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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

欲望というリソースについて

 今回は僕に似合わず自己啓発的なことを書いてみたいと思います。

 最近やけに批評(というつもりの)記事が多かったので、もうちょっと書くことのヴァリエーションを増やさないとなと前々から思っていたのです。

 といってもやることはいつもとさして変わりません。いつも通りちょっとした思いつきをもとに牽強付会、それらしいようなそれらしくないようなことをつらつらと書き連ねるのみです。

 いつも通り「誤る」ことを恐れずに書きますのでそのつもりで。まぁ自己啓発というものは過程の正しさより結果的にプラスの感情に繋がることが重視されるものというのが僕の印象で、多分きっとそういうものになるでしょう。

 今回は「欲望」の話です。

 

ワイルドカードの欲望

 欲望は常にズラされる、というようなことはよく言われることで、実際もっともなことと言えるでしょう。

 欲望の対象を知っていることは欲望の条件ではありません。僕達が「自分はこれこれを欲望している」というとき、既にしてなにか不自然で余計な仮定が含まれています。

 「欲望があるなら、その対象があるはずだ」と思ってしまう。

 しかし例えば、これまでミルクを飲んだことのない赤ん坊が泣き叫び、ミルクを飲ませてもらって満足げに泣き止んで笑ったとき、赤ん坊は予め「ミルク」の存在を知っていたと言えるでしょうか? あるいは「空腹」という概念についてさえも?

 今から考えれば世界は欲望の対象となりうるものであふれているのに、それらについて一つも知らずに僕らは生まれてくるわけで、とすれば、僕達はそれがなにか知らずにただ求める、というようなことは往々にしてある。

 ここからさらに推し進めて「欲望にはそもそも対象がない」と言ってみることが可能でしょう。つねに「何か」をそれがなんなのか知らずに求めており、満足とはこの絶え間ない欲望が一時的に忘却される瞬間であると。

 考えてみれば当たり前のことです。世界には欲望の対象となりうるものが膨大にあるのに、生まれる前からその情報をいちいち蓄えることは不可能です。欲望が多彩でありうるためには、ひとまず最初は、対象が決まっていてはならない。どんな欲望にもなれる(それゆえどんな欲望でもない)「*」(ワイルドカード)の欲望が様々な欲望の条件と言えるでしょう。

 

欲望の対象が決まる瞬間

 こうした考え方はしかし絶望的です。対象の無い欲望を一体どうやって満たせばいいのでしょう? 欲望は常に満たされることなく湧き続け、僕達にできることはそれを一時せき止めることで「満足」する以外にない、ということになってしまう。

 そして僕達はきっと、このどうしようもない「*の欲望」が一時止まったことを見てとって、「ああ、僕が求めていたのはこれだったのか」と事後的に欲望の対象を認定することでしょう。

 こうして「欲望は常にズラされる」わけです。

 そもそも対象がないものに対象を認定するから「ズレ」が生まれる。余計に満たされない。ただ一時的に忘れるだけ。かといって「*の欲望」をそのままにしておくわけにもいかないでしょう。「ズレ」があろうがなんだろうが、とにかく対象を決めなければ忘れることさえできない。

 なるほどどんどん絶望的です。

 

欲望のモデル化

 ここにきて「自分がなにを求めているのかを知り、それを満たそうとする」戦略自体が間違っていたことを認めざるをえません。知るもなにも、僕達はなにも求めておらず、ただ求めていたわけですから。

 ではどうすればいいか?

 それを探るために欲望を簡単にモデル化してみましょう。

 

 まず「*の欲望」を定期的に鳴るアラームだとします。

 このアラームが鳴るたび僕達はどうしようもなく対象の無い「飢え」に苛まれる。

 このアラームを一時的に一定期間止めてくれるものが一般に「欲望の対象」と考えられている様々なもので、これらを「欲望の対象」であると錯誤することで、僕達はこれらを能動的に求め、結果的にアラームを止める手段を日々確保しています。

 

 至極簡単には、このようにモデル化できるでしょう。

 ここで対象の無い「飢え」に苛まれる時間を最小限化することがひとまずの目標として考えられます。そのために考えられる手段は二つ。

 

 1.アラームを鳴らす装置を壊してしまうこと

 2.「欲望の対象」を常に与え続けること

 

 手段1が考えるだに恐ろしげなものであることは恐らく誰にとっても明らかでしょう。それはつまりなにも欲望出来なくなってしまうことであり、そうなってしまえば、もはやどんな行動であれ動作であれ行う理由を失くしてしまい、多分なにもしなくなってしまいます。

 となればやはり手段2しかないのか……。

 ところで上記の欲望のモデルでは考え落としているというか少なくとも表現されていないものがあります。僕達が日々確かに感じている「快楽」や「幸福感」といった類いのものです。

 現在のモデルでは「欲望」と「快楽」「幸福感」は直接には関係しないものということになる。しかし一方で「欲望の対象」と「快楽」「幸福感」を起こすなんらかのものが重なりやすいことは恐らく事実だと観察できる。とすると、「欲望の対象」が一時的にではあれアラームを止めうるのは、「快楽」「幸福感」の効用によってではないか?

 例えばアラームを目覚まし時計を止めるようにスイッチを切るのではなく、別のアラームを一時響かせることで一時的に聞こえなくさせ、忘れさせると考えてみれば。

 なるほど悪くなさそうです。

 

 常に鳴り響く欲望のアラームと、

 それを一時妨害する快楽と幸福感のアラーム。

 どちらが聞こえているかが重要だとすれば、もちろんやることは相も変わらず「快楽」「幸福感」の原因=「欲望の対象」を与え続けることなのですが、その戦略に微妙な違いが出てきそうです。

 

欲望という手段・リソース

 欲望を満たそうとすることはなるほど絶望的です。対象が無い限りそれが満たされることもない。

 しかし欲望の無対象性(それゆえ多対象性)は利用することもできるのではないでしょうか? なんでもないために、なんにでもなることができる。つまり、

 僕達は「自分がなにを求めているのかを知ろうとする」ことで「欲望の対象」を限定し小さくしていくよりも、

 むしろ「自分がなにを求めているのかを捏造する」ことで「欲望の対象」を拡張し多数的にしていくほうがずっといい、

 ように僕には思えます。戦略的に、そっちではないかと。

 従来の考え方では「欲望の対象」を増やすことは即ち「飢え」の可能性を広げてしまうことであり危険でした。しかし欲望が無対象だとすれば、それがズレる先がいくら増えたところでアラームは常に一つです。リスクが消える。

 また「欲望が無くなれば、多分なにもしなくなる」とも書きました。つまり欲望は行動を促すガソリンみたいなもので、行動を起こすための大切なリソースだと考えることが可能です。

 欲望を満たすべき目的ではなく、別の行動を起こすための手段・リソースとして考えることで、「欲望の対象」を多数化するメリットが見えてきます。

 

人生の目的

 欲望を満たすことを目的にしないとすれば、ではなにを目的にすればいいのか? 言い換えれば、欲望というガソリンを使ってなにを達成しようとするべきなのか?

 それについては、人それぞれ、としか言いようがありません。

 まさかすべての人のすべての人生の目的を僕などが規定できるとはとても思えません。各々に人生の目的があり、それを果たすために欲望というリソースあるいは「欲望というリソース」という考え方が利用できる、少なくともそう言うことができる、ということです。

 一方でしかし、すべてとは言わなくとも一部にちょっとした指針らしきものは示せるかもしれません。つまり、欲望が目的となりえないとすれば、残っているのは「快楽」「幸福感」ではないか?

 「快楽」「幸福感」を日々得るために、欲望というリソースを利用すればいい、ということは言えそうです。こう単純化してしまうと食欲や性欲のような簡単な「快楽」ばかりを求め続けることを推奨してしまいそうで危うげですが、単純な「快楽」は飽きが来るでしょうし、なによりサスティナビリティがありません。往々にして生活の持続を脅かすのが欲望の問題であって、そのためにこそ欲望を多数化することでうまく乗りこなすことが必要だと言えるでしょう。

 

まとめ

 欲望は「*の欲望」であるために、どの「欲望の対象」で「満足」させても構いません。だから「欲望の対象」を増やすことは武器を増やすことに等しいと言えるでしょう。

 もちろん空腹時に別の欲望――例えば睡眠欲――を「満足」させても無意味ですが……いや、案外悪くないかもしれませんね。もっとも本当にそれを続けていたら餓死するだけなので、やはりサスティナビリティを意識して欲望を運用することが重要です。

 結局のところをまとめれば。欲望を目的ではなく行動するための手段・リソースとして利用しようということと、欲望を多数化しよう=いろんなことに興味を持って、楽しもうということですね。なんだか当たり前です。

 でもきっと、自己啓発とはそういうものでしょう。一般的に自明に良いと思われていることに自分を向けるために繰り返されるある種の言い訳の群れ。多少シニカル過ぎるような気もしますが、でもそれで悪いことは特にありません。言い訳をしてでもやりたい・やらなければならないことがあるなら言い訳をすればいいわけです。(ダジャレです)

 

 そうそう、書き忘れたことがありました。

 「欲望があるなら、その対象があるはずだ」と思ってしまうと書きましたが、それはきっと僕達が社会化されているからでしょう。

 すこし前に読んだウィトゲンシュタインの『青色本』でも、すこし似た話が出てきました。欲望に対象を求めてしまうのは、恐らく文法的な誘導による錯誤なのでしょう。

 また例えば数学者が感じる数学に対する愉悦を、多くの人は「欲望」としてうまく理解できない。それはやはり「欲望」に対する先入観によるものでしょう。でも「*の欲望」という考え方を通れば、少なくともそれがありうることは理解できる筈です。

 つまり社会化によって僕達の「欲望の対象」は大きく制限され規定されてしまっている。無論悪いことばかりではありませんが、そこから抜け出すこともまた必要でしょう。

 社会的な文脈ではなく自分自身の感覚・感性を信じて、自分なりの「欲望の対象」を拡張していくこと、人生をよりよくするために必要なのはそういうことなのかもしれません。

 

 

 (執筆:荻上2)