話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「知性主義」などというものはない

 前回の記事のほぼ続きです。

 先日、記事の中でとり上げました小山龍介さんが再び(実際には4記事目ですが)反知性主義とオリンピックエンブレム問題についての記事を上げられました。

www.lifehack-street.com

 そして今回もやはり納得的な内容だった。

 しかしまたしても、僕は絶望することになる。

 前回の記事で僕が書いたのは、「反知性主義」というものが単純な「よい」「わるい」の二元論に絡め取られて、山形氏の秀逸な解説にもかかわらずうまく理解されていない、ということでした。

 そして今回小山氏の記事への反応から明らかになったのは、反知性主義のみならず「知性主義」もまた誤解されたまま人口を膾炙している、という悲しい事実でした。

 

反知性主義」の反対は?

 多くある誤解は、「知性主義とは知性ある側の立場のことだ」「知性ある側の知性尊重の姿勢だ」というものです。少なくとも反知性主義の対立概念として知性主義なるものを考えるとき、これは明らかに誤解です。

 そもそも、反対の反対はなんでしょうか?

 賛成です。

 また反知性主義は英語ではAnti-intellectualismと言うようですね。つまり「反」=「アンチ」です。ではアンチの反対は?

 そうです、信者です。

 簡単なことなんです、知性主義とは「知性があること」を意味しません。「知性」なるものに対して賛成し、あるいは信じる態度(主義)のことを言うのです。

 「知性主義」と言うから分かりにくいのであって、「賛知性主義」あるいは「信知性主義」と言った方がよっぽどわかりやすいでしょう。タイトルはそういう意味です。確かに「反知性主義」の対立概念として「知性主義」という言葉を定義するのは可能ですが、こんなわかりにくい言葉は捨ててしまった方が議論も混乱せずに済むでしょう。

 知性主義は「賛知性主義」あるいは「信知性主義」であるからして、当人の知性の有無は関係がありません。知性の無い馬鹿だって知性主義者となることができます。同様に、反知性主義もまた当人の知性の有無には関係しません。知性を多分に有していても反知性主義者になることはできる。(思えば、前回の記事はまさに「知性を持った反知性主義者」あるいは「知性を持とうとする反知性主義者」になろう、ということを「反知性主義のその先」として描いたものでした。)

 従って、相手のことを反知性主義と呼ぶことは何ら相手を侮辱するものではありません。また相手のことを知性主義と呼ぶことも相手を称賛することにはなりません。それはたんに、「知性」というものに対する向かい方、態度に対する言及に過ぎないのです。

 以上のことは、「反知性主義は単なる「バーカ」ではない」という山形氏の記事の時点で明らかなことでした。そして今回の小山氏の記事を読めば、少なくとも彼に限っては正しく解釈なさっていたことがわかります。

(こういう専門知識への信頼、信仰みたいなものがここでいう知性主義。「頭がいい」という意味じゃないです。)

 しかし、この正確な解釈に対するあの反応。

 いかに山形氏のあの素晴らしい記事が正しく読まれなかったか、今更になって分かります。

 

権威主義と知性主義の違いは?

  小山氏の記事にはこのような記述もありました。

扇のオリンピックロゴが評判になっているけれど、専門家から見れば「汚い」となる。中島英樹さんが言うのだから、そうだと思う(知性主義)。

 これは僕から言わせれば、先に引用した文より更に核心を突いています。この文を読めばたちどころに(言い方は悪いですが)馬鹿でも知性主義者になれることが理解できる。誤解によって、ある種神聖視されがちな「知性主義」という言葉を脱神聖化し、元の意味に立ち戻させる、極めて実質的な意味を持っているわけです。

 にもかかわらず、

 件の記事に反応する方々はむしろこの文に食いついて、反駁するのです。

 その反応は以下のようなものでした。

知性主義と反知性主義をどう橋渡しするかーオリンピックのエンブレム問題(4) - LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

中島英樹さんが言うのだから、そうだと思う(知性主義)”ここは笑うところなんでしょうか?

2015/08/25 13:50

b.hatena.ne.jp

知性主義と反知性主義をどう橋渡しするかーオリンピックのエンブレム問題(4) - LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

中島英樹さんが言うのだから、そうだと思う(知性主義)。』いや権威主義なのでは

2015/08/25 11:56

b.hatena.ne.jp

 

 彼らははっきり言って、知性主義というものを過大評価してしまっているのです。

 知性主義はそんな大層なものではありません。そしてそれは、権威主義「だから」知性主義ではない、と言えるようなものでもありません。

 知性主義と権威主義は重なりうるし、実際はほとんど変わらないとさえ言えるでしょう。

 そもそも彼らは知性主義のみならず、「知性」という言葉も過大評価してしまっているのです。

知性主義と反知性主義をどう橋渡しするかーオリンピックのエンブレム問題(4) - LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

ロゴの類似性はどうでもいいと思ってるけど、デザイナー側からの説明にその肝心の「知性」が感じられないことが、「権威主義」「内輪受け」呼ばわりされている原因の一つだと思う。

2015/08/25 13:45

b.hatena.ne.jp

 彼らは「知性」なるものが「権威」や「内輪受け」といった「くだらない」ものとは別個に、確固として存在する(あるいは存在するべきだ)ということを疑いません。*1しかし「知性」と「権威」の違いとはなんでしょうか? それは単に、ある権威を自分が「知性」だと思うか思わないか、あるいはなんらかの権威によって(!)オフィシャルに「知性」であると認められたか認められないか、の違いでしかありません。

 id:whkrさんの上記のコメントの問題点はそれだけではありません。彼は(そして彼らは)またしても「説明」を求めている。いや、もっと言ってしまえば「今の説明では足りない」と言っているのです。更に言えば「自分を納得させなければ「説明」とは認めない」と言っているのです。なにか見覚えがありませんか? そう、これは「庶民感覚」の再来なんですね。「庶民に分かる」説明こそが正当な説明であって、それ以外は説明とは認められないわけです。

今回びっくりするのが、「庶民感覚」をいう人たちの自分のセンスに対する絶大なる自信である。

 彼らは「説明は十分に為されているが、自分の理解力の欠如のために、自分は理解できないだけなのだ」とは考えません。「デザイナー側の説明に「知性」はあるが、自分の理解力不足により、それを感じることができない」とも考えません。彼らはもし相手に「知性」がありさえすれば、たちどころに自分はそれを感じられる筈だ、と信じて疑わないし、その庶民的理解力に絶大の信頼をおいているのです。

 

  現実は、彼らの思うよりもう少し複雑です。「十分な説明」にもかかわらず自分には理解できないことはよくあるし、自分にはとても「知性」とは思えない、しかしなにかしらを鋭く指摘するものもあります。当たり前ですが、僕やあなたの理解の範疇に、「世界」や「現実」といったものが予めすっぽり収まっているわけはないのです。自分には理解できないものはいくらでもある。

  そのことを、まず理解する必要があるのではないでしょうか? 自分のちっぽけさを自覚すること。自分にはその素晴らしさの理解できない、しかし尊いものが確かに存在すると知ること。

 その上では、例えば「センス」なんて言葉は極めて恐ろしい妖刀として映ることでしょう。一体、誰のセンスが誰のセンスより勝っていると言うつもりなのですか? 僕にはとても、こんな恐ろしい言葉は使えません。

  しかしそのうえで、「あえて」知性を否定すること、尊い「とされている」ものを「あえて」否定すること、そこからようやく反知性主義がはじまるのだと思います。そのために必要なのは「知ろうとすること」です。

  「無知」を武器にしてできることなんて、誰かを傷付けることくらいしかないと思いますよ。

*1:要するに彼らはこの点で優れて知性主義者(=賛知性主義者、信知性主義者)なのです