話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

しくじりの効用[後編] ――言葉遊び的リアリズムの創作

 ※この記事は前回の記事の続きですが、単独でも読めるようになっております。

 

 さて、前回は批評再生塾の第5回の課題「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」を拝借して、ライトノベル『ツルツルちゃん』と僕の誤読体験をもとにいろいろと論じてみました。

 ただ、僕としては前回の内容で十分だったとは思えません。あくまで実例と、そこからすこし奥へ入ってみたくらいのもの。もうすこし奥へ入ってみたい。そこでまずは前回の結論を受け継ぎましょう。

 僕にとって批評とはクリエイティブなものです。そして僕にとって批評とは「楽しく誤読すること」です。このふたつの繋がりは、僕にとって必然です。クリエイティブであるためには楽しくなければならず、クリエイティブであるためには間違っている必要がある。そう思っているわけです。

 まずはそこのところを追ってみましょう。

 

ツルツルちゃんからザラザラちゃんへ

 ウィトゲンシュタインは言います。

 われわれはツルツルした氷の上に入り込み、摩擦がなく、それゆえある意味で条件は理想的なのだが、まさにそのために歩くことができない。われわれは歩きたいのである。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻れ!

 ここで「ツルツルした氷の上」と表現されているのは彼の前期の著作『論理哲学論考』に代表される純粋に論理的な言説です。対して「ザラザラした大地」と呼ばれるのは中後期にかけて彼の関心を集めた日常言語、つまり僕達が普段話しているような言葉のことですね。

 純粋に論理的に語ろうとすると、なにも語れません。それは『論理哲学論考』で言われたような、論理学や数学の真なる命題はトートロジーである、という意味でもあれば、またウィトゲンシュタインのパラドクスに示されるような「そもそも論理的には意味を決定できない」という意味でもある。

 逆になにかを語れている僕達は、日常的に間違いながら、その摩擦によって意味を生み出し、話している。

 なにかを生むためには(歩くためには)この摩擦が必要なんです。

 ひとつ、「理想的な批評」を考えてみましょう。今回の課題の中にもあった問い「音楽の聴き方に正解/不正解、王道/邪道というものはあるのか」。もちろんこの問いは他の創作分野にも適用可能でしょう。創作物の受け取り方、批評の仕方に「正解」があるすれば? それはどんなものでしょうか? 一つの候補として挙がってくるのが「完全なコピー」です。

 批評が一分の隙もなく作品を反映し、「間違え」ないためには、作品以外のすべての要素を排除する必要があります。例えば「『論理哲学論考』を批評してよ」と言われた時、「はい」と岩波文庫の『論理哲学論考』を手渡してやればいい。

  逆に言えば、批評が「完全なコピー」でなくなるためには、必ず作品以外の要素を含む必要があります。そしてこの「違う部分」(=間違い、誤読)こそがその批評のクリエイティブな部分です。

 これは批評以外の分野でも同じことです。小説は現実と違うからクリエイティブだし、写真を撮ることも映像を撮ることも、そうやって切り取ることによって現実を別様に存在させてしまうからこそクリエイティブだと言えるでしょう。

 

 さて、前置きが長くなりました。

 前回、批評について書きながらその裏に流れていたこの考えを、今回は小説について適用してみたいと思います。そしてそこから「ポスト昭和」の代表格として(驚くべきことに)作家・西尾維新を提案してみたいと思うわけです。

  そこで描かれる 昭和 → ポスト昭和 の変遷はまさに、ツルツル → ザラザラ の変遷と言えるでしょう。

 

 透明なツルツル 不透明なザラザラ

 前回の記事でも取り上げさせて頂いた野村崇明さんの評論、その中では「昭和」としての自然主義的リアリズムと、「昭和と地続き」である「まんが・アニメ的リアリズム」が挙げられていました。

 自然主義的リアリズムでは、文体はなるべく「透明」に、ありのままに(自然に)対象を写し取ることを良しとします。(さながら『論理哲学論考』の写像理論のように)

 対して「まんが・アニメ的リアリズム」は不透明な文体を持ち、その時々によって生成・消滅を繰り返す様々な「お約束」に支配されています。(さながら「言語ゲーム」のように)

 しかし一方で、「まんが・アニメ的リアリズム」はなおも「昭和と地続き」でもある。

 そこでさらにそこから脱却する「ライトノベルの前衛たち」として示されるのが『ツルツルちゃん』に代表される「まんが・アニメ的リアリズム」のリセット・再セットアップでした。

 ところで、まずこの「お約束」のリセット・再セットアップこそがなにを隠そう西尾維新の得意技であることを言っておきたい。

 氏のデビュー作である『クビキリサイクル』やそこから始まる『戯言シリーズ』からして萌えキャラが殺し殺される「お約束」の破壊空間です。更にアニメが非常に人気を博している《物語》シリーズにおいても、第一シーズンにおいて「ツンデレ」「委員長」「百合」「ロリ」「幼馴染み」といった「お約束」をまとった記号が各キャラに配られ、第一シーズンから第二シーズンにかけてこれらの記号の異質性・異形性・畸形性・不気味さが徐々に露見されつつ、メインヒロイン・戦場ヶ原ひたぎに至っては属性の消去=「普通の女」への変化が描かれます。まさに「知っている」はずの記号たちが悉く「知らない」「わからない」他者性の側面を見せる瞬間が描かれているわけです。そこでは明らかに「お約束」がリセットされ、再セットアップが試みられています。

 そして西尾維新作品のもう一つの特徴が「言葉遊び」です。

 『化物語』というタイトルが既に言葉遊びですが(しかも(正式名称かは判然としませんが)海外では「ghostory」あるいは「monstory」と呼ばれているという整いぶり)、もう本当に作品の至るところに散りばめられています。

 こうした言葉遊びは読書をつかのま停滞させ、否が応にも物語の外部、描くものとしての「文」に読者の関心を惹きつけます。それは文体の存在感をなるべく希薄に透明になろうとしていた自然主義的リアリズムとは完全な対極にあり、通常のライトノベルまんが・アニメ的リアリズム)を超えた不透明さを備えていると言えるでしょう。

 そして、この言葉遊びこそ正しく「間違いとしてのクリエイティブ」であると言えます。

 

言葉遊びが開く偶然性の回路

 ところで、いま僕はリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』という本をなかなか苦労しながら読んでいます。まだようやく第1章を終えたあたりですが、ここにもウィトゲンシュタインの名前が出てくる。第1章のタイトルは「言語の偶然性」。たしかにこのタイトルならウィトゲンシュタインが出ないのはありえませんね。

 本書では言語、特に科学や数学の言葉でさえも偶然性を備えないわけにはいかないということが言われています。そして真理を写し取ろうとする哲学、形而上学、科学の試みや「世界とぴったりと合った」言葉への挑戦など、どこかで聞いたような話が展開され、最終的にそれらが失敗に終わるものとして描かれます。

 「真理は発見されるのではなくつくられる」という第1章序文の表現には非常に共感します。批評においても「正解が発見される」のではなく「つくられる」のだと思います。そして小説においてもこの「つくる」を実現するためにはたくさん間違い、ザラザラで、不透明であることを恐れてはなりません。そのザラザラさこそがここに固有のクリエイティブを作るからです。

 自然主義的リアリズムの表現は、ともすれば「これが自然だ」という真理への形而上学的な接近に似た錯誤を起こしかねません。そうではなく、僕達の言語の偶然性を引き受けて、常に意識しつつザラザラに、不透明に描くこと。それが「ポスト昭和」の表現でありリアリズムなのではないでしょうか?

 そしてその典型が「言葉遊び」であると言えます。

 言葉遊びは、単なる偶然です。「化物」と「物語」という単語の末尾と頭が同じ漢字であることなど、自然でもなければ必然でもありえません。単なる偶然です。しかし、日本語は現にそんな姿をしている。

 いわゆる「文学的な」美しさに溢れた表現が日本語――彼女の光を背景にした輝かしい肖像であったとすれば、西尾維新による言葉遊びは彼女の腰にあるハート型のほくろだと言えるでしょう。日本語が偶然に備える、本人でさえ気付かなかったような身体的なチャーミングな特徴。これを指摘して「え!こんなのあったんだ!」とくすくすと笑い合う、そんな光景こそが「言葉遊び」にはふさわしい、そう思います。

 生命線が長かったり、片方だけ奥二重だったり、意外に腹筋が割れていたり、セロリが好きだったり、そうした彼女――日本語が、あるいは言語が持つ必然性の無い偶然的な要素、ザラザラした表面を愛して愛でること。誰も意図しないただの偶然を運命的な徴として解釈し直す遊び*1。「知っている」はずの日本語の「知らなかった」チャーミングな特徴の発見、即ち日本語のリセット&再セットアップ。

 これらを通して見えてくるのは偶然性から想起される「他の可能性」としての他の言語、未だ生まれていない言葉、その平面的に広がる多様性の世界です。

 こうして「他の可能性」への目配せを忘れないことで、自らの必然性に溺れず、自己と他者の偶然的な違いにやさしくなれる。文体がリアリズムに与える影響を考えると、そんな可能性もあるのではないかと思えてきます。

 今回の記事のタイトルには「誕生」ではなく「創作」と書きました。真理が発見されるものではなくつくるものであるように、新たなリアリズムもまた「つくる」=「創作する」ものだという願いを込めて、そしてその地点に立ってみれば「間違い」などもう問題ではありません。いま間違いでも、こじつけてでも実現してしまえば本当になります。語の使用が意味を決めるように。

 結論は、前と同じ、「楽しく間違うこと」それが批評であり言葉遊びであり、批評と小説の新たな可能性ではないでしょうか?

 

 

*1:この面では舞城王太郎九十九十九』におけるガトリングガンのような怒涛の――しかし神々しい――言葉遊びもまた参照されるべきでしょう。