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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

批評について本気出して考えてみた

批評的な

 これまで本気を出していなかったというわけではもちろんないし、僕の本気などたかが知れていますが、一度、まぁ、自分の本来の思考に沿ってそろそろ考えてみようかなと思い書いてみます。

 というのも僕はもともと理系出身で、思考の傾向もそっち寄りでして、「理系文系の区別はナンセンス」という方もいらっしゃいますが、理系の人間が人文知に触れてみるとこれまでになかった種類の面白さがある、なんて状況に出くわしますと、やっぱりあるのではないかと、いい意味で。

 で、これまでは一応自分なりに文系的に、順応して考えようとしていたわけです。実際それで楽しかったしこれからも続けるつもりですが、別の方法があることもまた事実。

 といって、僕自身よっぽど理系的かと言えばそうでもなく、もともとかなり中途半端な人間ですから、なにか微妙な結果が出ることうけあいですが(もしかすると結果と言えるものはなにも出ないかもしれませんが)ひとまず、やってみましょう。

 

Step1.昔の自分を思い出す

 まずはいまよりはずっと理系的だったと思われる昔の自分について思い出してみることで<彼>を再び僕の中に召喚してみましょう。

 僕はその昔、わりと単純で素朴な唯物論者でした。文系領域で「唯物論」がどのように用いられているかすこし知ったいまでは「あまりに深みが無いなぁ」と思えるほど単純に素朴な唯物論者でした。

 そんな自分が「批評」というものをどう見ていたかと言えば、まぁ「軽蔑」が大半だったと言わざるを得ないでしょう。一方で昔から小説は好きでしたので「なにか今の自分には計り知れない「なにか」があるのかもしれない」という畏怖・畏敬に似た感情も一部にはあったような気がします。

 そんな<自分>に今から戻ります。

 

Step2.「評価」型批評についての軽蔑

 これは今でもほとんど変わらないことだが、俺は「評価」というものを殆ど軽蔑していた。

 なにしろどう考えても評価をするための基準は恣意的にならざるを得ないからだ。要するに結局は個人の「好み」でエイヤッと決めるしかないし、従って極めて主観的な、客観的にはなりえない「評価」しかありえない。

 価値判断は必ず根拠なしに行われる。ここで「自分の感情を根拠にしている」とか「社会的な背景を根拠にしている」と考えてはならない。自分の感情とか社会的な背景といったものを評価の根拠とする根拠が無いからだ。それはいつでも別様でありうる。別のものを採用してもよかったし、別のものを採用すれば結論が変わってしまう以上、その結論に論理的・客観的な信頼は置きようが無い。

 一方で「評価」「批評」という言葉はそのあるはずの無い論理性・客観性・一般性を装っている。その不正が非常に腹立たしい。氏ね。あと評価主体を省略しようとすんな。「あの作品はつまらない」じゃなくて「あの作品は俺にとってつまらなかった」だろうが。それ絶対わざとやってるだろ、隠蔽しようとすんなよ個人的・主観的であることを。

 要するにさ、不可能なんだよ「評価」なんて。「批評」も「批判」も*1

 可能だと思ってる奴は勘違いしてるんだ、論理とか、世界のありようといったものを。ある種の宗教だよ。

 そもそも科学的な見方とはある個別の現象とある個別の現象の中に共通性を見出して点と点を線でつなぐように関数にすることだろ。一面を言えば。法則が個別の現象より上位にあるってのは理想的にはそうだが、実際には(実験的には)逆だよ。発見した法則がある個別の現象を説明できなければ、法則の方が間違ってるんだ。修正しなければならないのは個々の現象ではなく法則・理論の方だ。当たり前だろ。

 お前がどれだけ馬鹿馬鹿しいと思おうがワンピースで感動した奴の感動は確かに現象としてあったし、それを否定できる法則や理論なんてものは存在しないんだよ。むしろその感動を通れる関数、説明できる理論こそが必要でそれ以外は端的に間違ってるんだ。いい加減気付けアホ。そもそも理系に文系がまだ「隙間の神」として守れてる感じなのはクオリアとかコギトとかだろ? ワンピースへの感動とかまさにそれじゃん。それ否定してどうすんの。単純に戦略的に間違ってるよ。自殺だ自殺。

 

 みたいな話があって、ある程度はいまの僕も同意なわけです。

 当時の僕はそれが批評のすべてだと思っていました。要するに論理もわからんアホが勘違い披歴してるだけのことだと。

 しかし批評について探ってみればみるほど、むしろ僕はその界隈での蓄積に激しく頷かざるを得ないことが往々にしてあったのでした。

 

Step3.文系と理系の相性の良さ

 理系と文系が対立するなんて思ってる奴は単純に分かってないだけでさ、同じ「論理」という道具を使う以上似てくるのは当たり前なんだよ。どういう風に似てくるかっていうと、現象とか経験といったものを論理でバラバラに分解していくんだから基本的に相対化の道しか辿らない。理系にない(と思える)ような方法と言えばニーチェみたいな系譜学的なやり方くらいじゃないか? あれはいいと思うね。その系譜学的なやり方にしても基本は相対化だ。まぁ当たり前だよな。

 ポスト構造主義とかスーパーフラットとか、ああいう相対化を見るたび俺はゾクゾクして、ああやっぱ文系も相対化なんだな、仲良くできるじゃん、と思うわけ*2。じゃあ2chでよく見た「評価」ばっかやってる勘違い野郎どもは一体どういう存在なんだ?と考えると、恐らく十中八九、文系とも理系とも言えない、ただのバカなんだな、という結論に達する。バカの話はこれくらいでいいだろう。

  相対化ってのは簡単に言えば特権的なものが消え去って個々の現象とか感じ方みたいなものが大事にされるってことだ。相対化と言えば感想とか主観的なものの否定だと思う奴がいるようだがあれは勘違いだな。不正に特権的な地位に置かれていた特定の(そして多数派にして少数の)感想とか価値基準が適正な位置に降ろされるからそう感じるだけのことだ。

 それまで「評価」だと思われていたものが「好き嫌い」になる。「評価」の下位に不正に置かれていた「好き嫌い」が救われるわけだ。

 相対主義相対主義を絶対化している? それについては<今>の俺ではなくいまの僕が先取りして言いますと、自己言及にして矛盾を出すゲーデル脱構築ってやつですねたぶん。だそうだ。

 まぁともかくそういうわけで文系も(そこまで単純ではないにせよ)基本的には相対化の道を歩む。そして「評価」とはまた違った批評の存在が見えてくる。

 

 Step4.「視点導入」型批評の導入

 ある作品に対する一つの特権的な「見方」、「正解」という考えが相対化によって退けられたあとで出てくるのは当然「いろんな見方がある」ってことだよな。

 そこで「批評」には新たな役割が振られる。つまり「いろんな見方」のうち、まだ誰もやってないような新しい、そしてより楽しめる見方を見つけて提供すること。「新しい視点の導入」だ。

 ここで「批評」は「創作」にぐっと近くなる。というのはそこに「正解」は無いし、なにより「作家はわざとつまらない作品を作ったりはしない」。つまり創作者の行動にはある偏りがあるわけだが、その偏りを批評家もしぜんと帯びてくることになる。

 どういうことか。

 ちょっと唯物的に考えてみよう。単純に素朴な唯物的に。

 人間は結局タンパク質でできた機械だって話はいまさら陳腐ではあるが、まだ有効性は持っている。単純に素朴な唯物的世界観では機械論もまたほぼ前提されるだろう。このとき作品の鑑賞そしてそこで生まれる感情は、またしても脳内の信号のやりとりとかそういったものに他ならない。ここで重要なのは、そういった考えこそが俺達の個々の感じ方を肯定してくれるってことだ。脳内の信号のやりとりにいちいち「こういう信号のやりとりが正解だ」「正しい脳内麻薬の出し方に従え」なんてのはあまりにナンセンス。つまりいちいち自分の楽しみ方を他人にどうこう言われる必要が無くなる。自由だ。

 一方で完全に自由とも言えないだろう。どういうやり方を取ってもいいにせよ、ある場合には楽しめて、別のやり方では楽しめないのもまた事実。論理的にはどうでも、実際上は「自分が楽しめる」やり方とか対象が上位に置かれる。しかしこれも唯物的な相対化によって非常にクリアだ。要するに「楽しめた/楽しめなかった」を考えればいい。この単純な勾配によって創作者の偏りは生まれる。どのような意味であれ「楽しめる作品を創ろう」って偏りだ。相対化された「視点導入」型の批評でも同じことが起きる。「楽しめた/楽しめなかった」以外に評価軸がない以上(「正しい/正しくない」という評価軸が消えた以上)導入する「視点」はまず「楽しめる」ことが第一視される。早い話が作品鑑賞をつまらなくさせるような種類の批評は氏ねってことだ。そんなものに価値は無い。なぜなら価値とはもはや「正しい」ことではなく「楽しめる」ことだからだ。

 

 簡単に頷かれても困るから具体例を出してみようか。

 例えば誰かがワンピースの欠点をいろいろ論ったとする。しかしそんなものに価値は無いって話だ。そこでは何らプラスのものは生まれていない。「欠点」といったがそれは「自分にとっての欠点」であって客観的な欠点は決定できない。実際そんな「欠点」など気にせずに存分に作品を楽しんで感動さえしてしまう鑑賞法・視点が現に存在する。このときワンピース批判Aとワンピースを楽しむ見方Bは、「楽しめない視点A」と「楽しめる視点B」でしかない。価値の勾配がどちらに傾いてるかなんて明らかだ。

 ワンピースを「萌え」や「ラノベ」に置き換えてもらっても構わない。ここで注意して頂きたいのは、こうした具体例は納得してもらうためではなく、簡単に納得してもらわないためにあるってこと。そしてその「納得のできなさ」がこの考え方のラディカルさであるし、多くの人間が今なお陥っている欺瞞(と俺に見えるもの)の生成物であると言える。

 ワンピースを楽しめなくてもそんなことは自由だし、勝手にすればいい、それ自体一つの確固たる現象である以上どのような理論にも否定され得ないが、ただ「創作」と同様の偏りを今や持っている「批評」という領域ではそれは否定されないまでも積極的な価値もまた持たない、というわけだね。

 一方でワンピースの欠点を論いつつ、そのこと自体が楽しまれるような場合もあるだろう。そこには確かにプラスがある、楽しさがある。批評が創作に近くなるというのはそういう意味でもある。つまり事ここに至っては、批評とは即ち「作品」だ。それ自体が「楽しめる/楽しめない」という評価に直に晒されることになる。それを覚悟しなければならない。「作品」と同様の、あの批判されやすい地位に置かれるってことだ。と同時に、「楽しめる/楽しめない」という評価軸以外では、正反対の価値判断を含む批評とさえ等置されるということでもある。早い話が、どれだけ馬鹿馬鹿しいワンピース信者の妄言に対してさえ、それが楽しまれる限り優越し得ない、ってことだね。

 

Step5.という前提

 別の言い方もできよう。つまり相対化は「創作→作品→享受→楽しさ」という「楽しさ」が生まれるまでの経路に「創作→作品→享受→解釈→楽しさ」という具合に「解釈」という新たな創作的過程が含まれることの発見を促す、と言える。

 つまり「楽しさ」は作者のみならず批評家や読者によっても創作されるために、ある意味では共犯的だということ。ために作者が悪くなくても批評家や読者の手落ちで作品が楽しめない、なんて事態も簡単にありうる。

 また別の言い方をすれば、科学的論理的な見方は世界から「べき」論を排除する。そこには現象のみがあり、従って利益を得るための「方法」のみがある。そこに「いいわるい」は無い。

 

  というようなことは、ほとんど前提のようなもの。

 ただしこういう前提を一度きちんと論じてみることが「本気出して考えてみる」ということでも俺にとってはある。

 ともかく前提はおしまい、そろそろ僕が最近夢中になりつつある文系的なガジェットも利用していきましょう。

 適切な使い方ができるかはわからないけど。

 

Step6.相対化のはてのはてな

 相対化はこのようにして安定する。

 ということはわかった。

 一方でいまの僕の気になるのはやはり途中で出てきた「相対主義相対主義を絶対化する」という自己言及、ゲーデル脱構築なわけです。

 このようなゲーデル脱構築はどのような否定神学を生むのか?

 「相対主義相対主義を絶対化する」という主張(ここでは「相対相対主義」とする)が示唆する結論が「だから絶対主義が正しいんだ」でないことは確かでしょう。考えられるのは「世界は相対主義にさえ捉えきれないやり方で相対的(としかいいようがないなにか)なのだ」という方向性。ここで「思考の限界」に 近いものが既に示唆されていることがわかります。 ふむふむ、では否定神学もこの近くにあるに違いない?

 ここで忘れてはならないのは、相対主義自体もまた否定神学だった、ということです。絶対主義というシステムをいろんなやり方でゲーデル脱構築し(やり方は相対主義の数だけあったと言えるでしょう)、新たに相対主義というシステムを作ってしまった。そこで唯一の超越論的シニフィアン(ファルス)として立ち上げられた「相対主義」を指摘する言葉こそが「相対主義相対主義を絶対化する」でした。

 つまり相対相対主義相対主義という否定神学をさらにゲーデル脱構築してしまったために、やはり別の否定神学を生んでしまう、であろう、ということがわかるわけです。

 言い換えれば、相対主義も相対相対主義も相対化のやり方がまずかった。ということです。ある一つの自己言及的な命題によりシステム全体の有効性を崩壊させるやり方は、対象となるシステムが絶対主義であれ否定神学であれ、新たな別の否定神学しか生みません。そうではなく、「欲望」のレベルまで目配せして一回一回の「誤配」に神経を注ぎ、システム全体を見渡すことなく脱構築すること。ではないでしょうか?

 そしてここまで僕は、理系時代の<俺>に戻ることで明に暗に相対主義の「欲望」について語ってきたはずです。相対化ってのは簡単に言えば特権的なものが消え去って個々の現象とか感じ方みたいなものが大事にされるってことだとか「評価」の下位に不正に置かれていた「好き嫌い」が救われるわけだとかそういった考えこそが俺達の個々の感じ方を肯定してくれるってことだとかいちいち自分の楽しみ方を他人にどうこう言われる必要が無くなるとか?

 要するに相対主義の欲望とは「俺のこの感じ方を否定しないでくれよ!」ってことだと言えるでしょう。順序が逆になりましたが絶対主義(ある種の権威主義など)の欲望はこれに近い「俺のこの感じ方こそが「正解」であり唯一絶対に正しい読み方なんだ!」でしょう。

 さて、ようやく根本的な問いが出てきました。

 批評を駆動する「欲望」とはなにか?

 言い換えれば、

 僕たちはなぜ批評するのか?

 

Step7.僕たちはなぜ批評するのか?

 しかしこの問いは適切に答えられないことが予め決まっていると言えます。

 仮にあらゆる批評を駆動する一つの「欲望」を名指しできたとき、そこにはもう個々のケースは関係ありません。それは直ちに単数的な「欲望」を中心としたシステム――否定神学を作り上げることでしょう。

 そういう相対化の仕方ではダメなんです。

 また「欲望」自体も無意識から誤配されてくるはずでした。意識上の語表象+物表象(シニフィアン)は無意識では物表象のみ(エクリチュール)に変換され、ある情報は避けられ抹消されつつ、そのエネルギーを転嫁する形で別の情報が強調される*3。この無意識における欲望を言葉に、従って意識の俎上に上げるのは、ほぼ不可能でしょう。欲望は常にズラされている。

 個々別々の「欲望」があり、それが批評を駆動する、ことによってまずは超越論的なものの複数性が確保される。とともにシステムの全体性ではなく一回一回の「欲望」の誤配こそが決定不可能性を決定づけます。

 というようなことは考えられる。しかしこれではなんというか、わかったようなわからないような、なんともモヤモヤする。なんとかならないものでしょうか?

 あらゆる批評を駆動するたった一つの「欲望」でなくとも、あるいくつかの批評を駆動してそうな、「欲望」の一例を挙げることくらいは?

 やってみましょう。

 

 まずは欲望は常にズラされているということから以下のようなことが考えられます。

 僕達は小説や漫画やアニメを見て、無意識下に「なにか」を刻まれた。意識はそれがなんなのか知らない。ためにその満たし方も知らない。でも、とにかく「なにかをやらなくちゃならない」。

 そうなったとき、取れる手段が現実的に、批評くらいしかなかった。つまり無意識の欲望が批評への欲望へとズラされた。*4

 言いましたね? ワンピースへの感動とかまさにクオリアとかコギトだろ?というようなことを。

 現象学が超越論化するのはまさにこのコギトでした

 現象学の「自分が話すのを聞く」コギトは、自分が話すという一つのオブジェクトレベルとそれを聞くメタレベルが繋がることで超越論化されます。それは確定記述(オブジェクトレベル)に還元できない固有名と同様の性質を持っていると言えるでしょう。そしてクオリアもまた物理的な確定記述に還元できないものとして名指されます。

 このような確定記述に還元できない残余はいかにして生まれるか? それは先程の「欲望」と同形の議論で説明可能でしょう。無意識を通ることで復元不可能となった情報は、それゆえに亡霊的な効果を、超越論性を帯びる。

 この確定記述に還元できない残余、亡霊的な効果をなんとかしようとして、結果的に選ばれた手段が批評だったのではないか。

 

 すこし似た別の説明もありうるでしょう。

 意識は常に移り変わるために、周期的にいまある情報を抹消される必要があります。黒板の文字を消すように。一方で無意識には、復元不可能な形ではあれ保存される*5。この、意識的には失われた情報の復元を(不可能な復元を)欲望して行われるのが一部の批評行為だとは考えられないでしょうか?

 要するに「あのとき確かに感じたあの「感じ」」を意識化せんと欲するとき、言葉に頼るほかありません。そしてそれは常に失敗する。

  

  また別の「欲望」を考えてみましょう。

  亡霊的な効果「散種」は同一ではないが「同じ」であるもの、例えば一回一回厳密には異なるが「同じ」と判断されるある人物の署名に宿るとされます。異なるものを一つにまとめて「同じ」とするとき「散種」は生まれる。

 ここでそもそも科学的な見方とはある個別の現象とある個別の現象の中に共通性を見出して点と点を線でつなぐように関数にすることだろということを思い出せば、固有名を関数に、関数が通るすべての点の集合を確定記述の集合に類比できるでしょう。そして関数は仮にあらゆる批評を駆動する一つの「欲望」を名指しできたとき、そこにはもう個々のケースは関係ありませんと同様の性質を持つ。つまり一般性ですね。

 この一般性への欲望は形而上学否定神学に、そして科学に共通します。

 それはモノを意味に還元しようとする原初的な人間の営みを軸にして、やはり「同じ」ものとして見ることが可能でしょう。

 

 さてもしかし、批評を批評するというこの自己言及的な企ては、どれだけ頑張ってもゲーデル脱構築にしか到達し得ない気もするけど。どうなんだろう?わからない。

  そもそもこれは批評だろうか?それもわからない。どっちでもいいけどこの批評だかなんだかわからないものを駆動する「欲望」は?わからない。わからないからわかろうとするんだろうか?わからない。わかってるから書くんだろうか?わからない。わからないけど、わからない。

  でも一つ言えることは、なにかがぼく達を駆動している、ってこと。

  ぼく達は純粋な論理に突き動かされているわけではない。科学的論理的な見方は世界から「べき」論を排除する。ぼく達はなにをやってもいい、でもなにかをやっている。なぜ?わからない。でもそれはきっと、きれいなものではない。ぼく達は隠蔽し偽造している、「欲望」を。きれいなふりをしている。懸命に。

  それを詮索するのは、一つの暴力だろう。それを勝手に想像して決めつけるのは、もっとひどい暴力だろう。そういうことを他人に対してするのは、本当に唾棄すべきことだ。でももしかしたら、自分に対してそれをするくらいは、許されていいのかもしれない。

 欲望はどこかで暴力を生むだろう。その欲望を詮索することもまた暴力だろう。自分に対する暴力で傷付く他人もいるかもしれない。だったらせめて、声を上げて欲しい。

 傷付いてるぜって。

 もしかしたらそれが批評?それが批評を駆動する欲望?わかんないけど、まずはそっからだろ。

 正しさが相対化されたあとで、楽しさも相対化されたあとで、残るのはやっぱり、やさしさなんじゃないか?

 

 

(執筆:荻上3)

*1:当時の僕の用法に従えば

*2:逆に簡単に同意できてしまうからこそ、よく知らずに使ってしまう傾向はありますが……。

*3:例として夢における作業が『存在論的、郵便的』では語られます。

*4:別の人では「批評」の代わりに「二次創作」であるような場合もあるでしょう。

*5:物理的には神経回路の定着に相当するかもしれません。