話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

ことば<ベルク・カッツェ>を超える者 一ノ瀬はじめ

 既に二度ほど挑戦している批評再生塾の課題に、今回も挑戦してみたいと思います。

 現在の最新課題は第9回「文化について書くことで状況を語り得るのか」というものです。

school.genron.co.jp

 

 主な課題の内容は「2010年以降の日本が直面している問題点を効果的に指摘し、それに対する処方箋も示唆できる事象(書籍、映画、マンガ、音楽、社会現象など、なんでもよい)をひとつ取り上げ、これを論じてください。」というもの。

 それでは、やってみましょう。

 

状況を「語りうる」もの

  ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中でこう書いています。

 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

 さらにこう続きます。

 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。

 それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。

 なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側から眺めうることになる。

 思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。

 『論理哲学論考』は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な文が示す通り「語りえぬもの」についての論考。そしてここで言われていることはわりに簡単なことだと僕は思っています。世界の中に「あれが存在しない、これは存在する」と言う時、世界の外に出なくてはいけない。そして私が私の世界の限界を超ええない以上、それは「語りえない」わけです。

 このことは批評再生塾のホームページにある以下の宣言と繋げることで、批評の問題とも接続できます。

批評とは本来、外の言葉である。たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。

 ある対象・ある領域について語るとき、その領域から一度外に出なくてはいけない。僕達は世界の外に(特に「私の世界」の外に)出ることはできませんが、ある「領域」の外になら出られる。そしてそれが「語りうる」か否かの条件だと思うのです。

 さて、課題文に戻りましょう。「文化について書くことで状況を語り得るのか」

 文化について書くことが状況を語りうるためには、それが状況にとって「外部」である必要があります。そして僕は文化はその創造性により「状況」にとって外部であると思う。なにしろ創造とはそれまでになかったものを(ゼロからではないにせよ)生むことであり、まさに外部の導入であるからです。しかも「文化について書くこと」は、僕に言わせれば文化をさらに創造的に「誤読」することであり、二重に外部たりえる。

 つまり文化について書くことで状況を語りうる、と僕は思います。

 

言語ゲームと思考可能性

  「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」このことはウィトゲンシュタインがのちに『論理哲学論考』を間違っていたとして撤回したあと、「言語ゲーム*1という概念を創出するにあたっても引き継がれる考えだと思います。

 僕達はそのときそのときにおいていろいろな言語ゲームの中にあり、その言語ゲームによって思考を(従って「私の世界」を)規定されています。

 例えば少年ジャンプ+に読み切り作品として掲載されている『ウソキヅキ』という作品はこのことを理解するのに最適であると言えるでしょう。

plus.shonenjump.com

 この作品は「嘘という概念が存在しない世界」において「嘘」という概念に気付いた主人公達を描いた作品です。こうした僕達の世界とは違う世界(外部)を通して見直すことで、僕達は「嘘」という語彙やその使用によってどれだけの思考が可能になっているか、知ることができます。

  言語が、語彙が更新される事で「思考できるもの」の領域も広がり、思考やコミュニケーションの可能性が拡張される。その意味で言葉遣いの変化は「状況」における思考可能な領域の変化をも生み出します。

 こうした「言葉」と「思考」の関係に非常に鋭敏な観察力を示し、作品の中に結実させ果せたアニメがあります。

 『ガッチャマン クラウズ』です。

 

悪意の蠱毒とベルク・カッツェ

 『ガッチャマン クラウズ』には二人の特異なキャラクターが存在します。

 主人公・一ノ瀬はじめ、そして敵であるベルク・カッツェです。

 無論この二人以外のキャラクターも非常に重要で、特に爾乃美家 累は特異性を持っていると言えるでしょう。しかしこの二人はそういう次元ではない。

 ベルク・カッツェは悪意がそのまま人の形をしたようなキャラクターです*2。彼の実力を知るパイマンやO・Dが手を出すこと自体を恐れるほど、強大な力を持っていますが、それをストレートに使うようなことはしません。

 彼が好むのは他人の不幸と争いと混乱。そのために彼が行うことは、簡単に言ってしまえば他人を、あるいは人々を、または社会を「意図的に炎上させること」。それも社会全体を混乱に陥れ、最終的に惑星そのものを崩壊させてしまうほど大きな炎上です。

 そして前述のとおり、カッツェの思考はその「言葉遣い」と強く結び付いています。彼は2ちゃんねるに多く見られるようなネットスラングを多用し、相手をおちょくったり茶化したり見下したりすることに心血を注ぐ。カッツェ自身の「全部お前達のせい」という言葉と合わせて考えれば、彼は2ちゃんねるに代表されるネット環境に渦巻く悪意のメタファーとして解釈することができるでしょう。その悪意は僕達一人一人の「内部」にあるのです。

 

 2ちゃんねるを中心とする匿名的なネットコミュニティでは、その匿名性ゆえに誰かを罵倒したり批判することが非常に容易になりました。特に有名人に対しては一方的に攻撃が加えられるようになった。当然ネットスラングはこのような「状況」を反映して、より攻撃・否定に特化し、しかも自分を棚に上げやすいものに最適化されています。

 例えば「懐古厨」「萌え豚」「中二病」といった誰でも使えて簡単に相手を定型化して否定してしまえる便利な言葉がネット上にはあふれています。「意識高い系」はその典型と言えるでしょう。また「ま~ん(笑)」などのように相手を傷付けることに特化したおぞましい表現も数えきれないほどネット上にはある。

 こうした言葉は2ちゃんねるを中心としたネット環境の中で蠱毒的な淘汰を繰り返し、発達し続けています。

 

 私の言語の限界が私の思考の限界を示し、思考を規定する。ということはある目的を思考し遂行するためには、それに適した言語ゲームというものが必ず存在します。

 そしてカッツェの目的とする、最終的に批判者自身さえも巻き込む巨大な炎上、その悪意の増幅に最適だったのが、まさに2ちゃんねる的なネットスラングでした。漫画やアニメの中には、最近では「悪意の塊」のようなキャラクターは結構います。しかし「言語」と「思考」の繋がりを見抜いてそこに「ネットスラング」を持ってきたという点で『ガッチャマン クラウズ』は頭一つ抜けて鋭敏だったと言えるのです。

 カッツェの特異性はまさにそこにあります。徹底的に相手をおちょくり、茶化すそのスタイルは宮野真守の怪演と相俟って一つの到達点に達しています。それは単純な「悪意」ではない。巫山戯て茶化す、それこそが言語ゲームの暴力性と思考の規定の典型なのです。

 例えば少し前、『迷い猫オーバーラン!』というアニメが放映されていた頃、このアニメの主題歌である『はっぴぃ にゅう にゃあ』の歌詞を利用した会話が一部で流行っていました。これに対して気持ち悪がったり否定したり揶揄う外部の者があっても「調子にのっちゃダメ~wwwwww」「かまってかまって欲しいのwwwwww」「上から目線のてんこ盛りwwwwww」などと歌詞を引用すれば容易に茶化してスルーすることができるのです。この現象自体はケチを付けることに命を賭けている2ちゃんねらーでさえ為す術なくスルーされていたのが痛快だったのもあり、個人的にはわりに好きなのですが、なんでも簡単に茶化してしまえる暴力性は危険を孕んでもいます。僕達は『はっぴぃ にゅう にゃあ』を手に入れることで茶化すことが可能になったと言うよりも、それを使う限り「茶化さざるをえない」つまりむしろコントロールされてしまっているわけです。

 同様の問題は「なんJ語」などにも観察できるでしょう。肝要なのは「茶化す」ことであり「茶化さざるをえない」こと。言語ゲームのルールは「外部」を取り入れることで常に更新され続けます。しかしこの外部を「茶化」してしまえば、「外部」の持つルールを更新する力は無意味化され、言語ゲームはある意味で硬直します。もちろん言語ゲームの内部ではルールは常に組み替えられますが、それは言語ゲーム全体を危機に陥れるようなものにはなりえません。そうしたある種の恒常性を獲得することにより、ネットスラングは淘汰をかいくぐってきたのです。

 ネットスラングはいつの間にか僕達の会話の中に忍びこみ、僕達の思考やコミュニケーションの可能性を規定しコントロールする。しかも一度取り入れてしまえば容易に変容させることも叶わず、ずっと「内部」に居続ける。このようなカッツェ的権力に抗する方法はあるのでしょうか?

 あるのです。

 しかしそれは「一ノ瀬はじめ」になることではありません。

 彼女は到達不可能かつ理解不可能な「外部」としてあり、彼女を「見る」ことによってそれは可能なのです。

 

「異人」としてのはじめちゃん

 たしかに一ノ瀬はじめ(以降、はじめちゃん)はカッツェを克服しました。カッツェを内部に取り込んでさえ自分を保つことが可能だった。

 しかしそれを真似することは、どうでしょう、できるものでしょうか?

 彼女はある種の超越的な存在です。「外部」です。それはやはり「言葉遣い」にも表れている。「~っス」「~っスか?」という底抜けに明るい口調は、多彩な口調で構成されるガッチャマンメンバの中でもドキリとさせられる異様な存在感を放っています。何も考えておらず衝動的に動いているように見えるのに、時折不気味なほど本質を突く。

 その外部性・他者性は清音によって「ようやく」捉えられます。

 爾乃美家 累と対話するためにカメラの前に自分の素顔を晒し、そのことについて清音が問うと「そうする必要があった」「大事なこと」とはじめは言います。

清音 「つまり、弾みとかじゃなくて分かっててやったってことか」

はじめ「そうっスよ? 弾みとかって、ボク、そんな無責任じゃないッスよ」

清音 「……そっか」

はじめ(気付き、微笑み)

 このとき、ようやく清音は気付きます。はじめは「考えている」のだと。

 はじめちゃんをよくある天真爛漫でそのくせなんとなく本質を突いてしまう「王様ははだかだ」キャラだと見ているとすれば、その見方は甘いと、僕は思います。

 しかしそれは非常に陥りやすい罠です。なにしろ僕達は明確にではなくてもなんとなく「言語が思考を規定する」ことを知っている。科学的に正確な事実は科学的な言語でしか記述できないし、神秘については宗教的なことばでしか語れないことを感じ取っている。はじめちゃんのような口調では、本来「緻密に」考えることは不可能なのです。

  にもかかわらず、はじめちゃんは「なんとなく」「感性的に」正しい懐疑を持てているわけではなく、緻密に「考え」ている。そしてそれは決して「弾み」ではない。

 ここが特異なんです。いわば、極度に論理的で緻密な思考を持ったキャラクターがいたとして、そのキャラクターが外面的にも内面的にもはじめちゃんのような言語を使っているということが、果たして想像できるでしょうか? 僕達は物事を考えるときにも口には出さずとも言葉を使っていますが、その内面の言葉でさえ「~っス」「~っスか?」であり、それは演技などとは無縁のものなのです。そんなこと、たとえ想像でも、できますか?

 つまりはじめちゃんは不可能な点にいるのであり、「外部」なのです。そしてこの不可能な点を参照することで、ようやく僕達は「言語が思考を規定する」ことの本当の意味を体感的に理解できます。それははじめちゃんが不可能であるようなやり方を通じて、僕達を規定しているのです。

 「言語が思考を規定する」ことの外部にいるはじめちゃん、いわば言語ゲームの外部にいるはじめちゃん。その存在を絶えず意識することで、はじめちゃんになれないまでも、僕達は言語ゲームの閉塞性に風穴を開けることができます。

 カッツェ的で2ちゃんねる的な言語ゲームを相対化し、その支配力を見据え、その上を行くでも下を行くでもなく侵食すること。茶化すのではなく、真剣に懐疑を突き付けること。そう、彼女のもう一つの特異性はまさにそこにあります。彼女はいつだって真剣で、弾みで動くような無責任じゃない、にもかかわらず軽やかで、重苦しさが微塵もありません。特に現代においてこんな形の「真剣さ」は非常に稀有であると言えるでしょう。

 

 もしかしたら彼女のような「ことば」の使い方をすれば、はじめちゃんのようになれるのかもしれない。彼女のように「ヒーロってなんスかね? なんなんスかね? なんスかね?」と歌ってみることで少しは彼女に近付けるかもしれない。もしかしたらはじめちゃんは「不可能」でも「外部」でもないのかもしれない。すこしでもそう思えたなら、どうでしょう、たまに、誰も見ていない所やネット上だけでも、彼女の口調を真似て「そうっスか?」「ホントっスか?」と言ってみては、いかがでしょうか?

 いや

 

 どっスか?

 

 

*1:言語ゲーム」という概念自体は難しくもあり簡単でもあります。それは言語をゲームのようにルールに従ったものとみなし、しかもルールはそのときそのときによって動的に組み替えられます。むしろルールを組み替えるゲームと言った方がいいかもしれない。そのように考えることで言語の従うルールの絶対性や真理性を否定し、偶然的なものとして見出したところが良かったわけです。一方で言語ゲームは僕達が普段使っている「日常言語」に注目した概念なので、僕達の日常的なコミュニケーションを想起すればそれで正解です。そういう意味では至極簡単です。

*2:人というか、宇宙人ですが。