話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

不条理な批評 ただの野性の爆弾たち

 批評はどう書くべきか?

 批評とはどうあるべきか?

 ということについて、最近よく考えます。僕が考えることじゃないかもしれませんが、よく考えます。

 それというのも、僕は前回の記事の中でも書いたように「批評とは外部の視線の導入である」という考えに賛成しつつ、しかし一方でネットでこれまでに「批評に外部を取りこんではいけない(作品だけを見ろ)」というような言説に幾度か触れて、それに納得した自分も確かにいるわけで、つまり僕はこのふたつの考えに引き裂かれてしまっている、という状況なわけです。

 これは非常に面倒なことです。なにしろ僕の中でこのふたつの「派」はそれを発した人々と関連付けて記憶されているし、となれば単純に「どちらが正しいか」だけ考えるわけにもいかない(そもそも考えても答えは出ないでしょう)僕はどちらの派に関連付けた人のことも好きだし、するとやっぱり僕は引き裂かれる。

 でも、放っておくわけにはいかない。そこで前回は前者(外部の取り入れの推奨)で書きましたから、今回は後者(外部の取り入れへの警鐘)に近いところで書いてみましょう。

 しかしそれは「外部を取り入れずに書く」ことではなく、「最も外部を取り入れてはいけないであろう対象について外部を取り入れて書く」ことで果たされます。

 

「批評してはいけない」対象

  批評とは本当に難しいもので、対象の魅力を何倍にも増大させるものもあれば、むしろ魅力を減じてしまうこともあります。

 語れば語るほど魅力を減じてしまうものの代表格として「お笑い」が挙げられるでしょう。

 「笑いの解説」ほど寒いものは無い。そう思いながらも、生来の分析せずにはいられない性向に駆り立てられるように「お笑い」について語ってしまうという愚行は、実は既に僕は犯しています。下記の記事がそれですね。

q9q.hatenablog.com

  ただ、今回の趣旨の上ではこの記事でははっきり言って甘い。

 解説を嫌う笑いの中でも、更に解説を拒否するジャンルがお笑いにはあります。

 「不条理」と呼ばれる種類の笑いです。*1

 それについて、語らなければならない。

 

不条理と批評の問題点

 僕はお笑いの中でも「不条理」と呼ばれるものが特に好きです。

 「笑い」の基本はなんといっても「ボケ」と「ツッコミ」のコンビネーション。これは常識からはみ出る「ボケ」に対して「ツッコミ」を入れることで再び秩序の中に引き戻し、物語化する(秩序の中での地位・意味を与える)ことで笑いを生む、というものだと言えるでしょう。

 フットボールアワー後藤さんの絶妙なツッコミなどを見ればわかりますが、ツッコミは「すっきり」「ピッタリ」くる納得感が重要です。「それそれ!」と思わず膝を打ちたくなるような「ちょうどいい」的確さ。言ってしまえば「秩序の笑い」なんですね。

  一方でツッコミでは回収しきれないような笑いもあります。最近はこのタイプが多くなっていると感じる。例えばムーディ勝山の『右から来たものを左へ受け流すの歌』はツッコミ不在の不条理ネタです。レイザーラモンRGの『~あるある早く言いたい』ネタも周囲から「早く言え」とツッコミを受けつつもボケはツッコミで停止せず、言わないまま進む。不条理系の芸人で言えばネプチューン堀内健鳥居みゆきが有名でしょうか。これらは秩序には容易に回収されない「混沌の笑い」と言えます。

 ここでどちらかと言えば「混沌の笑い」が好きな僕には、同時に一般的な批評の問題点が見えます。

 批評とは、外部の視点を導入……の前に! そもそもその多くは作品や状況に対する「解説」という形を取ります。それまで関連付けられて考えられていなかった要素を結びつけ、新たな因果性を見出す。それはひとつの「物語化」であり、お笑いで言えばフットボールアワー後藤さんの絶妙なツッコミに似たもの、すなわち「秩序の笑い」の類縁だ。

 ここで一つの疑惑が浮かび上がる。すなわち、批評は「新たな視点」を導入するものであると言われていますが、本当にそうだろうか? むしろ絶えず様々な対象を因果で繋いで「物語化」することで、そうした操作自体の自明性を補強してはいないか? そうして因果性の内側に閉じこもることで、ある種の突飛な「新たな視点」はむしろ無視され、作品や状況に対する視線は「硬直」してしまいはしないか? 果たして東浩紀さんを無視してポストモダン以降のオタクを語ることは可能だろうか? 果たして「決断主義」という言葉を使わずに平成仮面ライダーを語ることは可能だろうか? ある強力で強固な批評はその後の対象に対する視線を固定してしまうほどの力を持っていないと本当に言えるでしょうか?

 思えば僕達の権威意識やそもそも批評が仮想敵とする「現在の画一的な視点」自体、批評が由来ではなかろうか?(揺らいではなかろうか?)

 

言語ゲームの「書き換え」

 こうした視点の硬直は、言語ゲームの硬直とパラレルであると言えましょう。そしてこのような「状況」に対して、その処方箋を「外部」たる文化に求めようというのが前回の記事でした。とすると、今回は「お笑い」こそがそれに当たるのでしょうか?

 「お笑い」は言語ゲームを書き換えうるのでしょうか?

 もちろん、書き換えます。

 お笑いは実際、これまで多くの言語ゲームの書き換えを行ってきました。特にダウンタウン松本人志さんの功績は数えきれません。例えば「面白くない」ことを指して言う「サムい」も松本さんが流行らせたものらしく、現在の僕達の日常言語に夥しい影響を与えていますが。

 そこが「お笑い」の可能性なのか?

 いや

 違う。

 言語ゲームの書き換えならば、批評でも他の文化でもあらゆるところで起こっています。「お笑い」に特有なのはあの「笑い」という痙攣的な肉体の反応があること。つまりそこには動物的な、あるいは動物的でも人間的でもない境界の「なにか」があるはずで、そこが特色になるはずです。

 

 さて、再びお笑いに話を戻しましょう。

 僕は不条理な笑いが好きですが、なかでも特に好きなのが野性爆弾天竺鼠です。

 

野性爆弾天竺鼠・ぼく脳

 僕は不条理な笑いが好きですが、なかでも特に好きなのが野性爆弾天竺鼠です。

 この二組は、本当に飛び抜けています。思いもよらないボケがどこからともなく飛んできて、正体不明のまま去っていく。その独特の不条理感はやみつきになります。

 不条理なボケは、僕達が普段使っている言語ゲームの外側にぽっと出ます。しかし出たままで秩序に回収されない。つまり不条理なボケは僕達の言語ゲーム書き換えないのです。なぜなら彼らのボケはいわば名人芸であり、誰にでも簡単に真似できるようなものではない。

 だがそれがいい

 言語ゲームを書き換えてしまえば、つかのま外部であったそれは内部に組み込まれます。つまり外部にあることで担保されていた批評性は長続きしない。しかし不条理は内部に組み込まれる事を拒否することによって、半永久的に言語ゲームの「外部」であることができるのです。

 そ、ここで再び批評の問題点が現れます。

 「外部の視線を導入」する批評は、導入することによって「内部」と「外部」を因果性により結節してしまう。すると「理解不能」でなくなった「外部」はもはや「外部」たりえない。むしろもとの「内部」と繋げて考察することが自然なものとして受容され、ある意味では「内部」に組み入れられてしまう。

 「外部」であったものを因果性で繋げることにより物語化してしまう批評は、その他者性を亡きものにしてしまう暴力性を孕んでいると言える。

 

 まとめましょう。

 お笑いが明らかにする批評の問題点は以下の2つ。

 

 1.視線の硬直を生むこと

 3.「外部」を「内部」にしてしまうこと

 

さて、ここからが本番です、こうして明らかにされた批評の問題点にもかかわらず、この問題多き批評の方法を使って僕は「不条理な笑い」を論じなければならないのです。それが最初の宣言でした。困ったなあ。

 先に挙げた批評の3つの問題点は、その実すべて同じものであるとも言える。そして「外部」を「内部」にしてしまう批評にとって、「外部」であり続けることが可能な「不条理」を批評することは、それ自体が対処療法的ではあれ一つの処方箋になりうると考えるのは順当というか至極平凡な発想とまで言えるでしょう。

 そう、本当に不条理が「外部」であり続けることができるなら、僕が批評のぬらぬらした触手によってそれを「内部」に組み入れようとしてもできないはずなのです。

 それがいま必要なんちゃうか? つまりなんや不条理な批評? が?

 「外部の視線を導入」しようとしつつそれができないこと、失敗すること、千原ジュニアさん、ご結婚おめでとうございます*2再び「外部」へ去っていってしまうこと。*3ではやってみましょう。

 

 野性爆弾のネタは「エロス」と「タナトス」の混交である。

 野性爆弾川島さんが多用する「歯」*4や「銀歯」*5というワード*6には生のイメエジと死のイメエジが交錯しています。彼の描く「似顔絵」は男性であれ女性であれほぼ例外なくふくよかな胸をもって描かれますわよ。これは「生命」「エロス」であり、同時に*7禿げ頭で描かれる事が多いのは「死」「タナトス」の象徴であろう。彼は軍帽に似た帽子をかぶって、ネタやバンド「盆地で一位」*8の楽曲*9でも戦争を題材にすることは多い(多い)*10。戦争は言うまでも無く*11生と死がせめぎあう葛藤の場である。僕は前回の記事*12で「ことばの使い方」「言葉遣い」が思考を規定するので気を付けましょうと言っておきながら自分は「ですます」調に未だ縛られ退屈な思考に今以て縛り付けられているのは欺瞞である。こうした「エロス」と「タナトス」という視線で見ると、やがて一見して不条理だった野性爆弾の笑いを貫く必然性が見えてくる*13*14

 例えば野性爆弾ファンにはおなじみであろうネタ。番組の収録中に突然フリスク*15を取りだしたかと思うと口に放り入れ、「おい、くーちゃん、なに食ってんねん」*16*17*18と言われると「あ、これですか?」「これ、母の遺骨です」という一連の流れには、母(エロス)の遺骨(タナトス)を食べる(エロス)というエロスとタナトスの反復が見られる。

 あるいはYouTubeでも見られる野爆テレビのワンコーナ「うめだから世界へ」のケーキづくり回。そこで作られた伝説的ケーキ「ゆっくりしいや」に底流するエロストタナトス*19*20は言うまでもないだろう。*21

 野性爆弾の爆弾コントにツッコミはいない。ツッコミ担当であるはずのロッシーは野性爆弾に独特の奇怪な世界観の中で翻弄される被害者であり、私達にとってのボケは彼にとって世界そのものである。彼は原理的にツッコミを入れること出来ない。彼 ボケの「内部」に住まう、「外部」からの回収(ツッコミ)できない。必然ですね。*22そしてそれは「エロス」と「タナトス」に深く結び付いている。どういうことか。つまり彼らのネタは「世界」の提示であり、それはこことは違う別の場所ではなく、「ここ」この世界のないぶに隠蔽された「エロス」と「タナトス」を開示することで別様に見えているこの世界そのものなのですよ。

 内部のさらに内部に深く潜ることで、一見して外部に見える最内部の奇怪さを、それによる笑い。それこそ彼らの不条理の正体であり、ここで僕達は「内部/外部」という二分法の更新を迫られる。デリダソクラテスパロール*23に内在するエクリチュール*24を見抜いたように、パルマコン的に「内部/外部」を脱構築する必要がある。つまり、内部にこそ外部はあるのであり、外部にもまた内部は絶えず侵食している*25

 そう*26、「混沌」はそもそも我々の内側にあるのであり、「外側」とはそれが投射されたものに過ぎない。はじめにEXCELがあり、言葉*27などの象徴秩序はその防波堤として作られ。権力の力点*28は他者の視線*29にオフィス*30。「内部/外部」の境界は俺達の肉体ではなくオレ達のはるか内側に有って無い。アテナイ。不条理な笑いはこの境界を侵犯する祝祭である。消尽である。エロスでありタナトスである。アルパでありお前ぇだ!

 となる(と)

 野性爆弾に「外部の視線を導入」しようとするとき、それは「最内部」を使わなければならないので*31

 しかしどうやって?

 ここで再び彼らの手法に見習おうではないか?

 彼らの不条理さの中には一定の必然性が垣間見える。しかしそれは内的な必然性であり、必然性自体の必然性は外部からは見えない。あくまで彼らの内部に立って彼らの必然性のありようを眺めるとき、彼ら流の「物語化」*32の操作が見えてくる。

 野性爆弾の爆弾コント『真珠』を見てみよう。

 

 真珠を取りに海へ出たロッシー。溺れそうになったところを魚にパーマンバッジを貰い助かるも、渦潮に巻き込まれてしまう。

 ロッシーは「ちゅぴん ぽとん」という音に目を覚ます。見ると周囲には夥しい量の裸の男性の死体が転がっており、戸惑う間中「ちゅぴん ぽとん」はずっと聞こえている。耳を澄ますと「ちゅぴん ぽとん」はどんどん近寄ってきている。焦るロッシー。「ちゅぴん ぽとん」はさらに近付く――。

 そして姿を表す「ちゅぴん ぽとん」の正体。それは転がる男性の男性器を鎌で切り取り(ちゅぴん)背中の籠へ放り込む(ぽとん)音だった……

 

 彼らは正体不明の「ちゅぴん ぽとん」を放置はしない。その理由付け、正体の開示――物語化は彼ら不条理のともがらの間においても為される。通常と違うのはその着地点が再び通常の「内部」にはないこと、外部から外部への跳躍であることであろう。しかしここで外部と見えるものは実は外部ではなく、隠蔽された「最内部」たる「エロス」と「タナトス」です。ちゅうことがわかるんや。

 こらえらいこっちゃで。

 

 

 ……以上は野性爆弾を題材にテマティスム批評に似た(?)なにかを試みたものである。

 そしてここでいくつかの指針が得られた。

 

 4.単なる「外部」を取り入れるのではなく、「内部」の更に内側に潜った「最内部」の視線を導入すること

 5.これにより内部と最内部を因果性で繋いで物語化すること

 

 この新たな物語化・新たな批評はしかし本当に新しいだろうか?という疑いは無視して何故なら論点はそこにない。論点は以上の批評が「野性爆弾」そのものの魅力を増大させたかということであり、それは僕の見るところ果たされていない。だから言うたやろ!*33

 「外部」が「最内部」の去来であるということはいいにしても、それが野性爆弾の魅力を増大させる役に立つことは無い。それはこうした説明が野性爆弾の本当の面白さを説明できていない証左であり、それは本来的に不可能なのだろう。

 失敗したのだ。

 「不条理」は捉えようとしても捉えきれない。捉えた(隠れた必然性を見つけた!)と思ったとしてもそれはダミーで、その証拠に魅力は伝わらない。それは、捉えきれない。

 更に野性爆弾について考えることは当初の問題意識さえも無効化してしまう。つまり「批評とは外部の視線の導入であるべき」なのか「批評は外部を語るべきではない」のか。既に「内部/外部」の境界が瓦解してしまった今となってはそこに違いなど無いし、どちらの方法を取っても彼らの魅力を減じることなく伝えきることはできない。

 ならばと、内容でダメなら形式面で彼らの笑いを反映しようと不条理に批評を展開してみても、このとおりダダスベリである。不条理な笑いは素人に簡単に真似できるようなものではなく、またしても僕は「外部」たる彼らの「内部」への取り込みに失敗する。

 失敗。失敗。失敗。

 しかし失敗を続ければ続けるほど、彼らの「外部性」は色濃く映し出される。少なくとも僕にはそう見えます。いや、ほんとに。で、それってとても重要なことだと思うんスよね。

 対象を批評しようとしながらも、絶えず「届きえない」ことを意識することを、僕はいつしか忘れていたような気がします。まず最初に「不可能」であって、だからこそ僕はそれでも論じ続けてしまうのではないか。

 「語りえない」ものは

 「限界」によって「示す」しかない。

 つまり「失敗」によって。

 

 不条理な笑いを創り出す芸人たち。

 彼らはただの野性の爆弾であり、彼らを語ることは彼らの面白さを伝えることにはなりえない。彼らはただの野性の爆弾であり。

 それでも、論じてしまう。

 何度でも、何度でも

 ふたたび失敗しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スペースキャンサーーーー!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(執筆:ブラック荻上

*1:ラッスンゴレライもジャンルとしてはおそらく不条理に分類されますが。

*2:千原円札に描かれた人。あまり関係ないがWikipedia野性爆弾」の項にも掲載されているほど千原ジュニア野性爆弾のたいへんお世話になっている先輩にあたる。

*3:ご静聴ありがとうございました。異常で荻上3の発表を終わります。次の発表は既に始まっております。ご期待

*4:

*5:奥歯

*6:WORD

*7:とりわけ女性に多いような気がするが

*8:前述のフットボールアワー後藤さんも、多忙なため不定期ではありますが、ギターとして参加されています。

*9:ド下ネタが多いのでご注意を。下ネタが受け付けない人にはおススメできません。

*10:多い

*11:いや言うんかい

*12:http://q9q.hatenablog.com/

*13:いや見えてくるんかい

*14:見えてきたあかんやろ、不条理じゃなくなってしまうので~~~~

*15:負リスク

*16:くーちゃん:野性爆弾川島さんの愛称

*17:食ってるんだ:「食ってんねん」の意

*18:余談であるがテレビで聞いた誰かのセリフに漢字を入れるかどうかは(どうかと思う)本当にその漢字が意図されたかどうかは決定不可能なのだ。

*19:スキトキメキトキス

*20:ヘルメストリスメギストス

*21:いや言わんのかい

*22:核心ですので。

*23:バロール

*24:チュール

*25:あるいは批評によって?

*26:So

*27:WORD

*28:POWER POINT

*29:OUTLOOK

*30:力尽きた

*31:わたし……残酷ですので

*32:化物語』って「物語化」だよね。

*33:極度の天然として知られる野性爆弾ロッシーさんは目の前で交通事故が起きた際「だから言うたやろ!」と言い放ったという逸話が残っています。