話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

かわいいと批評 死角にあるもの

 前回の記事の後半で「かわいい」について触れ、その可能性についても書きました。

q9q.hatenablog.com

  ただし「かわいい」について説明が不十分だなとも感じていて、それについて今回は書いてみたいと思います。

 

 なお、前回の記事にも書きましたが僕は男性です。そして基本的には「かわいい」について男性は「不能」である(「かわいい」をうまく感じることができない)というのが僕の考えです。もちろんすべての男性がそうなわけではないし、女性なら必ずわかるわけでもない、非常に大雑把な確率的な話でしかありませんが、僕自身が特別「かわいい」に敏感な人間だとは思っていませんし、むしろ鈍感な方かもしれないと思っています。そんな人間が「かわいい」について語るのは奇妙だし役に立たないと思われるかもしれませんが、とにかく語ってみます。それでは、どうぞ。

 

入門編:僕なりの「かわいい」仮説

 さて、しかし「かわいい」ってなんでしょうね?

 まずは地道に考えてみましょう。

 それはたぶん、長く考えてやっとわかるようなものではない。だから例えば小説のある一節が「かわいい」と感じることはあっても、全体を見て「この論理展開がかわいい」ってことはあまりなさそうです。「かわいい」はロジカルに演繹したり帰納したりするものではないんです。(この手の間違いを犯している男性はわりに多いと思います。)それは瞬間的で感覚的なものだとまず言えるでしょう。そして事後的に確認されるものです。「ここがこうなってあそこがああなるから、あと5秒後にわたしはかわいいと思うはずだ、3,2,1……かわいい」なんてことはまずないわけです。「かわいっ……あっ、いまかわいいって思ったんだ」の方が近いわけですね実態に。それは「あってしまった」ものであり、あってしまった以上あとから否定することはできません。かわいいと感じた事実はもう覆せないんです絶対に。

 男性は基本的に「かわいい」について不能である、と書きました。それは「男性は論理的思考に拘泥しがちである」*1という偏見に基づいたものですが、つまり本当に言うべきなのは男女関係なく「論理と「かわいい」(という感覚)は相性が悪い」ということですね。論理という道具の基本的な使い方はある事実から別の事実を導き出したりすることですが、「かわいい」という感覚は既にあってしまった事実としてしか存在せず、そこから別の事実を導くこともない、論理の仕事がどこにもないような場所なわけです。

 で、唐突ですけど(論理が使えない以上唐突でしかありえないわけです)僕は実は「かわいい」についてある仮説を持っています。不能な論理偏執狂たちをすこしだけ有能に近付けられるような仮説を。仮説というか解説ですね。

 つまり

 

 かわいいとは統一性のことである

 

 ということです。

 これは結構前から思っていることなんですよ。男性側から見てどう見ても「かわいい」と思えないものを「かわいい」と言う女性、この断絶はそもそも「かわいい」の前提が違うから起きていて、女性はある種の統一性について「かわいい」と思える能力があるのではないかと。

 不能な僕達にもわかりやすい例を言うと、例えばパグですよ。

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 かわい、

 おっと。ともかくパグです。

 この超渋いおっさんみたいな外見にもかかわらず、「かわいい」と女性に人気なパグ。どうしてパグはこんなにブサイクなのに。でも印象として統一感はあるんですよね。「おっさん」あるいはもっと的確には「パグ」という方向性に向かってすべてのパーツが用意されているような、妙な納得感がある。もしかして、これが、この気持ちが……「かわいい」……?

 ファッションという分野においても「統一性」は非常に重要な要素だと思います。僕は全然疎いですけど、まぁでも恐らくそうなんですよ。一つのコンセプトがあって、そのコンセプトに向けてすべてのアイテムが用意される。そうして提供される一つの統一的な「スタイル」「イメージ」がファッションにおける至高性ではないか、と思うわけです。例えばきゃりーぱみゅぱみゅさんのファッションとか典型的にそうじゃないですか。必ずコンセプトがあって、奇矯に見えるいろいろなアイテムもコンセプトから見ればむしろ正着だったりするわけです。

 もちろん、統一性だけが「かわいい」ではありません。そこから「あえてはずす」こともまた別のイメージを掻き立てるような、「かわいい」への道として十分にありえるでしょう。例えば上の画像の左のパグの顔をじっと見てください。それからそっと身体の方へ視線を移す。奇妙じゃありませんか? しわの寄ったおっさんみたいな顔と、小型犬のそれだけでかわいいような健気な身体。まるでキメラのような不自然さがある。が、いい。統一性のような秩序的な要素だけでなく、そこから外れた歪な不調和もまた「かわいい」の源泉なんですよ。もっとも不調和は一度秩序を形成してこそありえることで、初心者の僕達はまずは統一性から学んでいくべきだとは思いますが。

 

 というのが、この節の題のとおり「入門編」です。もちろんこれだけで捉えきれるような生易しいものでは「かわいい」はない。もうすこし奥へずずずいと進んでみましょう。

 

中級編:ハイコンテクストな「かわいい」

 なんだか前回の記事へ逆戻りするようですが、まぁそうなんですよ。

 僕はこれまでずっと「かわいいとは統一性とその「はずし」」だとずっと思ってきたんですが、前回の記事を書きながらもうすこし違う考えも浮かんできた。

 

 かわいいとは文脈である

 

 のではないか、という考えです。

 たとえ統一性があっても、女性にとっても「かわいくない」ものってあるわけじゃないですか。それと「かわいい」統一性との違いとはなにか? とか、「かわいい」は身体的な感覚である、と言い切ってしまっていいのか? とか考えているうちに「文脈じゃないか」という考えがふと浮かんできました。

 ファッション業界のトレンドは常に移り変わりますし、そもそも「ファッション」とは「流行」のこと。「かわいい」の流行もまた多くの「移り変わり」を経ています。こうした「移り変わり」は単に「身体的な感覚」では説明できません。また男女の話になりますが、女性はこういう「移り変わるもの」の扱いが非常にうまいと思うんですよね。男性はわりと苦手なことですよ。だからこそ時間性・歴史性を超越した「真理」とかを追求してしまうわけで、「流行」への男性側のシニカルというか軽蔑的な視線は、そういう不能さの裏返しだと思いますね話が逸れましたが。

 ともかく、ファッションなどでもいわゆるファッションリーダーと呼ばれるような人が着たものが次に流行ったりするわけで、それって端的に言えば「文脈」の創出なんじゃないかなと思うわけです。そしてそうなってくると男性と女性の、間に「かわいい」をはさんだ断絶もよくわかります。「文脈」はそれが共有されない「外部」との断絶を生みますから。そして例えば、女性が「今度の合コンに来る子、超かわいいよ」と言って男性が期待したが、実際に会ってみるとそう思えなかった。というような残念エピソードも、「女性がかわいくない女性を「かわいい」ということでハードルを下げようとした(相対的に自分を上げようとした)」とか「かわいいと言う自分がかわいい」といううんざりするようなよくわからない理屈ではなく、「女性同士の間では「かわいい」文脈が既に形成されていたが、男性には共有されなかった」という不幸なすれ違いだと解釈できるわけです。

 「かわいい」には文脈がある。という考え自体、結構男性には受け入れがたいものかなと思います。そしてここで話を逸らしてみたい。何故かと言えば、同種の困難を抱えている分野があると思うからです。

 批評です。

 

番外編:批評と外部と文脈と死角

 批評とは外部の視線の導入である。

 という考えはこれまで何度か紹介してきましたし、僕自身概ね同意するところです。

 このとき「外部」とはなにか? いろいろ考えられると思います。わかりやすいのは「主要な需要者の外部」でしょう。例えばあるアニメについて、そのアニメのファンコミュニティの外側から作品を見てみる。外部から見ることで新たに見えてくるものがある、というようなことです。

 しかし「外部」はもっと広くも取れるはずです。「作品」にとってのあらゆる「外部」が原理上「新たな視点」を生みうるでしょう。ここで「外部」は「文脈」と言い換えられる。そして「外部」から見て、異なる「文脈」の中に作品を置くことは、言ってしまえば情報の結合です。

 そして

 それ(批評)って、誤解を恐れずに言えば、とても迷惑な話だなぁと、批評のことを考えるにつけ思うわけです。

 どういうことか?

 ある作品Aがあったとしましょう。それは作品単体ではとてもつまらないもので、多くの人に叩かれているとする。しかし例えばある経験Bを持っている人には輝いて見える。つまり作品Aを経験Bと結合してABとすることで、作品Aは(ABは)輝くわけです。

 このとき、経験Bを持つ人物Cが作品Aを批評したとしたら。

 Cの語るABの輝きは間違いなく本物です。しかし経験Bを持たない人には届かない。的外れとすら感じられるでしょう。しかし批評をする人間ならその断絶自体は理解できる筈です。「ああ要するに経験Bがあればこう感じられるんだな」と。このとき、Cの批評に共感できないが理解はできる人間Dは作品Aを叩いていいでしょうか?

 経験Bという「文脈」の上に置くことでしかABという輝きをみせない作品A。それは万人にとって素晴らしい作品でないにしても一部の人にとっては素晴らしい作品です。ABという輝きはDには見えない。経験Bを持っていない人間にとってそれは「死角」にあるのです。でも見えなくても「そこにある」ことはCの批評からわかる。この作品A単体の中には存在しない、「外部」にあるABという輝きを、Dは踏まえて叩かなければならないのか? それとも踏まえる必要はないのか?

 とても難しい問題ですよこれは。倫理的な問題である以上答えはない。各々が判断するしかない。しかしDが叩けば(それが正当な反応かはともかく)Cは傷付くという事実は確かにある。答えが無いからといって無責任になんでもやっていいわけではない。

 DにとってCの批評はある意味では迷惑ですらあるでしょう。作品Aを叩くときに作品Aの外部にあるABのことも考えざるをえなくなる。ときにその批判の手を止めてしまう。無論Cの存在はその背後にC’、C’’、C’’’の存在を――つまり別の経験B’、B’’、B’’’と、別の輝きAB’、AB’’、AB’’’の存在を――感じさせるでしょう。そうなればもはや可能な批判などどこにもない。かくなるうえは、批判をするにはCもABも無視するしか選択肢は残されていません。そしてそのときD自身の批評の一部も無視を許可せざるをえなくなるでしょう。

 もちろん経験Bが比較的簡単にインストールできるような場合もあります。ただ批評を読めば自動的にインストールされるような場合さえある。しかしすべてがそううまくいくわけではない。「新たな視点」とは言い換えれば「死角」であり、その存在を認識するか否かで世界や態度は180°変わってきます。

 

 というような困難を「かわいい」にも見ることができます。むしろすべての困難はそこにあると言ってもいい。

 「かわいい」は不能な僕達の「死角」にあり、それは今後の努力次第で「新たな視点」として理解し還元できるかもしれないし、永遠にできないかもしれない。そのとき僕達が取るべき態度は「無視」なのか「軽視」なのか「蔑視」なのか「否定」なのかそれとも

 肯定

 なのか?

 あるいは別の?

 わからない。

 でも僭越ながら一つアドバイスするなら、その場その場でその場しのぎに考えるんじゃないくて、予め全体をコーディネートするべきですよ。

 統一性です。

 そこから「あえてはずす」にしても一度は自分の態度全体を統一させておく必要がある。でないと「はずし」ても劇的でもなんでもなく、埋もれてしまいます。

 つまり統一性もまた「文脈」なのですよ明らかに。内部の文脈を「統一性」と呼び、外部の文脈を「流行」と僕達は呼ぶ。そう簡単には言えるでしょう。「かわいい」とは単なる身体的な感覚ではなく、文化的・社会的な文脈を必要とする感覚なんです。いずれにせよ。

 その永遠ならざるもの、あるときには事実であり少し経てば嘘になるもの、瞬間的なイベントでそれ以上のなにものでもないもの、ある人には自明だけどある人には死角にあるもの、時間的にも空間的にも局所的にしか存在しないもの、外部、迷惑、しかし覆すことのできない「あってしまった」事実――そんな「かわいい」の扱いが僕達はものすごく下手です。下手糞です。ありえないほど。へたっぴ。

 でもすこしずつうまくなっていけばいいなと思います。だって僕達は一人で生きてるわけじゃなくて、外部に絶えず触れながら、外部の人間とのやりとりの中で生きてるわけだから、人を傷付けなくないようになるにはうまくなるしかないし、それをサボるような人間にはなりたくない。

 だから

 

 「かわいい」って言われたら

 「かわいいね」って言いたい

 

 

 

 

 

 

 

 

(執筆:かわいいね荻上かわいいね)

*1:もっとも、拘泥するだけで、実際に論理的である場合はかなり少ないし、女性と同程度だと思っています。むしろ「自分は論理的だ」という思い込みが激しくなりやすい分、わるいかもしれませんね。