません。

 『バクマン。』の声優恋愛騒動あたりの展開は平面展開する必要がないほど直接的なものでした。「決めつけ」の恐ろしさが光ります。

 そのほかにも、いろいろあると思います。こうして「事情を知らない癖に一言言いたがる一般人」を創作物で目の当たりにするたびに、自分にあてはめて考えていけば、少しずつでも「決めつけ」を解除していくことができるのではないでしょうか?

 むしろ、創作物というのは多かれ少なかれそういうメッセージを持っているものだと思います。そのメッセージを受け取って自分を変えないで、本当に「読んだ」「見た」と言えるのでしょうか?

  創作物の役割って、ひとつにはそういう面があると思うんです。