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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

創作と批評の非対称性 創作者は「おこって」いいのか?

 先日、漫画『進撃の巨人』の実写化映画について超映画批評の前田有一さんが40点という点数を付けたところ、実写版『進撃の巨人』の監督である樋口真嗣さんが自身のフェイスブックに「やったぜ!大先生に褒められたら、どうしようかと思ったが、これなら安心だ。というか、誰だよ、こいつに試写状送ったバカは!」と「友達限定公開」で投稿、その内容が何故か流出して炎上しました。

 まず友達限定で公開した筈が流出してしまったことに今の時代のモラル(特に流出させた人の)を考えさせられますが、それはともかく、この件を見てすぐに僕が思い出したのがこの画像です。

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 「あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」

 には、なりませんでした。

 剣鋭介に批評の権利があっても、実質上ぼく=佐倉十朗(マミの父)=樋口真嗣監督には「おこる権利」の無い今の世の中について、ちょっと考えてみたいと思います。

 

佐倉十朗と樋口真嗣監督の共通性

 まずは上記の画像におけるマミの父・佐倉十朗と樋口監督のどこが同じでどこが違うのか、コマとセリフを追いつつ見てみましょう。比喩や例示にはこうした妥当性の検討が必要不可欠です。

 まずはマミの「だって!! あんなひどい批評をかいたじゃない!」というセリフ。

 この「ひどい批評」という言葉の意味は、批評としてのクオリティがひどい、ではなく、単に「けなした」という行為を指しての「ひどい」だと思われます。となるとこの要件は今回の一件は間違いなく満たしている。仮に「批評としてのクオリティがひどい」という意味であっても、樋口監督が「こいつに試写状送ったバカ」と言う理由として挙げていたこの件を見ると、やはり満たしているような気もしますが……。

 さて、次のコマとその次のコマとその更にコマ「マミ君それはちがうぞ。」「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。」「どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。」「それがいやなら、だれにもみせないことだ。」という十朗のセリフ。

 これについても樋口監督は「ちなみに私が「ブチギレ」たのは http://sthomas.otaden.jp/e218411.html  こういう実績がある、試写を見せる価値がない人に試写状を送ったり、面割れしてるのに試写室に入れちまったマヌケな宣伝担当に、です。 個人の感想はどう受け取られようと仕方がありませんからブチギレません。」と言っているのでやはり同じです。試写を見せないということを「こきおろすのを、さまたげること」「だれにもみせないこと」と解釈する人がいるかもしれませんが、そもそも試写会は選ばれた人にのみ見せるものですし、通常の上映まで「みせない」わけではない。また「こきおろす」ことそのものを妨げているわけではありません。というか、7/31時点では「公開された作品」ですら微妙に無いんですよね。

 いずれにしても樋口監督は「個人の感想」の自由を佐伯十朗と同様に認めています。

 さてこの次のセリフからがこの画像のダイナミックな部分です。マミの「でも、さっきはカンカンにおこってたくせに。」からの「剣鋭介に批評の権利があれば、ぼくにだっておこる権利がある!!」「あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」。

 佐伯十朗も樋口監督も「おこって」います。しかしながら、彼らの「おこった」ポイントは結構違っています。

 この画像以外はいま僕の手元にないのですが、調べてみると*1佐伯十朗の批評へのリアクションは「批評に対する具体的な反論はなく」「雑誌に「くたばれ!!」「だいたいな、おまえなんかにだな、絵がわかってたまるかってんだ!! ヘッポコ評論家め!!」と叫び、こそこそ投げては踏みつける」というもののようです。

 対して樋口監督が「ブチギレ」ているのは、あくまで友達限定の情報の流出と、前田有一氏を試写会に入れた宣伝部に対して。しかものちに、試写状は送られておらず、そもそも出入り禁止だから試写室にも来てない筈とわかり、後者に関しては撤回しています。

 妥当(と作中で描かれていると想定される)批評に対して論理的にではなく単にキレてしまう佐伯十朗と、映画を見ずに批評した(と疑われる)過去がある人の批評に対してあくまで周辺的なことにしかキレない樋口監督。

 実のところ、樋口監督は佐伯十朗と同じどころか、その更に何段か上の大人の態度を取っているのです。

 ちなみに、誰にもみせず自分だけの場所で(といってもマミには見せつつ)批評に対して「おこった」佐伯十朗と、フェイスブックで友達限定で「おこった」樋口監督は、この面ではやはり同じです。そして今回の一件をエスパー魔美で例え直すなら、批評に対しておこって雑誌を踏みつける佐倉十朗の様子をマミが録画し、ネットに流出させた、といったところでしょうか。ひどいよ、マミ。

 

「おこる権利」の無い世界 批評の特別さ

 さて、これまでのところで樋口監督の対応が佐伯十朗にもまして大人な・理性的な対応であることが分かったわけですが、にもかかわらず、樋口監督の言動は叩かれ、炎上してしまいました。

 このことから、現在の世の中では「批評の権利」はあっても「おこる権利」は無いことがわかります。

 批評家側が一方的に権利を行使できる現状、果たして本当に健全でしょうか?

 今回の件に限らず最近顕著に表れているなと思うのが「批評と創作の非対称性」です。批評は(とても批評とは呼べないような感想、あるいは単なる罵倒に至るまで)自由であるにもかかわらず、創作者側はかなりガチガチに行動が制限され、すこしでも外れれば叩かれる。

 「創作者なら作品で返せ」という言葉も同様のドツボにはまっています。本当に創作者の返答が作品上においてしかありえないと思うなら、作品以外の言動を叩く方こそ間違っていると僕は思います。作品内の反論にのみ注視して、それ以外の瑣末な言動は無視してかかるべきです。でなければ、自分自身で「創作者の返答は作品上においてしかありえない」ことを信じられていないのです。

 この創作と批評の間にまたがるどうしようもない非対称性は、多くの人が「お客様」(そしてイコール神様)であることに起因していると思います。たんなる享受者である大半の人々にとって、批評家側が同じ立場であると感じられ、そちらを応援することが自らの利益にも繋がる、という寸法です。

 ですが、これって実は、単に批評家がナメられているだけのような気もします。

 「批評の特別さ」と書きました、が、この「特別さ」は不名誉な特別さです。

  批評も一つの創作です。少なくとも僕はそう考えている。創作一般に対しては「おこる権利」「批評の権利」はあるけれど、その一部である批評という創作に対してだけは「おこる権利」は無い。(下手したら「批評の権利」さえも)

 つまり創作一般の中にあって「批評」だけは特別扱いされているのです。

 さながら大人の中でハンデを課される子供のように。さながらイエスマンに囲まれた裸の王様のように。

 この例えは本当です。本気で言っています。なにしろ単なる「お客様」でしかない多くの人々に批評家は共感され、あまつさえ同一視されているわけですから。一般人には課されない様々な特別の倫理的態度や理想像を半ば強制される他の多くの創作者と比べるとその差は歴然。まさに「子供扱い」です。

 言ってしまえば、批評だけがいまだに創作だと思われてすらいない。創作扱いされていないのです。

 

「おこる権利」のある世界へ

  批評家は「批評する権利」を持っているが、それに対して創作者は「おこる権利」さえ持たない。

 この現状は、あまりに不合理かつ不条理です。

 どうすればいいか?

 どうすれば「おこる権利」を取り戻すことができるのか?

 まず一つは「批評の信頼回復」でしょう。既に追ってきたように、現状の一因は「批評がナメられている」「批評が創作扱いすらされていない」ことにあります。

 このどうしようもない信頼途絶状態をどうにかするのがまず第一でしょう。そのためには素人でも気楽にできる印象批評をまず排すことです。僕が以前ライト批評と呼んだものですね。

 そしてもう一つ、批評家側の努力とともに求められるのが、僕達享受者側の努力です。

 もう一度確認しますが、藤子・F・不二雄氏の例の画像のような状況には、現在なっていません。あの画像は今では単なる嘘です。それはもちろん藤子・F・不二雄氏が悪いのではありません。創作者に「おこる権利」を許さない、我々享受者側の責任です。

 結局のところ、享受者側が変わろうとしなければ何も変わりません。なにも。

 「おこる権利」がある世界にしようと思うとき、最大の障害は間違いなく享受者達でしょう。

 彼らこそ、藤子・F・不二雄氏の例の画像を振りかざしつつ、それを嘘にしてしまっている張本人なのです。

 

 「あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」

 これが本当になる世界に、行ってみたいと思いませんか?