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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

大衆の勝利する時代 ――五輪エンブレムデザイン騒動から考える

 オリンピックの例のエンブレムの件、僕はずっとパクリではないと思っていたわけですが、トートバッグのパンの写真盗用疑惑の件もあって、真実はともかく、少なくとももう挽回は不可能だろうなといった感じです。

 「じゃあエンブレムも結局パクリだったのか……」なんて一瞬考えてしまうわけですが、いや、よく考えると論理的にそうは繋がりません。でも恐らく多くの人は「論理」なんてものに興味は無いだろうし、この一瞬の思いつきは否定される契機を失い、多くの人に信じられて佐野氏を追い詰めることでしょう。

 そして実際のところ、パンの件が発覚しなくても流れは同じだったと思います。いや、もしかしたらパクリ騒動が丸ごと消えても結局佐野氏は批判に追いやられてしまったかもしれない。パクリ騒動の前から評判が悪かったですから。

 現在の世の中というのは、簡単に言えば「大衆の時代」だと思います。権威とか、真理とか、そういったものでなく、大衆の怒りこそが最も力を持つ。

 逆に言えばいまの世の中で「真実」や「論理」といったものは、大衆の有用な道具として使われるうちは良くても、都合が悪ければ簡単に捨てられてしまうでしょう。

 そしてそうした大衆の暴力性は、ときに大衆であるはずの僕達の方にも向かう。なにしろ僕達は大衆であり、また大衆でないのですから。

 

AKB・ラノベ・ワンピース

 僕はこの3つをブログで何度も取り上げています。それは何故かというと僕の嫌いなオタクの「叩き」の対象の代表格だからです。僕は勝手に「三種の神器」と呼んでます。嘘です。

 そしてこの「叩き」というのはやってるときはなかなか爽快そうに見えても、その根源には怒り・苛立ち・不安がある。と僕は見ています。だからこそそうしたオタク達の苛立ちの身振りを分析することで見えてくるものがある、と思う。

 何故苛立つのか? それはどれだけ叩いても叩いても、思い通りになる気配がないからです。ワンピース批判がネットの主流化してから一体どれだけの歳月が経ったか、ちょっと判然としませんが、未だワンピースはジャンプのトップに君臨し続けている。AKBもなかなか衰える気配を見せません。(僕がよく知らないだけで人気は落ちているのかもしれませんが)ラノベは……正直前の二つと比べるとそもそもの商業規模がアレですね。アレです。まぁいいでしょう。

 どうして数が多い(ように見える)ネットの批判にもかかわらず彼らの思い通りにならないのか? それは単に「商業的に成り立っているから」でしょう。どれだけ批判があっても買う人があれば生き残ります。単純なことです。そしてそこでは「真実」や「論理」といったものさえほとんど意味を持ちません。恋愛スキャンダルという「真実」もはねのけて総選挙で第1位になってしまうこともあれば、どれだけ客観的に(あるいは論理的に?)ワンピースの欠点をあげつらっても人気は衰えません。

 多くの人はなにかを批判したり叩くとき、「真実」や「論理」といったものにとりあえず訴えようとします。でも現代ではそれは悪手と言わざるをえない。なぜなら世の中はそんな論理では動いていないのです。世の中のほとんどは大衆が動かしている。それを無視して「真実」や「論理」に訴えても、あまり意味はありません。

 オリンピックエンブレムデザインの「パクリである証拠」はまだ出てきていないことを訴えても、恐らく誰も見向きもしないのと同じように。

 

 簡単に言えば、今の時代というのは「真実」や「論理」ではなく、「好き」と「嫌い」で動いてるのだと思います。

 そして「好き」「嫌い」に「真実」や「論理」のような超越的性格がない以上、それは単純に「数」の問題へと還元されてしまう。

 僕達はときに多数派側の「大衆」に属し、一方で別の場面では「大衆」達の評価や動きに納得できません。そして僕達は「大衆」側でいるときは調子に乗って「真実」や「論理」も無視して好き放題できるけど、ひとたび「大衆」から外れればなにもできない無力感を味わいながら呪詛を唱え続けるしかない。そういうものに、なっているのだと思います。

 

「叩く側」の目指す場所

 では「叩く」彼らの努力は結局無駄なのでしょうか?

 そうです。

 と言いたいところですが(切実に)、そうとも言い切れない。彼らにはまだ希望があるし、彼ら自身そのことに気付いているでしょう。うすうすなのか、ハッキリなのかはわかりませんが。

 AKB叩きやラノベ叩きやワンピース叩きが「ネット上の」ではなく本当の多数派になって、これらコンテンツが「商業的に成り立たない」ようにしてしまえば、彼らの思い通りの結果が得られます。それが希望。それが彼らの目指す場所。

 でもそれは結局、彼らが「大衆」に成り代わる、というだけの話です。

 今度はAKBファンやラノベファンやワンピースファンが少数派になり、生き辛くなるだけ。「大衆>少数派」の構図は結局びくとも揺るぎません。ただ互いのグループの間を人が移動しているだけです。しかもさらに悲観的な事を言えば、常に得をする大衆側に付くのは、移り気で変わりやすい「こうもり」的な人々です。ファンにせよアンチにせよ、こだわる人は時流に強く左右される一方、その「時流」を決める移民・「無党派層」は常に流れに乗って、得する側に付きます。

 「大衆」の代表格とも言えるミーハー層に誰もがいいように左右される時代、それが「大衆の時代」の意味です。

 でも、本当の姿はもっとグロテスクです。なぜなら既に何度かほのめかしているように、完全にミーハーな人なんてありえないからです。ある分野ではミーハーである人も、別の分野ではこだわりを捨てられない。そこに例外は無いでしょう。つまり誰もが一つのある原因――大衆――によって人を苦しめ、また苦しめられているのです。

 

 簡単に言えば、こうです。

 ある人が殴られる。その理不尽を訴えてもなにもならない。腹立ち紛れに別の人を殴る。殴られた人の抗議は届かない。その殴られた人も別の人を殴る。抗議、意味無し。殴る。抵抗、無駄。殴る。殴る。殴る。殴る。

 彼らはある一つの原因によって殴られ、同じ原因で殴ります。要するに、回りまわってるんですね。ある意味では自分自身を殴っているんです。

 あなたのその苦しみは、あなたが別の誰かを苦しめるのとまったく同じ原因で動いている。ある意味では「自分のせい」なんです。なんだか馬鹿馬鹿しいですね。

 ではこうした「自殺」の動きを具体的に見てみましょう。

 

笑う大衆と笑われる大衆

  佐野氏のデザインへの批判に対して以下のような意見がデザイン業界側から提出されました。

togetter.com

  僕は、ははぁ、なるほど、と思ったわけですが、それに対して「オカンにでもわかるようにしなきゃダメでしょ」「それがデザインでしょ」みたいな反論もありました。

 また「デザインの知識があれば(あるいは「センスがあれば」「自分なら」)オリンピックエンブレムの良さが分かる」というデザイン業界側からの意見に対しては「大衆にわかるデザインじゃないと意味がない」というような意見もありました。

 なるほどもっともだ、と思う一方で、すこし既視感を覚えました。なんか見たことある光景だな、と。

 どうもセンスや専門性や知識の深さに訴えるデザイン側の人たちの態度が、ワンピースを好むミーハー層を笑うオタク達に重なって仕方がないのです。同様のことはAKB叩きやラノベ叩きに対しても言えるでしょう。AKB・ラノベ・ワンピースの「三種の神器」を笑う彼らの根拠はセンスや専門性や知識の深さ、といったものにならざるをえない。

 しかし彼らが同様にセンスや専門性や知識の深さを重視するデザイン業界側の肩を持っているかと言えば、かなり怪しい。でもだとしたら、一方でセンスや専門性や知識の深さを根拠に大衆的なカルチャーを馬鹿にしておいて、別の一方では「大衆に分かるものじゃないと」「大衆がわかるものが優れたものだ」なんて言うのは矛盾で、自殺ですよね?

 こういう矛盾が今の世の中にはバンバンあふれています。その根本原因は、世の中が「真実」や「論理」ではなく、「好き」と「嫌い」で動いてるからでしょう。あくまで論理は各々の「好き」「嫌い」に沿う場合にのみ重用されるのだとすれば、矛盾が簡単にボコボコ生まれて当たり前です。

 で、その自分でボコボコ生んでいる矛盾に別の場面では苦しめられる。そこには別の形の、メタ的な「自殺」があります。さらにそこを意識して、なおも自分に「矛盾」を許せば、それは他者の自分の「矛盾」を許す仕草と重なり、更にメタな層での「自殺」となります。そうやって縦に、いろんな意味での「自殺」が積み重なって僕達の今の苦しみがあるわけですね。

 ある意味では僕達は、この苦しみが取り除かれるのを――従って原因が取り除かれるのを――拒否してもいるわけです。なぜなら苦しみの原因が取り除かれたら最後、他人を苦しめることもできなくなってしまうわけですから。

 

 大衆が勝利する時代

 かくして大衆の勝利は常に確約されます。

 彼らには「真実」も「論理」も通用しない。そんな相手に勝つには「数」しかない。そして「数」にものを言わせて勝利を収めた自分の顔を鏡で見たとき、それが紛れもない「大衆」であることに気付くのです。

 常に大衆は勝利し、誰もが「大衆」でありながら、誰も本当の「大衆」にはなれない。

 そのことが意味するのは、「大衆」は勝利し、ために僕達は負け続ける、ということです。

 僕達は不可避的に苦しみ続ける。不可避にしているのは僕達自身です。例えば僕達は佐野氏を叩くのを我慢できない、ために僕達を叩く誰かもそれを我慢できない。本当は僕達は、僕達を叩く人や僕達の好きなものを叩く人たちの気持ちをよく知っているはずなんです。なぜならそれは別の場面の自分だから。

 本当に、馬鹿馬鹿しいなと思います。大衆が勝利する時代は誰もが苦しみ続ける時代です。そのことを知ってもなお、恐らく彼らは苦しみを止められない。なにより嗜虐心によって。

 別の言葉では「正義感」ですが。