話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

しくじりの効用[前編] ――「誤読」の可能性 『ツルツルちゃん』体験を例に

 東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を読んでからというもの、「批評」というものについて考える機会が日毎に増しているような気がします。

 そんな中で今まさに進行中の批評再生塾についても追ったり追わなかったりしてるわけですが、最新の課題を見たとき驚きました。

 第五回の課題は「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」というもの。そこで出てくるキーワードがタイトルの通り「誤読、誤解、しくじり」と、「音楽」それから「批評」です。「音楽の聴き方に正解/不正解、王道/邪道というものはあるのか」ということも問われている。

 これらキーワードや問題意識が以前書いた記事と結構驚くほど一致していたんですね。

q9q.hatenablog.com

  で、せっかくなので上記の記事とはガラッと話を変えて、全然別の方向からこのテーマについて書いてみたいと思います。

 そしてせっかくにはせっかくを重ね、過去の課題(「ポスト昭和はどこにあるのか」「『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか」「サスペンスフルな批評」)にも一部 部分的に挑戦してみたいと思います。

 

ツルツルちゃんの憂鬱

 僕が批評再生塾について追ったり追わなかったりしているというのは本当です。(別に誰も疑っていないかもしれませんが)その証拠に、僕は第2回の課題(課題としては最初)の「ポスト昭和はどこにあるのか」で第1位を獲得された野村崇明さんの批評『ライトノベルの前衛たち』を読んで、批評内で言及された仙田☨学『ツルツルちゃん』を買って、ちょうど先日読み終わったのです。

 とても面白かった。

  物語の主要な登場人物は3人。主人公の「おれ」=円山映一、幼馴染の先斗町未来、未来の親友の兎実ふら。彼と彼女らが典型的なライトノベル的展開を部分的に演じる一方で、タイトルが暗示するように大筋としてはむしろかなり奇異な物語が進行します。

 物語のはじめ、「おれ」こと円山映一は幼馴染みであり学校一の美少女である先斗町未来を絶対視し、その言葉には絶対服従の姿勢を貫いています。しかしあるきっかけから彼は未来への信仰を解除し、未来人・兎実ふらへの絶対視へと乗り換えます。そしてその信仰もまた一つの事件により閉じられ、やがて主人公は誰を絶対視することもない境地へ辿り着く……

 というのは嘘です。

 『ツルツルちゃん』はそんな話ではありません。全然違います。

 でも僕は、そんな内容を野村崇明さんの批評から読み取り、それで「面白そう!」と思って『ツルツルちゃん』を買って、未来人の登場を今か今かと待ち望みながら読んでいたのです。でも、未来人は出てきませんでした。

 つまり、

 僕は野村崇明さんの批評をまさに「誤読」し、しかもその影響で『ツルツルちゃん』までも半ば「誤解」しながら読んでいたのです。

 いま改めて野村崇明さんの批評を読んでみると、なんで自分がこんな誤解をしたのか、皆目わかりません。登場人物の「未来」という名前からどこかで「未来人」と空目したんでしょうか?しかしその役割が兎実ふらへ振られるのが不可解。しかも信仰対象の転移も起こってません。とにかく奇妙奇天烈な僕の読解力に問題があるのであって、野村崇明さんには何の責任もありません。『僕が悪い』

 でも、案外悪くありませんでした。

 主人公の未来に対する絶対的な従いっぷりを見つつ、「これがこのあと兎実ふらに移るのか~」とか「このふらちゃんが未来人なのか~」なんて思いながら読みつつ、兎実ふらの秘密が徐々に明らかになる過程で「この流れで未来人であることが露見するのかな?」とか思いながら読み進め、しかし待てども待てども未来人であることが露見しないので「あれ?」「もしかしてあの批評の内容覚え間違ってるかな?」「未来人は他のキャラか?」「あ、この羊歯灰汁美がそれか」とターゲットを移し(この羊歯灰汁美というキャラがまたかなり未来人っぽい振舞いをするんです)、それでもやっぱり未来人が出てこないので物語が進めば進むほど「おいおい大丈夫か」という意味のわからない心配をしながら読みました。

 結果、かなり楽しめた。

 要するに僕は、「誤読」によってありもしない設定と実際の小説・物語の進行との宙吊り(=サスペンス)を勝手に生成しながら読んでいたのです。そりゃ面白いはずだ。

 しかも成果はそれだけではありません。「未来人」というありもしないキーワードにひきずられたせいで、僕はこの小説に『涼宮ハルヒの憂鬱』のパロディ的要素があることを発見したのです。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』における未来人とは当然、朝比奈みくるのことです。この朝比奈みくるに対して本作の兎実ふらは、その非常にチャーミングな外見描写を取っても、メイド服というギミックを取っても、主人公からの淡い恋心を取っても、どれも対応しています。そして 兎実ふら-朝比奈みくる という対応関係が見えれば、あとは簡単。学校一の美少女でありながらわがまま三昧で主人公を引っ張り回す先斗町未来は涼宮ハルヒに、眼鏡をかけたクールビューティーですべてを知悉しているかのように振舞う羊歯灰汁美は長門有希に対応することがすぐにわかります。

 というのは、またしても「誤読」なのかもしれません。パロディ対象は『涼宮ハルヒの憂鬱』ではなく『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』かもしれないし、いや、そもそも作者はパロディなどはじめから意図していないかもしれない。しかしそう考えて読み進めると、本作のテーマである「伝わらなさ」「わからなさ」とともに兎実ふらの秘密・醜く不可解な側面が明らかになる過程から、ある一定の批評性を読み取ることができてしまうわけです。

 それはつまり記号の集積としての二次元キャラクターというある意味「わかる」「伝わる」の権化に「わからない」「伝わらない」(=他者性)を導入するということ。それにより自明と思われたキャラクター享受をも揺るがすという狙いです。このあたりのことは僕も似たような事をこの記事この記事に書きました。

 そしてこの解釈は、僭越ながら野村崇明さんの批評にも接続できます。

 「お約束」や「記号」により「わからなさ」(=他者性)が極端に縮減された「まんが・アニメ的なリアリズム」の再セットアップ。つまり「わかる」ための装置(記号のデータベース)を再び「わからなく」してしまうこと。それはとりもなおさず、兎実ふらによる「朝比奈みくる」の再セットアップ、先斗町未来による「涼宮ハルヒ」の再セットアップ、羊歯灰汁美による「長門有希」の再セットアップ、そして「おれ」こと円山映一による「キョン」の再セットアップを意味するのです。

 

 『ツルツルちゃん』のあとがきには、作者の小説恐怖症=伝わらないことに対する恐怖が語られ、うまく伝わることが「脱獄」という表現とともに希望として語られています。

 つまり作者はこの小説を「伝わってほしい」と思いながら書いており、僕のやったような「誤読」や、さらに重ねるように繰り広げた「更なる誤読」としての今回の批評も望んでいないことは明白です。野村崇明さんだって、自分の批評があんな風に読まれるのは本意ではないでしょう。

 でも、

 にもかかわらず、

 僕は誤読をやめません。

 何故ならそっちの方が面白いから、ワクワクする、素晴らしいものが得られるような気がするから。それが批評の持つクリエイティヴだと思うから。

 それに、もしかしたらこうした誤読も許してもらえるかもしれません。なにしろ「伝わってほしい」と思いつつ書かれた小説が、あれほど「わからなさ」を執拗なまでに描き、エンドも「わかった」ハッピーエンドではなかったのですから。登場人物達も「わかりたい」とは思っているものの、逆に「わかってもらいたい」と思ってる様子は無い。とりわけ兎実ふらはわざと撹乱しているようでさえあります。しかも、個人的な感想を言わせて貰えば、最も「わかってほしい」と思っていない(であろう)兎実ふらが一番魅力的に感じられました。その様はまさしく誤解「させる」ことによって七色に変化するクリエイティブな姿で、批評の可能性もこういうところにあるのではないかと思うわけです。

 今回、僕は野村崇明さんの批評に対する「誤読」に端を発して、様々に誤読を重ねるうちにいろいろなことに気付き、楽しみ、さらに誤読を重ねました。こういうのって、素晴らしいと思うんです。

 逆に言えば僕は、楽しくない誤読は絶対にやらないと決めています。作者の意図を勝手に想像してそれを理由にくさす。そんな最低な行為は僕の理想の対極にあります。

  楽しく誤読すること、それが僕にとっての批評です。

 

 

 

 

 

 

 

 

  さて、実は今回の「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」という課題に対するチャレンジはまだ半分です。『ツルツルちゃん』のことを熱く語るうちに導入のつもりで書いた部分が随分長くなってしまいました。

 というわけで、この続きは別の記事に分けて、後編ということで書いてみたいと思います。続きは以下をどうぞ。

 

 次回予告

  火憐だぜ! 月火だよ!

 というわけで、次回のテーマはズバリ「西尾維新」です。

 今回『ツルツルちゃん』を誤解することで得た「キャラへの他者性の導入」と、もう一つ「言葉遊び」を軸に「誤読、誤解、行き違い、失敗、そしてしくじり」について、そして「ポスト昭和」の可能性について書いてみたいと思います。

 よろしければ、どうぞ。

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