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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

かわいい反知性主義を生きろ

 さて、またしても、という感じですが批評再生塾の課題に外野からチャレンジさせて頂きたいと思います。

school.genron.co.jp

今回のテーマは、身近なものの中に潜む「アメリカ」、それを通してみる日本、日本人です。見出す対象は、あらゆる分野の作品、現象なんでも構いません。

 というのが今回の課題。

 それでは早速いってみましょう。

 

 

 ……と、思っていたのですが。

 残念ながら課題提出締切日は2日前に過ぎてしまっています。

 もちろん道場破りでは締切など関係無いとも言えるのですが、それも含めて最近ちょっと自分の姿勢がどうかと思うこともあり……ということは長くなるのでこちらに→*1

  というわけで(どういうわけだ)今回は課題にチャレンジという形はとりません。ただ課題について考える中でいろいろと思うところもあったので「課題を参考に」という形で記事を書いてみたいと思います。

 それでは、どうぞ。

 

アメリカ……?

 と、歪に意気込んでみたものの、いやはや困ったものです。

 アメリカってなんでしょう?

 みなさんわかりますか? 僕はもう全然、なにも思いつかなかったんです。

 アメリカというものがわからない。

 いやさすがに国であることは知ってますよ。でも例えばアメリカが何の象徴として読めるかとか、そういうことを僕は全然知らないなぁと、ふと気付いてしまったわけです。

 世間を知らない、社会を知らない、それゆえ、どう書いてみたものか、わからない。

 いま僕は、課題に対する批評再生塾生の方々の批評を読んだあとで書いているので、ある程度は分かります、ははぁなるほど「敗戦」をキーにすればいいのか、と(どれだけものを知らないんだという感じですが……)。でも、1、2週間くらい前からこうして悩んでいるわけで、そのときはなにも(ほんとうになにも)知らなかったんです。

 そこでまずはじめに一つの苦肉の策が浮かびました。

 言葉遊びでやってみること。

 言葉遊びなら前提知識がなくてもある程度できる。どういうことか?

 「ヤンキー」ですよ。

 最近話題の(すこし古いか)「マイルドヤンキー」から「アメリカの影」を見出せば、シャレもきいてていいのではないか。と思ったわけですがダメです。考えてみると「ヤンキー」と「アメリカ」は言葉の問題を無視してもイメージが最初から近過ぎて意外性が欠片もありません。しかも僕は「マイルドヤンキー」もまたよく知らない。(もう逆になんなら知ってるんだよ)(アニメとか……あ、でも最近忙しくてアニメもあまり見れてない)(お前は何も知らないな)(なにかは知ってるわよ、知らないことだけ)

 じゃあどうすればいいか。

 そう頭を捻っているとガガーーーンと閃くものがあったのです。

 それは今回の課題に提出された批評文のなかにも散見されたモチーフ、ビジネス・商業にまつわるすこし遠い記憶。

 新人研修のときの、グローバルマインド醸成的な……アレ!

 

忍びよるローコン

 日本は一般にハイコンテクストな文化圏だと言われています。

 コンテクスト、つまり文脈に大きく依存するコミュニケーション。典型的には「空気を読む」「察する」文化ですね。直接交わされる言葉の外にある「文脈」を利用することで「言わなくても伝わる」ことが多くなるわけです。

 一方アメリカは典型的なローコンテクスト社会でしょう。よく言われるのは移民が多い国はローコンテクストになりやすいということ。アメリカはブリバリに当てはまってます。まったく異なる文化的背景(文脈)を持つ者同士の社会では、共有できる文脈がそもそも少ないわけですね。例えば日本語では許される主語の省略も英語では許されない、ということも、こうしたコンテクスト依存度から言うことができそうです。

 というようなことを、習うわけですね。新人研修で。

 ハイコンテクストな日本、ローコンテクストなアメリカ、とまずは分けることができる。

 でも、

 果たしていまの日本は本当にハイコンテクストでしょうか?

 

 議論を始めればまず言われる「定義を明確に」、内容をそのまま説明してしまったかのようなラノベのタイトル、テレビを付ければテロップが頻繁に出て来て編集意図をしきりに「説明」し、笑い所さえ会場の笑い声に「指示」される。

 そこに日本的な「察し」の文化はありません。コンテクストではなく明確な指示。例えばテレビ番組における会場の笑いは、アメリカのホームドラマに挿入されるあの陽気な笑い声にいとも簡単に接続できるでしょう。移民の多いアメリカでは「ここが笑い所ですよ」と指示しなければならず(指示した方がうまくいき)、日本もそれに倣っている現状がある。

 ただし、こうした現状をそのまま批判するような、わかりやすくも平凡なことはしたくない。個人的にはラノベのタイトルはあれでいいと思っているし、そうでないものがあることももちろん知っています。議論に明確な定義が必要なのは当たり前でしょう。バラエティ番組の笑い声に対する批判も、これまで飽きるほど見てきたし、どちらかといえばそういう言説のいやな平凡さに辟易とするタイプなんです僕は。

 しかしそれはもすこしあとで話すとして、ローコンテクストという「アメリカの影」がどこから忍び込んできたのか、まずはそこを見てみましょう。

 

 ナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)

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  えー……すいません、上記の画像は話とはほぼ関係ありません。でも面白いですよね、これ。

 さて、「アメリカの影」はどこからやってきたのか、ということですが、わりに簡単な話です。そもそも僕が「ローコンテクストとハイコンテクスト」について学んだのはどこだったか?

 会社の新人研修。ビジネスの場です。

 上の画像でも言えることですが*2、ビジネスの場には着々とアメリカ的な価値観(個人主義、ローコンテクスト)が流入してきています。

 そしてそれは日本の状況変化にともなったものでもある。というのはつまり、交通の整備やインターネットの登場により、それまで「世界」とほぼ等価だった「ムラ」はそれぞれに接続され、異なるコンテクスト間のコミュニケーションが必要になってきます。ハイコンテクストな社会同士のコミュニケーションはハイコンテクストになりえません。なぜなら同じハイコンテクストでも共有するコンテクストの内容がそれぞれ違うからです。特にポストモダン以降よく言われるようになった「島宇宙化」に伴って、たとえ島宇宙内ではハイコンテクストなやりとりが通用しようと、島宇宙間ではローコンテクストにならざるをえない。こうした事情はもちろんビジネスの場にも出てきており、むしろビジネスの方がより島宇宙的で移民社会的です。なにしろ「外の会社」と取引しなければならないわけですから。またそれがなくともグローバル展開を望む上ではローコンテクストな「訓練」は避けられません。

 

ハイコンテクスト再考(ハイコンテクスト最高!)

 「アメリカの影」が忍び込み浸透した原因がわかったところで、もう一度「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」について考えてみましょう。

 「空気を読む」という言葉に代表されるように、ハイコンテクストは聞き手・読み手の側に文脈を加味して「聞く能力」「読む能力」を求めます。だからこそ話し手・書き手はある程度の情報の省略を許される。

 逆にローコンテクストでは話し手・書き手の方に責任の比重が寄っていると言えるでしょう。ロジカルに話し、書かなければならない。実際新人研修でもローコンテクストな訓練の大半は「話し、書く」ことについてでした。ローコンテクストに書かれた文章は書かれるべきことがすべて書かれているので、読んだり聞いたりするのがそれほど難しくはないのです。

 要するに、ハイコンテクストは聞き手・読み手に厳しく、ローコンテクストは話し手・書き手に厳しい。ということが言えそうです。

 このことから日本がローコンテクスト化していることが如実にわかります。

 

 いまの日本は話し手・書き手に厳しい社会です。

 漫画でも小説でも批判ばかりが台頭し、読者側の自省はあまり見られない。何か言えばすぐにツッコミが入り、創作者は過度に倫理的な態度をほとんど常に求められます。そしてそこから外れれば炎上。

 オリンピックエンブレム問題でも似たような事は起きていました。「デザイン業界特有の論理」という強いハイコンテクストに向けられた多くの批判は、すなわち「もっとローコンテクストに(わかりやすく明確に!)説明しろ!」というものでした。そう、テレビ番組のテロップや笑い声のように、ローコンテクストな社会では常に「説明」が求められるのです。それも明確な説明が。

 ここでようやく、テレビ番組のテロップや笑い声批判に垣間見える「いやな平凡さ」の正体が見えてきます。それは「説明」「指示」を行う日本のローコンテクスト化を嘆きつつ、製作者(話し手・書き手)側に責任を求めるというローコンテクスト的な態度から脱し切れていない。つまり矛盾しているんです。

 ここから、本当に取るべき態度が見えてきます。

 変わるべきは作る側じゃない、僕達読む側なんだ。

 ということ。

 

取り戻すためには

 バラエティ番組の「笑い声」で笑い所を「指示」されるから、それには従わず笑わない。俺は笑い所を指示されるような凡百とは違うのだ!

 って考えの悲しいほどの平凡さには涙が出るし間違っています。

 「ボケて」の画像ボケが貼られるスレで「全然面白くない」とアピールするような人間は、はっきり言って自分が思うほど平凡さから脱し切れてはいません。なぜならそこには「俺を笑わせてみろ」という受け身な態度が隠れていて、自分からはなにも創っていないからです。

 批評とは、読むこととは、創ることです。

 「笑い声」で笑い所を「指示」されたなら、笑えばいい。みんなが「ボケて」で笑ってたら、笑えばいい。あなたの個性を発揮するのはそのさらに向こう。「さらに笑うこと」。指示されていないところまで、皆が笑っていないところまで自分から「笑いに行く」こと。そこでようやく、僕達「読む側」の創造力が試されます。

 つまらなく感じたなら、笑いどころが見つけられなかったなら、それは「読む側」の自分が悪い。――極端にはそう思えるような精神がなければ、受け手側が創造力を発揮する(できる)状況は取り戻せません。

 

 また別の話をしましょう。

 先程も言った通り、ローコンテクストなアメリカ的な価値観はビジネスの場から流入してきています。逆に言えば、漫画家や小説家のようなクリエイター側にはまだあまり流入してきていないと言えるかもしれない。ビジネスとは少し遠い世界にいるからです。もちろん商業主義が無いわけではない。アメリカが無縁なわけでもない。でも恐らく、漫画家や小説家はデビュー前にローコンテクストなコミュニケーション能力を培う研修を出版社から受けさせられたりはしていないはずで、それはこうした創作の世界がビジネスの世界ほど明確な「利益/損害」の論理で動いていないからです。

 つまり変わったのは僕達受け手側で、僕達さえ再び変われば、日本の文化状況を変えられるかもしれない。

 

 では具体的にどう変わればいいのか?

 そんなことはわかりきっています。

 

 「かわいく」な~れっ!

 

「かわいい」を創ろう

  今回の課題について悩む中で、「ヤンキー」と「コンテクスト」の間にもう一つ、思い付いたアイデアがありました。

 「カワイイ」です。

 これはある意味ではとても順当な選択です。そもそも『動物化するポストモダン』が何故あれほどまでに衝撃的だったかと言えば、それまで極めて日本的だと思われていた「アニメ」の中に「アメリカの影」を見つけた――というスキャンダルの存在が一つの理由だったと言えるでしょう。つまり、我々が「日本的」だと思いたい・思いたがるモノについて「アメリカの影」を見出すのが一つの有効な戦略であり、一つの正着だと言えるのです。

 その意味で「カワイイ」は絶好のモチーフです。

 海外から日本の特異な文化だと見られていて、クールジャパン政策においても掲げられる、もはや日本のアイデンティティの一つ。そこに「アメリカの影」が混入していると言えれば、なるほどある程度のセンセーショナルさは確保できそうです。加えて『アメリカの反知性主義』と繋げてみてはどうだろう? 確かに、女性の言う「かわいい」に対する男性側の批判(「全然かわいくないものにかわいいと言う」)は、反知性主義に対する批判と繋げられるかもしれない。

 

 が

 

 つまらないんですよ、そんなものは。

 そもそも僕はずっと前から男性側からの「かわいい」批判の平凡さが、気に障って仕方が無いんです。まるで「本当に可愛いもの」と「本当は可愛くないもの」の別が客観的に存在するかのような言い様には自己自身への盲信が垣間見えるし、「かわいいと言ってる自分がかわいいと思ってるだけなんだろ」的な下衆の勘繰りには男性の不能さを見せつけられるようで、もうやめろ、と言いたくなります。そう、不能なのです。女性が本来かわいくないものを「かわいい」と言ってるわけじゃなく、女性の「かわいい」に対して僕ら男性は圧倒的に不能で、その不能が悔しいからなにやら負け惜しみを言っているに過ぎないのです。

 多くの男女関係では、男性は「かわいい」と言う側で、女性は「かわいい」と言われる側です。つまり男性側からの「かわいい」批判は、結局は言われる対象への批判(「そんなに可愛くない」)であり、やはり自己の感性への疑いがまったく見受けられない。単なる自己の絶対視。それではダメなんです。自分自身が「かわいい」と言われうる女性と、言われることの少ない男性と、どちらが「かわいい」について熟知しているか、言うまでもないでしょう。

 またクールジャパン政策において「カワイイ」文化をアピールすることが本当の日本文化の輸出にはならないことも付言しておきましょう。海外の、特にローコンテクストな文化圏の人々は、恐らくパッケージングされた「カワイイ」は理解できても「かわいい」は理解できないでしょう。それは日本人男性と同じく、不能であるからです。

 この圧倒的な「わからなさ」。それこそが「かわいい」の本質であり、それ自体「ハイコンテクスト」である証であり、そして「自分から笑いに行くこと」に繋がる。「笑い所を指示されたくない」と言いつつ「指示した以外のところで「かわいい」と言うな!」というのは哀れな矛盾に過ぎないのですよ。そして「言われなくても笑う/かわいいと言う」ことこそが「アメリカの影」に風穴を開けるきっかけとなりうる「なにか」なのです。

 「かわいい」は反知性主義的です。それは知性に反抗するという意味ではなく、知性では絶対に捉えきれない、という意味で反知性なのです。そこから「アメリカの影」に繋げることはできる。でも、それで捉えきれるような生易しいものではありませんよ「かわいい」は。なにしろ「かわいい」に「アメリカの影」を見ようとする営為もまた知性的な、知性の持つ不能性を回避できませんから。そういうやり方ではダメなんです。

 あくまで反知性的に「かわいく」あること。

 そして、言いましたね? 読むこととは創ることであると。

 つまり男性である僕達もまた、ほんとうにその気になれば、

 「かわいい」を創る

 こともまた不可能ではない。

 そしてそういう「賭け」、「命がけの跳躍」がなければ、

 ローコンテクストに侵食されつつある状況を変えることはできないでしょう。

 「説明」のできないなにものかの存在を感じて、それを――たとえ他者に理解されなくても「かわいくないだろ」と言われようとも――「かわいい」と言い続けること。

 そういう生き方っていま必要なん…………じゃなくって!

 

 必要じゃなくてもかわいく生きたいならそうしろってことだよっ!

 

 

 

(執筆:かわいい荻上かわいい)

 

※後日、「かわいい」についての自分なりの論考をまとめるつもりです。

※書きま↓

q9q.hatenablog.com

 

*1:そもそも、課題の真のターゲットである批評再生塾生のみなさんと、道場破りとでは、課題提出の重みとか意識が天と地の差なわけですよ、当たり前ですけど。だからこそ道場破りでは締め切りを度外視したりもできるわけで。もちろん道場破りが塾生と同じ意識を持つ必要はないし、そんなことは不可能だし、そうした意識の差は批評自体の質の差となって結局は表れるので最終的には帳尻が合う、だからいいとも言えるのですが、一方で、なんかなー、とも思うわけです。他の誰かが極めて慎重に綿密に緻密にやっていることを、自分だけは不可避に相対的に不真面目になってしまうというのは、あまり気持ちのいいことではありませんよね。道場破りがもっと増えればそうしたある種の罪悪感も軽減されるんだと思いますが、ってつまり、塾生と道場破りの間にある如何ともし難い「差」を明言した上で、道場破りを続けるというのが、現状ありうる倫理的な態度……だといま僕は思ってるわけですが、実際どうなのかはわかりません。ともかく僕は、道場破りとして、一本線を引いた上で、その「外」で、質の低さを見苦しくエクスキューズしながら書いてみたい、と思うわけです。本当に、過度に自意識過剰なのが自分でもまざまざとわかって嫌になりますが。

*2:まぁこの画像はパロディで、元の漫画について言うべきですが