読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

政治音痴が安保法案について語ってみる

 突然ですが、僕は政治についてほとんど何も知りません。

 なるべくそちら方面の話には触れないように生きてきました。理由はいろいろありますが、一つは僕より専門家の方がよくわかっているし判断できるだろうという信頼が一つの理由ではあります。

 ともかく政治にはとんと疎い僕ですが、そんな僕でも安保法案をめぐる世の中の動きにはなかなか考えさせられるものがありました。

 今回はその一部を、なるべく政治的な中身には触れずに語ってみたいと思います。

 

「馬鹿にする態度」の起源

 今回に限った話ではないかもしれませんが、安保法案の賛成派と反対派のやりとりで目立ったのが「相手を馬鹿にする態度」でした。

 僕はこれ結構根が深いと思っていまして。これって「馬鹿にしたくてしている」のももちろんあると思いますが「馬鹿にせざるをえない」側面もあるのではないかと思っています。

 どういうことか?

 たとえ相容れない相手であろうと、その頭脳を認めることは十分にありえます。相手の持つ「目的」を達成するための手腕が鋭く、いちいち的を射ているような場合、「目的」自体の是非はともかくその頭の良さは認めざるをえない。

 しかしその「目的」、言い換えれば「ねらい」がわからない場合はどうでしょう? 「ねらい」がわからなければ相手の行動がそれに適したものかどうかさえ分からない。

 そんなときに僕達が陥りがちなのが「相手を馬鹿にする」という態度です。「あいつは馬鹿なんだ」と思ってしまえば、わからない「ねらい」を理解しようとする必要もない。楽です。

 相手の「ねらい」を考えようとすることは即ち相手の想定する「メリット」を想像することですから、考えようによってはそれそのものが議論の相手に利する行動でもある。それはとても難しいことです。

 そもそもなんで集団的自衛権が必要なのかわからない。どういうメリットがあるのかわからない。なんで集団的自衛権が無くていいと考えるのかわからない。集団的自衛権のメリットは分かるが立憲主義を脅かしてまでやる必要性がわからない。既に自衛隊の存在で破られている立憲主義をいまさら守るメリットがわからない。なんで自衛隊の存在で立憲主義が破られていると考えるのかわからない。なんで徴兵がありうると考えるのかわからない。なんで徴兵が無いと思えるのかわからない。

 こうした「わからない」がいつのまにか「馬鹿にする」態度にすり替えられているのです。

 

そもそも「正解」が無いとしたら?

 しかしどうして「わからない」のでしょうか? どちらかが(あるいは両方が)「馬鹿」だから? う~ん、どうでしょう、それはちょっと安直過ぎるような気もする。

 それより僕達は、そもそものところで物事を単純化し過ぎて考えていませんか?

 例え話をしましょう。

 僕がAさんかBさんのどちらかに1万円あげるとします。どちらか一方にしか与えられず、購入した物品の分配も含めて1万円の分け合いは無しです。どちらにあげるのが「正しい」か、話し合って決めてもらう。

 Aさんは言う。「私が貰った方が私が得するので正しい。私が貰う」

 Bさんは言う。「いや、それでは僕が損をする。進んで損をするのは馬鹿のすることだ。僕が貰うのが正しい」

 なんとも頭の痛くなる会話ですが、AさんとBさんは馬鹿なので仕方がありません。彼らは「正しい」という言葉の使い方を知らないのです。

 そもそも損得と「正しい」を繋げるのがどうかと思いますが、そこは置いておきましょう。政治の世界に限ってはこれら二つは同値になる場面が結構あります。問題はその先で、彼らは「みんなの損得」ではなく「自分の損得」と「正しい」を繋げてしまっているのです。なんというエゴイスト。

 この話で分かるのは、そもそも「みんなの損得」が定まらなければ「正しい」も無い(特に政治では)ということです。AさんとBさんのどちらかが得をしどちらかが損をする選択肢しか無いならば、原理上そこに「正解」はありえません。

 わかるでしょうか。安保法案について賛成派が「俺達が正しい」と言う時、それは安保法案が賛成派に利するということだけではなく、安保法案が通ることが反対派にとっても最終的には得だよ、と言っていることになるのです。逆もまた然り、反対派が「俺達が正しい」と言うならば、反対派のみならず賛成派の損得さえも考え、証明しなければならない。いずれの立場でも、自分達の正しさを主張するには「みんなの損得は実は一致している」ということを前提しなければなりません。*1

 ですが、その前提は正しいでしょうか? 先程の例え話のように「どちらも得をする」選択肢がそもそも無かったとしたら? 賛成派と反対派の損得が最初からズレていて、一致した「みんなの損得」が存在しないとしたら?

 そのとき「正解」も消えます。どちらの陣営も原理的に「正しさ」を主張できなくなる。

 むしろ「できなくなっている」からこそ、相手を「馬鹿にする」しかやることが残っていないのではないでしょうか?

 

損得の違う集団を調停するには

 こうした問題は安保法案に限った話ではありません。

 現在様々な分野で人々の価値観や考えは多様化しています。それはつまり「損得」の多様化、そして多岐化でもある。今という時代は「個々の損得」が一致せず、むしろその隔絶がどんどん開いていっているような時代なのです。

 つまりこの「正しさ」が無い・消える現象は、政治に限らずどんなところでも起こりうる、現代の核心的な問題です。

 どう解決すればいいか?

 いや、解決は無理なのかもしれない*2。とすれば、せめてこうした「損得の乖離」を調停するにはどうすればいいのでしょうか?

 簡単に思いつくのは「住み分け」です。

 損得の違いで集団を分けて、それぞれで別々の政府を運営させ、別々の暮らしをさせる。実際上は非現実的とも言えますが、とはいえとても簡単な方法です。

 しかし再び安保法案について考えてみるとき、この簡単な方法の破綻が見えてきます。

 

集団的自衛権」とは?

  考えてみましょう。安保法案の賛成派と反対派で別々の国家を運営させたとしたら。

 そのときに問題になるのは、集団的自衛権と個別的自衛権がレイヤーを無視すれば一致してしまうということです。

 どういうことか?

 日本という国が既に保有している個別的自衛権は、実際は自衛隊という戦力に支えられています。もっと詳しくいえば自衛隊員の皆さんに。

 彼らは何でしょうか?

 この問いは奇妙に響くかもしれません。しかし実際奇妙なのです。彼らはどうして「戦う」のか? 僕達はどうして「戦わない」のか? というよりどうして「戦わない」ことが可能なのか?

 個別的自衛権は一つの必然です。攻撃されたらやり返す。それは基本的な権利として考えられる。僕達は当然個人としても(個別的自衛権という名前ではないかもしれませんが)持っています。だとすれば、僕達が持っていない(行使しない)自衛隊員さん達の「戦う」は個別的自衛権の範囲を超えることになる。

 実際彼らは「自分だけのために戦う」ことは無いと思います。それなら戦わずにおけばいい。戦わないと殺される場合だけ戦えばいいのです。でもそれをしない。何故か?

 これは想像でしかありません。自衛隊員ではない僕にはわからない。しかしそれでも想像をするなら、彼ら自衛隊員は「自分以外も守ろうとしている」のではないでしょうか? もしかすると「顔も知らない日本国民」でさえも?

 もしそうだとすると、個別的自衛権を実際に支えている戦力は、むしろ「集団的自衛権」的な精神によって支えられていることになります。

 ここで話を戻してみましょう。安保法案の賛成派と反対派で別々の国家を運営させたとしたら?

 「どうして自分が攻撃されたわけでもないのに他のために戦わなければならないのか」と考えるのが反対派だとすれば、彼らの運営する国家に自衛隊員は残っているでしょうか? そのような思想を持つ人が自衛隊員を志願しうるでしょうか?

 もちろん、ありえるでしょう。気を付けて頂きたいのは、ここまでの話は「国家の」個別的自衛権の保有に「個人の」集団的自衛権的な精神が必要で、国家と個人という「レイヤーを無視すれば」それらは一致する。ということです。

 実際は「国家としての集団的自衛権は無い方がいいが、個人としては日本国民のために戦う」という自衛隊員の方もいるでしょうし、その考えは確実に立派です。

 また安保法案の反対派は必ずしも集団的自衛権に否定的ではありません。立憲主義を尊重するために反対しているだけで、改憲にはむしろ肯定的な人もいる。

 ですが今問題となっているのは「住み分け」という方法の是非です。となると安保法案の反対派の中でも集団的自衛権肯定派と否定派はさらに分かれ、住み分けることになるだろうし、集団的自衛権否定派の国家に自衛隊員が残ったとしても、その「比率」が問題になります。集団的自衛権否定派の人しかいない国家は個別的自衛権を実際的に保有できる戦力を維持できるか?

 言ってしまうと、自衛隊員ではない集団的自衛権否定派の方々は二重の意味で他者に依存しているのです。アメリカなど同盟国に対して「君が攻撃されても助けないけど、僕が攻撃されたら助けてよ」と言い、重ねて個別的自衛権の行使でさえも自衛隊員に対して「君が攻撃されても助けないけど、僕が攻撃されたら助けてよ」と言う。ことなしに集団的自衛権の拒否はありえません。

 そして問題は集団的自衛権否定派だけではありません。自衛隊員でない僕達は、「国家として」は集団的自衛権肯定派でありえたとしても、「個人として」は「君が攻撃されても助けないけど、僕が攻撃されたら助けてよ」と自衛隊員の方々に言わざるをえない。つまり集団的自衛権否定派の方々では「二重に」依存していたのが、肯定派では「一重」となる代わり、むしろ「矛盾」として出てくるのです。論理的にはむしろこちらの方が問題です。否定派の方々は論理的にはむしろ一貫している。もちろんどちらも「レイヤーを無視すれば」の話ですが。

 

  ともかく、こうして「住み分け」という方法は破綻します。

 ではどうすればいいか?

 なにを頼りにすればいいか?

 

 実は、まだ答えは出ていません。

 もともとこの記事は、既に何度かやっている批評再生塾の課題の道場破りのために書き始めたものですが、問題提起の部分でいろいろ思いつき過ぎて長くなってしまったので切り離しました。もともとはまだ見ていなかった『ガッチャマン クラウズ』にそのあたりの答えがあるのではないかと見切り発車で問題提起部分だけ書いてみたのですが(なんて無茶だ)、『ガッチャマン クラウズ』を一気見した現在、作品には非常に同意できる部分が多々あるものの、この目的においては満足できるものではありませんでした。

 『ガッチャマン クラウズ インサイト』ではもしかしたらその解決もあるかもしれない。ので、今日はインサイトを一気見します。そしてその前に、ひとまず独立した問題提起として本記事を表に出してみたいと思います。

 

 

*1:つまり「相手を馬鹿にする」のははっきり言って論外です。本当は逆で、それぞれの主張する「損得」を相手にプレゼンテーションしなければならない。「みんなの損得は実は一致している」という前提があるならば。

*2:少なくとも「解決は可能だ」と言い切れる根拠はどこにも無い(ように見える)