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オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

「偽善」は何故嫌われるか? ~やさしさポトラッチを回そう~

 突然ですが「偽善」って嫌われますよね。

 「やらない善よりやる偽善」なんて言葉もありますけど、少なくともその言葉を言わなければならない場面って「偽善」が叩かれてる時ですから、まだまだ「偽善」って嫌われてるんだろうなというのが僕の感覚です。

 すこし前に24時間テレビがありましたけど、あの番組も毎回「偽善」として叩くのがネット上の恒例みたいになってる感じがありますね。今年もそういう反応だったのかは知りませんが。

 ともかく、「偽善」は嫌われるわけです。

 では、何故か?

 

そもそも「善」が嫌われる

 そもそも「偽善」とはなんでしょうか?

 偽りの善? しかしなにをもって「偽り」とするのでしょう? まごころから出た行いでないもの? しかしどうやって「まごころ」を知るのでしょう?

 こうして考えてみるとすぐに分かるのは、「偽善」とは推測に過ぎないということです。他人の心は読めませんから、「こうに違いない」と決めつけることなしに「偽善」認定することはできません。それは本人であってさえそうでしょう。自分の心を知ってる人なんていないのです。

 すこし話が逸れますが、人の心はわからない、まさにそのことが人々に「偽善」を推測させてしまう要因であると言えます。「わからない」という不安定な状態は不安ですから、その不気味な他者性を縮減させるために「決めつける」ことが必要になるわけです。そして他者性を縮減するなら、より自分に理解しやすい理由・物語の方がいい。そうなると「偽善」は格好の「理解しやすい物語」なんですね。

 閑話休題

 「偽善」が推測でしかないとすれば、「偽善」を嫌うことは即ち「善」を嫌うことです。実際いろいろな「善い事」はさまざまな理由を付けられて「偽善」にされてしまいがちです。

 では何故「善」は嫌われるのでしょうか?

 

贈り物としての善とハウ

  僕はとかく読んだ本に影響されやすい人間なんですが、すこし前に呼んだ浅田彰『構造と力』もその例外ではなく、この本を読んで得た知識をもとに最近いろんなことを考えています。実は今回もその一つです。

 『構造と力』はざっくり言うと構造主義とポスト構造主義に関する本です。まず構造主義を説明し、その欠陥を指摘するものとしてポスト構造主義が紹介され、さらにその先が夢想されます。言ってしまえば構造主義かませ犬にされてしまっているわけですが、それでも構造主義に関する説明も非常に面白くて有用です。

 構造主義の祖とされるレヴィ=ストロースに影響を与えたとされるのがマルセル・モースの『贈与論』です。

 モースは(のちのレヴィ=ストロースと同じく)「未開」とされる民族を研究しました。彼はこうした民族の社会の中にある「ポトラッチ」や「クラ交易」や「タオンガ」といった贈与の規則、交換の規則を観察し、分析しました。

 ポトラッチとは北アメリカの先住民族における祭りの儀式で、部族間や部族内で贈り物をしたり交換をしたり、あるいは自分の財産を破壊したりします。この相手に贈る物や破壊する財産の規模によって、その部族の、あるいは部族内での地位が決まる。そのため皆が競って自分の持つ財産を他者に贈ったり、破壊する、というもののようです。

 クラ交易はパプアニューギニアの島々を結ぶ交易規則で、ムワリと呼ばれる白い貝の腕輪とソウラヴァと呼ばれる赤い貝の首飾の二つの財を、それぞれ逆回りに交換して回します。まずクラパートナーの島に(命を賭けた航海を超えて)出向き、贈り物をすると、相手は自分の持ってるクラ財のうちどれかを必ず渡さなければなりません。そしてこのクラ財は数々の交換に伴う来訪歴により、非常に価値あるもの、持つ者に名誉を与えるものとされます。しかしもちろん他のクラパートナーから贈り物を受け取ったら(拒否は許されません)手放さなければならないものです。

 タオンガは贈り物に宿る霊的な力・ハウによって特徴付けられます。タオンガというのは他者に贈り・贈られる品物のことですが、誰か(A)が私(B)に贈ったタオンガを別の人(C)に贈った時、返礼として受け取った別のタオンガにはハウが宿ります。この「別のタオンガ」は最初に贈った人(A)からの間接的な贈り物であるとされ、このタオンガをいつまでも手元に置いておくと何か悪い事が起こり、最悪の場合死に至るとされます。

 いずれの例においても彼らの間には贈り物や交換にまつわる義務や規則や認識が共有され、それによって無償の行為であるはずの「贈与」が、相手に返礼を強いる強力な力を持つものとなっていることがわかります。そしてこうした贈与にまつわる「返礼を強いる力」もっと言ってしまえば「負債を背負わせる」力は「未開」の民族に限った話ではありません。日本でも息づいていると言えるし、現代にもその例は見つけられます。例えば「既読無視」に対する怒りは、メッセージという贈り物に対して返礼をしないことに対する怒りと解釈できるし、またメッセージを受け取った側の「返信をしなければ」という強迫観念はまさにハウ的な力だと言えます。こうしたハウ的な力こそがコミュニケーションという言葉の交換を成立させる原動力であり、他の交換でも同じことが言えます。

 では、この文脈で「善」を捉えてみてはいかがでしょうか?

 「善」はまさに無償の行為です。しかしその実、受けた側が「返礼を強いる」「負債を背負わせる」ハウの力を感じるとしたら? この「負債」を背負わされたことに憎悪を覚えるのはある程度理解できます。ではこうした「善への憎悪」を「善」を受け取った当人ではない他人の場合にもあてはめることはできるでしょうか? できる、と僕は考えます。

 誰かの善行を聞いたとき、それを認識することで僕の「世界」はその分豊かになる。つまり善行を聞くだけで、僕は「善」を行った人から何かを受け取っているのです。これは誰かの善行を聞いたときに、何故か自分が同様に善良であることを「急かされている」ように感じるあの感覚の説明と言えるでしょう。

 つまり「善」の行為とその告白には、他の誰かに「善」に対する負債を負わせるハウの力が宿っていると言えるのです。*1

 

攻撃としての善

 こうして「何故「善(偽善)」が嫌われるか?」についての一つの説明を加えることができたわけですが、これを利用して、「善」を攻撃として用いることができます。

 つまり「善」を行い、そのことをネットでもなんでもいいから公開する。するとそれを見た者・聞いた者に「善をしなければ」というハウを背負わすことができる。ひいては、そうやって「負債」を回すことで「善」をもっと広げることができるのではないか?

 つまり「やさしさ」の交換を回し続けることができるのではないか?

 この記事を書こうと思った時、僕は最初「やさしさポトラッチ」をタイトルに加えるつもりでした。ポトラッチを選んだのは単に語感が良かったからです。

 しかしもう少し考えてみると、ポトラッチより「交換」の意味が強い(ような気がする)クラやタオンガの方がいいような気がしてきた。それにポトラッチには贈与のみならず「破壊」による財の消尽が伴いますから、その意味でも好ましくないような気がしました。

 しかし更に考えてみると、どうもやはりポトラッチの方が良いような気がしてきたのです。

 

善の縁遠さ

 「善」だのなんだのと簡単に言いますが、少なくとも僕にとってそれは結構縁遠いものです。

 一番身近に感じる「善」は「お年寄りに電車の席を譲る」というものですが、それも結構勇気の要ることではありますし、それにやさしさの向かう対象があまりに限定されています。それは「お年寄り」という特定の対象に一方的に向かうやさしさであって、これを用いて「交換」の輪を作ることはできません。

 そもそも「交換」の輪を作るためには、少なくとも最初は、もっとハードルの低い誰にでも行えるものでなければならない。でなければ広がりません。

 もっと別の「善」に着目しなければならない。

 そこで僕は、僕が「善」「やさしさ」という言葉から一番に想起するドストエフスキーの小説『白痴』の主人公ムイシュキン公爵について考えます。

 

ムイシュキン公爵のうつくしさ

 「無条件に美しい人間」を創造しようと描かれたムイシュキン公爵のうつくしさは、ふつう想像されるような「善」ではなく、「赦し」からもれ出る光であると思います。

 彼はあまりに女性差別的な境遇に置かれた女性ナスターシャ・フィリポヴナを唯一、偏見の無い目で見つめ、一目見て(写真ですが)その誇り高さを見抜きました。そしてまた、この小説のあまりにうつくしいエンディングにおいて、彼は途轍もない「赦し」を行い、そして「白痴」に戻ります。

 僕の考えでは、それは「善」という言葉から一般的にイメージされるような、積極的な行動とは違います。「赦し」には、他の人々が「許さない」という状況が必要であり、必然的にそれは「~しない」という受動的・消極的な形を取ります。

 そうした「~しない」倫理はエヴァのような「ひきこもり的想像力」によって僕達に受け継がれ、しかし現在はむしろ『コードギアス』のルルーシュや『DEATH NOTE』の夜神月のような「決断主義」に劣勢を強いられています。

 宇野常寛ゼロ年代の想像力』はしかし、「ひきこもり」もまた「決断主義」の一つのヴァリエーションでしかないことを喝破するものでした。

 逆に言えば、決断主義としての「ひきこもり」、決断主義としての「~しない」倫理が今となってはありうるのです。

 

やさしさポトラッチを回そう

 さて、話をポトラッチに戻しましょう。

 僕が今回のタイトルにクラやタオンガよりポトラッチがふさわしいと思ったのは、その焦点が交換される「モノ」自体にあまり絞られていないからです。相手に具体的なモノを受け渡す積極的な行動というよりは、「他者があれだけ消尽した」という状況に半ば突き動かされるように「状態」としての自己の「気前の良さ」を誇示する。その不可逆的な競争。そして今回僕が提起する「やさしさポトラッチ」においては「気前の良さ」ではなく「寛容さ」を競い合うものにしたい。

  現代においてはいろんな人がいろんな風に叩かれ、批判されます。そうした状況を前提に「~しない」倫理を働かせ、叩かれる人々を「赦し」「寛容である」こと。多くの人々がただ「叩く」ことを目的に相手を歪め、叩きやすいように物語化・石化する中で自分だけは「しない」こと。相手を「同じ人間」と認め、共感力を持って接し、相手の自分とは「違う人間」としての側面を許容できる「寛容さ」を持つこと。それこそが現代において必要で、交換の環を広げるべき「やさしさ」ではないでしょうか?

 積極的な「善」はもちろん貴いものですが、往々にしてそれに適した「機会」を必要とします。一方で非寛容な背景の中で「~しない」ことは、非寛容な背景が存在する限りいつでも・誰でもできるものです。それは機会を選びません。

  例えば先日のオリンピックエンブレム騒動、例えばネットにありがちなAKB叩きやワンピース叩きやラノベ叩き、例えばゆとり叩きや団塊叩きや女性叩きといった世代や性別のカテゴリを利用した理不尽な叩き、そういった安直な風潮に左右されず、批判に与しないこと。

 「でも悪は批判されるべきだ」という人には、一つ提案したい事があります。

 「罪を憎んで人を憎まず」を実行すること。

 憎まれるべきは、批判されるべきは個々の「罪」であって(特に意図的なものでない場合はそうですが)「人」ではありません。電気柵の設置によって死亡事故を起こしてしまった男性が自殺した一件で、僕はそのことを痛感しました。「人」に対する批判は往々にして私刑を呼び、そして「赦し」の契機が無いため際限が無い。飽きるまでいつまでもいつまでも叩かれ続けます。そんなものは、言わせてもらえばただのストレス解消でしかない。

 ムイシュキン公爵もまた「罪を憎んで人を憎まず」を実行した人であると思います。あれが理想です。いわば「ムイシュキン公爵ごっこ」の競い合い。加えてそれは極めてローティ的です。前節では「決断主義としての「~しない」倫理」がありうると書きましたが、まさにそれです。批判に与さないという倫理を僕達が備え実行することの偶然性を意識し、絶対化することなく、それでも批判に与さないこと。「残酷さ」を避けることが我々にできる最大のことであると考えること。

 そしてまた、これが重要なのですが、こうした「やさしさ」の円環をポトラッチとして成立させるためには、もちろんその「やさしさ」を公開することが必要です。「僕は~を叩かない」「俺は~批判には与しない」「私は~を評価する」という態度を明確に、そして誇らしさとともに示すこと。それが必要です。

 「やさしさ」の競い合い、やさしさポトラッチ。

 あなたも参加してみませんか?

 

 

 

 

 

 

余談

 今回の流れには乗せられませんでしたが、贈与とハウの論理を用いてアイドル批判や有名人批判を理解することも可能です。

 モースやレヴィ=ストロースが研究対象とした相互の交換関係により成り立つ社会の(歴史的な)次の段階として専制君主制がありえます。この専制君主制は、それまでの相互の交換関係を断ち切り、一度「王」を経由して交換が成り立つことにより成立し、従って「負債」は人々の互いではなく、「王」に集中します。つまり「王」はすべての価値判断の起源でありながら、同時に「憎悪」を一手に引き受ける焦点でもある。

 有名人、特にアイドルは人々のメドゥサの視線を一手に引き受け、自ら石化することで「王」になるということは以前書きましたが、よってアイドルは価値判断の基準となると同時に「憎悪」をも集める存在だと言えるわけです。このようにして、アイドルのファンを自認しておらず、むしろ専ら批判している人でも(だからこそ)アイドルの論理に巻き込まれ、「憎悪」を搾取される人であることが了解できます。(そして憎悪するということは、既にアイドルから何かを受け取ってしまっている証左でもあります)

 で、あってみれば、「アイドル批判に与しないこと」もまた非常にラディカルな意味を持ち、有意義であるわけです。

 

*1:もちろんハウが実体として存在しているという意味ではなく、「ハウが宿っている」と感じる能力が僕達には既に備わっている、という意味です。