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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

存在論的、郵便的に思い出せ/踊り出せよディスコテック!

 いま東浩紀さんの『存在論的、郵便的』という本を読んでいるんですけどこれが非常に面白くてそれも単に面白いだけじゃなくて本の中で論じられるいくつかのガジェットというか方法というか見方みたいなものを自分でも使ってみたいという気持ちにさせられるああこういうのが優れた批評なんだなと感じさせられるそんな本を読んでいるものですからちょっと思いついたことを書いてみます。

 僕は大抵こういう哲学系の本を読んでいると思考があっへこっちへ飛びます。つまり本の中である主張が為されたとき「ではすこし似たあの例ならどうだろう?」とか「あれに適用するとどうなるかな?」とか絶えず考える癖があって、今回もそれですこし思いつくものがありました。それというのは、すこし前に読み終わった舞城王太郎さんの『ディスコ探偵水曜日』に『存在論的、郵便的』の観点を挟んで解釈してみる、というものです。

 といっても『存在論的、郵便的』をまだ読んでる途中で*1、もしかしたら今後読み進めていくと僕の頭の中にある構図が崩されるなんてこともあるかもしれませんから*2、そのつもりで、読んで頂けると幸いです。

 

自己言及で脱構築 -ゲーデル脱構築

 『存在論的、郵便的』の僕が読んだ範囲では*3ジャック・デリダは二種類の「脱構築」を行ったとされます。その一つめが本書で「ゲーデル脱構築」と呼ばれるもの。論理的な脱構築とも言えるであろうやり方から、まだもう一方の脱構築よりはわかりやすい脱構築、と言えそうです。

  ゲーデルの名を冠すことで匂わせているように、その方法は「自己言及」によって特徴付けられます。自己言及は様々なパラドクスの宝庫ですが、それに「脱構築」という新たな姿・名前を与えたと言えるのかもしれません。

 それはまた「代補の論理」という言葉によって説明されるようです。プラトンの対話篇『パイドロス』をとり上げた「プラトンパルマケイアー」に例を借りて、以下のように説明されます。

エクリチュール(書くこと)はまず記憶を代補するものとされる。しかし現実には、ひとは書き記すことによって、むしろ気を抜いてそれを忘れてしまうことがある。それゆえソクラテスは同時に、しっかりと記憶するためにはむしろ書き記さないべきだ、というアドヴァイスもまた行わねばならなくなる。しかしこれは矛盾している。エクリチュールは記憶を補う(強化する)と同時に脅かす(弱体化する)というのだから。

  こうした自家撞着的な論理の、ゲーデル的自壊の地点を暴露するのがゲーデル脱構築、というわけですね。

 さて、ここで僕は思い付きます。あるものがなにかを代補するせいで、むしろそのなにかが必要なくなってしまうような、そしてそれによってなにか困るような関係、そして「自己言及」……なにかに似ていないか? なにかこれに似たものを僕は知っていないか?

 タイムパラドクスです。

 突然ですが。

 簡単なタイムパラドクスを考えてみましょう。

 Aさんがあるとき交通事故に遭う、しかしAさんはタイムスリップの能力を持っていたので、過去に行って自分にぶつかるはずの車を止めて、交通事故を前もって止めることができました。車を止めて胸をなでおろしたAさんはふと思うのです。「これで事故は起こらないはずだが……気付かずに無事だった過去の<俺>は果たしてこのタイムスリップをするだろうか?」

 タイムスリップで安全を手に入れたせいで、むしろタイムスリップ自体が不要になってしまう。ことによって生まれるパラドクス。

 そしてタイムスリップ、とりわけタイムパラドクスを起こすようなタイムスリップはどれも優れて「自己言及」的です。時間を超えた自己言及、それゆえにこそパラドクスは起こると言えるのかもしれない。

 この時点で、へぇ、タイムパラドクスって自己言及のパラドクスの一種として考えられるんだ、と我ながら感心しつつ面白いなと思ったわけですが『存在論的、郵便的』は当然ながらそこで終わりません。

 

否定神学脱構築 -デリダ脱構築

  『存在論的、郵便的』では、デリダ以外の者も様々な形でゲーデル脱構築を行っていたことが示されます。もちろん「ゲーデル不完全性定理」もまたその一環として考えられるのでしょう。

 しかし『存在論的、郵便的』で強調されるのは、そうした他者のゲーデル脱構築に対する、デリダの否定的な反応でした。そしてそれは、ゲーデル脱構築が既存のシステムを自己言及によって批判しつつ、その裏で「否定神学」というまた別のシステムを安定化させてしまう、ということへの拒否の身振りとして解釈されます。

 では「否定神学」とはなにか? 僕の解釈ではそれはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で「語りえない」(そして「示される」)ものと呼んだものに近そうです*4。つまり「それは~で、…で、ーなものだ」というように積極的に語ることはできず、「~でなく、…でなく、-でなく……」と語りうるものをすべて語った後で限界として「示される」もの、そのような対象ならざる対象を超越論化するものが「否定神学」だと言えそうです。

 つまりゲーデル脱構築は語りうるものすべて(システム全体)の決定不可能性を導くために、その残余として残る脱構築不可能な「語りえないもの」を不問にし、超越論化してしまいがちである、ということですね。

 そこでこの否定神学的な超越論化、「語りえないもの」の単一性を複数化し、超越論化できなくするために「デリダ脱構築」は立ち上げられます。つまり単一の「語りえないもの」を見出してそれを中心とした否定神学的なシステムを構築するのではなく、一回一回の伝達(コミュニケーション)の中にすこしずつ決定不可能性を見出していく、というやり方ですね。

 言い換えればそれは、システム全体を脱構築する代わりに一回一回の伝達を脱構築する方法、と言えそうです。また僕なりの解釈ではそれは「過程を思い出させること」です。

 

 さて、そろそろ 『ディスコ探偵水曜日』についても語りましょう。そもそも前述のタイムスリップに関する着想も、実はこの小説のことを『存在論的、郵便的』を読みながら考えていたときに、思い付いたものでした。

 

時を超える神話と、気持ちの問題

 『ディスコ探偵水曜日』には様々な形でタイムスリップが登場します。時を超える手紙、未来の身体への急激な成長と逆戻り、折り曲げられた時空、時空に関するいくつかの仮説、時空を曲げ、時を超える主人公・ディスコ。

 つまりそこには既にゲーデル脱構築が用意されている。

 ではこのような時空の超越が生み出す否定神学とはどのようなものでしょうか?

 その一例もまた、この小説の中に発見することができます。

 主人公のディスコ・ウェンズデイはひょんなことから引き取った6歳の少女・梢の未来の17歳の梢と手紙のやりとりをしたり直接会ったりします。未来の梢は既にやりとりした後の手紙をすべて見ている。つまりこれから繰り広げられるはずのやりとりを既に知っているわけで、一方で既に知ってるやりとりを踏襲しなければ矛盾が生まれて大変なことが起こるのではないかと恐れています。そこでディスコはすべてのやりとりをもう全部予め書いておくことを提案する。あとは手紙を使わずにコミュニケーションすれば矛盾は生まれません。

 そうして機械的に書き写された手紙は将来的に、次の(?)未来の梢に見られてまた「矛盾を生むのでは」と恐れを抱かれ、ディスコに書き写すよう提案されるでしょう。そして書き写された手紙はまた未来で未来の梢に見られて……とはじまりも終わりも見えない「円環」が形成されます。

 このような時を循環する円環が小説の中でいくつも登場します。それは根本的には「矛盾」を避けるためのものと言えるでしょう。また時空の構造に関して名探偵たちが議論する場面でも「矛盾を生まないような仮説」が模索され、その中で行われた実験により「過去も未来も変えることができない」ことが結論されます。

 そして物語の展開上、「過去も未来も変えることができない」ことは絶対的な絶望であり地獄となってディスコに襲い掛かります。

 時空の超越という自己言及的なゲーデル脱構築が生む矛盾、を避けるようにして形成される円環と仮説と、その結論としての「過去も未来も変えることができない」こと。つまりそれが否定神学です。

 時空の超越というゲーデル脱構築によってむしろ強化されてしまう「過去-現在-未来」の一直線性・単一性。まさしく『存在論的、郵便的』で語られる構図です。

 

 ではディスコは、どのようにしてこの否定神学に立ち向かうのか?

 どのようにしてデリダ脱構築を行うのか?

 そこに「過程を思い出させること」が効いてきます。

 そもそもこの小説に『存在論的、郵便的』の脱構築モデルを適用することには危うさがあります。というのは否定神学として名指される筈の「円環」が「手紙」によって為されているからです。「手紙」「郵便」はデリダも多用し『存在論的、郵便的』の中ではデリダ脱構築を象徴する隠喩。つまり位置が逆です。しかしそこが重要だと思う。

 つまり時空の超越をただの時空の超越と自明視し、「矛盾」を避けるから否定神学に向かうのであって、「そもそもどうやって時空を超越してたんだっけ?」とその過程を思い出し、その不確かさを自覚する必要がある――つまり、「手紙」を使っていたってことを。

 物語のわりと序盤から一つのセリフが何度も反復して登場します。

この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?

 そして時空を曲げたり超えたりするのも、意志の力です。意志は運命に抗える。時空さえも捻じ曲げて。「矛盾」さえも取り込める。その過程を思い出すこと。隠蔽された一回一回の「意志」という不確かさを思い出すこと、このデリダ脱構築によって、ディスコは「過去も未来も変えることができない」という呪いのような結論を打ち破ります。

 

 『ディスコ探偵水曜日』の展開は、驚くほど『存在論的、郵便的』の脱構築モデルと一致しています。「幽霊」というワードもすこし強引にですが関連付けさせることもできるでしょう。そしてここでふと思い出すのは、同じ舞城王太郎さんの『ディスコ探偵水曜日』より前の作品『九十九十九』と、それに対する宇野常寛さんの評価です。

 

九十九十九』を超える

 僕は『ディスコ探偵水曜日』と同じくらい(つまりとっても)『九十九十九』という作品が好きなのですが、宇野常寛さんの評価は芳しくありませんでした。『九十九十九』の終盤に現れる「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」という一文に対して「そんなの当たり前じゃないか」と言ってのけた宇野常寛さんの言葉が、『九十九十九』が好きなだけにわりと長い間気にかかっていました。

 もちろん『ゼロ年代の想像力』の中に書かれた宇野常寛さんのこの評価は、同じく『九十九十九』を取り上げた東浩紀さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』に目配せしたものです。そしていまとなっては宇野常寛さんの批判は、ある否定神学への批判と読める。

 『九十九十九』にもやはりタイムスリップが登場します。『ゲーム的リアリズムの誕生』ではそのループ構造に似た構造に目が付けられ、「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」はこのようなゲーム的リアリズムにより可能となった「一瞬」の肯定と考えられるわけですが、これは否定神学的です。つまりタイムスリップというゲーデル脱構築により脱構築不可能な「特別な一瞬」「この一回性」に超越論性を見出すという構造が、です。*5

 しかしこのようなゲーデル脱構築による否定神学さえ「当たり前」になってしまい、もはや「特別な一瞬」「この一回性」に超越論性を見出せなくなったのが「いま」の主に若者であり、その帰結が「決断主義」なのでしょう。つまり「決断主義」とは、ゲーデル脱構築が氾濫し濫用された末に、結局デリダ脱構築が選ばれなかった際の思想形態だった、ということに恐らくなるわけです。

 こうした『九十九十九』が抱えた課題に対して、『ディスコ探偵水曜日』は一つの答えを返すことができた、ともしかしたら言えるのではないでしょうか?

 デリダ脱構築、「過程を思い出すこと」によって。

 

思い出し続ける探偵・ディスコ・ウェンズデイ

 「決断主義」への処方箋として読めそうだということを確認したいま、改めて『ディスコ探偵水曜日』について考えてみましょう。

 迷子専門の探偵だったディスコは物語の終盤、将来的に誘拐犯になることが明らかになります。そしてそれは子供たちを虐待し、その痕跡を隠蔽する「地獄」と化してしまった社会から子供たちを救うためでした。この未来の社会の構成員は「虐待」という地獄を意図的に忘れようとしている。それを思い出させるのがディスコの役割です。

 また物語に頻出する「文脈」という単語。すでに登場しているアイテムや事件を別の文脈の上に置くことでいままで見えていなかった道筋(新たな文脈)を見出すいくつもの「推理」はまさに「思い出すこと」と言えるでしょう。「思い出すこと」は『存在論的、郵便的』の言葉で言えば「デッドストック空間(郵便空間)からの幽霊的な回帰」だと考えられます。「推理」の場合は物語の中に散りばめられたアイテムや事件が「今後使われるかもしれない(使われないかもしれない)」デッドストック空間として考えられるわけですね。アイテムや事件は何度も、その度に形を変えつつ推理の中に「回帰」する。それはまた情報伝達の速度のギャップの効果として『存在論的、郵便的』に近付けて解釈できます。*6

 またディスコの頭の中(地の文)では過去のセリフがいくつも何度も何度も太字で示されつつ回帰します。太字以外でもディスコは常に過去のことを思い出し考え続け、そのせいで小説は上中下巻という長大なものになっています。そもそもディスコが迷子専門の探偵であることも「失われた道筋を復元し、迷子を見つける」という極めてデリダ脱構築に近い位置にディスコがいることを示すと言えるでしょう。

 ディスコは、一つの円環だった世界から世界の果ての向こう側の新たな世界を拡大し解放します。そしてこの時間の逆流により隔てられた新たな世界へ飛ぶ方法自体もまた、暗闇の中で孤独になり、逆説的に「我々が世界(時空)を構成していたのは他者とのやりとりにおいてだった」「完全な孤独の中では時間の流れさえも他者に規定されず、自由にできる」ことを思い出すことを通してのものでした。

 

 僕達の社会では、いろんなものが脱構築され過ぎています。

 自己言及という意味でのゲーデル脱構築は、コツさえつかめばいろんなものに適用できるように思います*7。それゆえ僕達は、恐らく日常的にいろんなものを脱構築し、脱構築し過ぎているためにもはや否定神学さえ描けない。空虚です。

 しかし本当はそんな簡単なはずはないのです。僕達がなんでもかんでも脱構築してしまえるのは、一回一回の伝達の不確かさを忘却しているからであって、一回一回の伝達の不確かさを思い出せば、途端にゲーデル脱構築は難しくなる。というよりできなくなる。そのとき一回一回の伝達それぞれに「語りえないもの」が宿り、そのせいでシステム全体はそもそも見渡すことができなくなっていますから。

 決断主義への処方箋はたぶんそんなところに、つまり一回一回のコミュニケーションを丁寧に思い出し、その不確かさをその度に受け止めることによって、可能になるんじゃないか。

 そう思えます。

 

 

(執筆:荻上C)

*1:だいたいいま半分くらいです。

*2:実際にそういうことが前にありました。浅田彰さんの『構造と力』の前半を読んでるときに思い付いたことが、後半になってみごとに批判されてしまったのでした。あとから考えれば、構造主義を解説する前半とそれを批判しつつ生まれるポスト構造主義を解説する後半という構成上、当たり前の話でしたが。

*3:以下、「僕が読んだ範囲では」は省略します。

*4:それゆえ『論理哲学論考』自体も一つの否定神学と言えるのかもしれません。

*5:このほか同じく宇野常寛さんのセカイ系批判も同じように読めるでしょう。例えば彼はセカイ系的な態度を碇シンジ的な「ひきこもり系」と呼んだわけですが、「何かを選択すれば必ず誰かを傷付ける」から「何も選択しないでひきこもる」「~しない、というモラル」はやはり否定神学的です。

*6:小説の中でも実現はされませんでしたが、空想はされた「誘拐した子供の保管場所」に関する仮説は速度のギャップをデッドストック空間に繋げる『存在論的、郵便的』の議論と非常に近似しています。時を越えられる誘拐犯である未来のディスコは、もし親にあとで返す予定があるなら、何億人という子供を保管するためにほんの少しのスペースしか必要ありません。つまり、ある時点で誘拐し、ほんの一瞬だけ狭い場所に子供を置く、そして未来に行って親に子供を返す。それを繰り返すだけで最小限の保管場所で何億人の子供でも誘拐できます。そしてそのようなデッドストック空間が可能なのは、時を超えるという極端な速度のギャップによってだと言えます。

*7:もちろんその手際の鮮やかさはかなり属人的にならざるを得ないし、大半の人のそれは非常に不格好な、なんとなくのものでしか無いでしょう。それでも、できることはできてしまうわけです。