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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

反知性主義の功罪とその先

 反知性主義について、こんな記事を読みました。

cruel.hatenablog.com

 非常に共感しました。

 僕はすこし前に反知性主義という言葉に触れてから、その使われ方にずっと違和感を持っていたんですが、その正体がはっきりと名指されたという感覚を覚えた。とてもすっきりしました。

 そもそも言葉の感覚から言って「反」「知性」「主義」というこの組み合わせが単なる「バーカ」になる筈がないんですよ。「反」とは哲学やその他様々な学問分野においても重要な批判的精神、それが「知性」という絶対視されがちな観念に向けられているというだけで、その素晴らしさは既に予告されています*1。更にそれが明確に「主義」として打ち立てられているとすれば、これはもう必見です。どんなものだろう? とワクワクしながら調べれば調べるほど「バーカ」という使われ方しかしていないと知った時の絶望感。「調べれば調べるほど」と書きましたがすこし調べただけで「あ、コレはダメだ」と判断してすぐにやめてしまいました。

 その結果、ホフスタッターまで行き当たらずに、上記の記事を読むまで間違った解釈のまま放っておくことになってしまったわけですが。

 

 それから、最近こんな記事も読みました。

www.lifehack-street.com

 これも非常に共感しました。

 と、ともに。

 再び絶望が襲いました。

 この記事に対する反応に対してです。

 この記事には前述の記事に刺激を受けたということが明記されています。しかしこの記事に対しては「山形氏の定義・解釈と違うではないか」という反応が多くありました。え? と思ってもう一度両方の記事を読んでみても、一体何が違うのかよくわからない。

 この反知性主義の解釈をめぐる第二の違和感と、それから反知性主義の「功罪」について、今回は書いてみたいと思います。

 

陥る二元論 ――反知性主義は「よい」か「わるい」か?

 僕の主な違和感は、小山氏の記事に対して「山形氏の解釈と違う」と言ってる人が、簡単な二元論にハマってしまっているような気がするというものです。

 確かに山形氏の記事は反知性主義という言葉そのものが「バーカ」という単純な罵倒ではなく、その素晴らしさにも目を向けたそれ自体理知的な言葉だったという極めて重要な指摘をしました。その流れで言えば再び反知性主義に疑義を唱えている小山氏の記事は「違う」ようにも見えるのかもしれない。

 しかし一方で山形氏ならびに氏が引用するホフスタッター氏の考えは、一方的に反知性主義を肯定するものではありません。そのことは山形氏の記事にある

それなのに、そのよい衝動から始まった反知性主義は、アメリカの歴史上で常に粗野で偏狭で下品で抑圧的な動きにつながる。マッカーシズムがその典型だ。かれは、清教徒の到来からその歴史をずっと描き出す。エリートが強くなると、反知性の動きが盛り上がり、それが知識人排斥の嵐となって、最低の衆愚がやってくる。

ホフスタッターは、知識人である一方で、この反知性主義の基盤となる発想については大いに認める。しかしそのなれの果ては否定せざるを得ない。

という記述から明らかです。

 今回の記事のタイトルは『反知性主義の功罪』としましたが、なんのことはない、僕ごときが語るまでもなく、山形氏の記事(そして恐らくホフスタッター氏の著作)自体が既にして反知性主義の「功罪」を記したものだったのです。

 してみると、小山氏の記事も見え方が変わってきます。山形氏の記事の時点で反知性主義の「功」のみならず「罪」までも予告されていたとすれば、小山氏が反知性主義の一側面に疑義を唱えたからといって「山形氏と違う」と言うわけにはいきません。

 ではもう少し詳しく見てみましょう。

 

山形氏と小山氏の対応関係

 まずは小山氏の行った、オリンピックエンブレム問題に対して庶民感覚に訴える人々を反知性主義にカテゴライズすることの是非について見てみましょう。

 山形氏の記事にはこんな記述があります。

つまり、浮き世離れしたなまっちろいエリートの机上の空論より、現実に根ざした一般庶民の身体感覚に根ざす直観こそが貴いという考え、それこそが反知性主義の基盤だ。

 まさに、この部分は小山氏のカテゴライズと呼応しています。「浮世離れしたなまっちろいエリートの机上の空論」が今回のデザイン業界側の論理、「現実に根ざした一般庶民の身体感覚に根ざす直観」が佐野氏のエンブレムに対する「デザインとしてよくない」という庶民感覚の視線や「パクリに違いない」という(専門知に根ざさない)ある種の断定に対応すると言えるでしょう。

 つまり少なくとも小山氏のカテゴライズについては問題ないと判断できる。

 

 次に見るのは小山氏の反知性主義に対する疑義の部分です。

アートディレクターの仕事も知らないのに「盗用」というとき、僕はそこに反知性主義の不誠実な態度を見て取る。

反知性主義は、象牙の塔とやゆされるアカデミズムの閉塞や、デザイン業界も含む特定業界内の慣れ合いを打破する可能性を持つ(そしてそれはとても大切な可能性である)一方で、知ることを拒絶することで相手を批判し続けるという、子どもじみた立場に容易に陥ってしまう。

という部分ですね。

 僕はこの部分と山形氏の以下の記述を対応させられると思う。

エリートが強くなると、反知性の動きが盛り上がり、それが知識人排斥の嵐となって、最低の衆愚がやってくる。

または

ホフスタッターは、知識人である一方で、この反知性主義の基盤となる発想については大いに認める。しかしそのなれの果ては否定せざるを得ない。

または

その一方でその正当なはずの立場がなぜ堕落していくのかを、かれは知識人の立場から描き出す。

です。*2

 上記3つの記述はいずれも素晴らしい側面を持つ反知性主義の「罪」の部分、堕落していく部分に関する言及です。(3つめの引用の「その正当なはずの立場」は反知性主義のことですね)

 この「最低の衆愚」「なれの果て」「堕落」の内容(あるいはその一部)が小山氏の言う「知ることを拒絶することで相手を批判し続けるという、子どもじみた」「不誠実な」態度と考えると、非常にすっきりと解釈できます。

 加えて、よくよく見ると小山氏はすべての反知性主義を否定しているわけではありません。それは「反知性主義は、(中略)打破する可能性を持つ(そしてそれはとても大切な可能性である)」という記述からも明らかだし、また「子どもじみた立場に容易に陥ってしまう」という言い方からは、逆に言えば「陥らないこともありうる」という意味も同時に読み取ることができる。「アートディレクターの仕事も知らないのに「盗用」というとき、僕はそこに反知性主義の不誠実な態度を見て取る」も同じですね。「アートディレクターの仕事も知らないのに「盗用」というとき、」と場面を限定して、対象を反知性主義の「一部」に限定しているわけです。

 こうして山形氏、小山氏、ホフスタッター氏の三者の間で共通していると思しき認識が見えてきます。

 それは「反知性主義はその基盤は素晴らしいが、容易に不誠実な態度に堕落しうる」ということです。

 では、どうすればいいか?

 

反知性主義「で」戦うために

そしてそれを受けて最後の章がやってくる。普通の本であれば、この結論の最終章は「反知性主義と戦うには」みたいな内容になるだろう。だが驚くべきことに、この結論には「反知性主義」ということばはほとんど出てこない。むしろそこでの主眼(そして章題)は知識人だ。

 上記は山形氏の記事の中のホフスタッターの著作に対する説明です。

 しかし僕自身はホフスタッターのように(あるいは山形氏や小山氏のように)知識人ではありません。だから僕は「反知性主義と戦うには」を書かなかったホフスタッターと同じように、しかし別のやり方で、すなわち「反知性主義「で」戦うには」を探ってみたい。

 そこで再び手掛かりとなるのが小山氏の記事です。

反知性主義者は、知らないことによって、その立場を確保する。アートディレクターの実際の仕事内容など、知ってはいけないのだ。

 それが素晴らしいはずの反知性主義の悪しき側面。だとすれば、

 知ろうとすればよいのでは?

 そしてこのことは序盤の議論まで僕を立ち返らせます。

 「反」「知性」「主義」とは「知性を批判する主義」としてはじめ僕の期待に表れました。それはつまり「知性」(あるいは「理性」)という極めて否定しがたい、人間の根本とさえ言いうる観念に対してさえ批判をしうる、極めてラディカルな態度への期待です。しかし、実際の反知性主義は「知性というものを知りつくすことによって」批判するのではなく「知性というものをなるべく知らないようにして」批判するというラディカルでもなんでもない、ありふれた庶民感覚に堕して「しまいがち」だということがわかった。

 だったら、もう目指すべき「期待」は見えています。

 知性を知ろうとすること、知性を知性すること、そのことによって知性自体を知性的に批判しうること。

 そうした試みは、実のところそれほど新しいことではありません。

 例えば構造主義の父とも呼ばれるレヴィ=ストロースは、「未開」とされる民族の親族構造や神話構造の研究から当時の最先端の数学との親縁性を見つけ、「歴史の進歩に従って理性的に進化していく」という当時の理性像(従って知性像)を覆しました。

 そして新たな知性として台頭した構造主義もまた、ポスト構造主義によってその共時的構造像を批判され、覆された。

 というようなことは、恐らくどのような学問分野でも定期的に行われていることでしょう。いわば、現在生き残っている「知性」は、恐らくそのほとんどが出自としては「反知性」であり、またそういうスピリットを宿している。(そして恐らくそれは「デザイン」も例外ではない)

 であれば、そうした反知性性を宿した知性をただ敵として批判するのではなく、リスペクトしつつ批判することそれが必要なのではないか? 「知性」を引用し、引用によって自壊させることそれが本当の反知性主義ではないか? 

 

 山形氏によれば、ホフスタッター氏は反知性主義という功も罪もあるものに対して「知識人として」どうすればいいか、ということを考えた。しかし「反知性主義一辺倒でいいのかとも思う」と疑義を唱える小山氏の言うように、我々「非知識人」もまた、なにかしらの研鑽が必要なのではないか? 知識人に努力を押し付けて任せるのではなく「非知識人として」なにをすればいいのか考えること、それが反知性主義の「その先」に繋がるのではないかと、思うわけです。

 

 

 

余談

 そうそう、というとわざとらしいですが、小山氏の取り上げた「庶民感覚に依拠してオリンピックエンブレムを批判すること」については僕も以前にすこしだけ書きました。

(付録) オリンピックエンブレムについて徒然なるままに - 話しかけないでください。オタクのことが嫌いですのTopic6.で主にそのことについて触れているわけですが、ちょっと読み取りにくいのでもう一度書きなおしてみます。

 といっても、簡単なことです。

 「オリンピックエンブレムは庶民感覚でも「良い」と言えるものでなければならない」と考えている方々に聞いてみたい、「ではオリンピック開会式・閉会式に出演するアーティストはどうですか?」と。

 すこし前、秋元康氏が2020年東京オリンピックパラリンピック組織委員会理事となったとき、この出演アーティストにAKB48が起用されるのではないかということが話題となりました。そしてそのことに懸念を表明する人もネット上では多く見られた。

 ではAKB48は「庶民感覚から言って「良い」と言えるものではない」と果たして言えるのか? とすればその条件は? その条件と同じものを今回のエンブレムにもあてはめられますか?

 またAKB48の出演を懸念する人々が代案として提出した「演歌」や「雅楽」は、この観点から言えば「論外」です。とても「庶民感覚」で評価されているとは言えない。

 またこの話はオリンピックに限った話でもない。「庶民感覚で「良い」ものこそが優れている」とするなら、漫画『ワンピース』はどうでしょうか? 『進撃の巨人』は?

 再び音楽業界に立ち返ってみても、ネット上にはオリコンランキングの現状を憂う声は大きい。

 はっきり言ってしまえば、彼らは「大衆」など信じてはいないのです。もちろん「庶民」も。

 そもそもネットというのはそういう「流行」や「人気のあるもの」「大衆的なもの」に対して否定的な人が多いという伝統があります。2ちゃんねるなどでは特に顕著ですね。そういう人が、あるときふと、「庶民感覚」などというものを持ち出す。その違和感。

 彼らは果たして「庶民」なんでしょうか? それとも「スノッブ」なのでしょうか?*3

 あるいはどっちつかずの「こうもり」?

 知性的な反知性主義はいいですが、こういう単なるダブルスタンダードは、なるべく避けたいものですね。

*1:「脱」「構築」と似た構造ですね

*2:上記3つの引用に関しては僕の方で太字に強調させて頂いています。すみません。

*3:別の言い方をすれば、「一般人」なんでしょうか? 「オタク」なんでしょうか?