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話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

政治音痴が政治について語ってみる

 前に似たような記事を書いたような気もしますが、ともかく、政治について最近ふと思ったことを書いてみたいと思います。

 おおまかには、「党派性」についての話です。

 

党派性の起源

 僕は党派性というものが嫌いです。いろいろなしがらみを抜きにすれば、あまり好きな人はいないんじゃないでしょうか。しかしにもかかわらず、党派性はあらゆる場面でついて回ります。特に政治においては。

 党派性の何が問題と言えば当然、発言内容より発言者やその所属する組織によって受け止め方/受け止められ方が左右されてしまうことでしょう。簡単にいえば「敵か味方か」という思考に沿ってすべてが受け止められるので、同じ発言でも発言者や陣営が違えば全く違った意味に受け止められてしまう。これは論理的には単なる不正です。

 一方で、特に政治においては仕方がない側面もある。というのも日本は間接民主制を採用していますから、有権者が政治のすべてをコントロールすることは不可能で、必ず操作不可能な部分が生まれます。この操作不可能な部分を少なくとも予測可能な範囲に収めようとすれば、使える情報は党派的な情報くらいしかない。つまり「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予測が可能な余白がどうしても生まれてしまうわけですね。こうした党派情報をもとにした予測を基準に行動すれば、もちろんまったく同じ発言に対して発言者や陣営によって全く違った意味に受け取ることも自然と出てきます。その意味では理に適っているわけですね、党派性は。

 言ってしまえば、間接民主制が党派性の一つの起源だと考えられるわけですね。もちろん他にもあるのでしょうが。

 

好き嫌いの政治

 党派性はある程度仕方のない問題であることが分かりましたが、一方で放っておくわけにもいきません。要するにそれは、相手のことを好きか嫌いかで相手の言っていることを好意的に解釈するか、悪意を以って解釈するか決めてしまい、あまつさえそれをもとに批判や擁護などを行う態度に結びつきかねないわけですから。あまりにも子供じみています。

 それにもちろん論理的にも問題です。いくら「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予測を立ててもそれは予測に過ぎません。たいした根拠はないし、対立するグループと共有可能な認識ともならないでしょう。とすればただの水かけ論しか生まないし、その単なる予測をもとに実際に行動に移せばダブルスタンダードの誹りを免れ得ません。

 いま政治について起こっていることの大半は、結局はそれだけのことなのかもしれません。単に互いに党派性を発揮して、相手のいうことをわざと悪く解釈し、大袈裟に騒ぎ立てる、それで問題だけやけに大きく見えているだけなのかもしれません。

 結構無益ですよね。

 一方で党派性を無くすことは可能かと言えば、そりゃ原理的には可能でしょうが、実現可能性はほぼ無いと言えるでしょう。それはつまり「あの党のやつならあそこはああするだろうが、この党ならこうするだろう」という予想を(いくらできそうでも)一切しないことであり、ために結局どの局面でも「判断」と呼べるものは何もできないでしょう。判断材料が少な過ぎるからです。*1

 結局のところ無党派性というのは単に政治無関心に他ならない、ということにほぼなりそうです。

 ではどうすればいいのか?

 もちろんこの大きな問題に解決を付けるには僕という人間はあまりに矮小ですが、一つの案は出せるかもしれません。

 

政治的糞DDの提案

 「糞DD」という言葉がアイドルファン界隈にあるそうです。

 「DD」とは「誰でも大好き」の略で、構成員多数のアイドルグループがほぼ前提となっている現代において特定の「推しメンバー」を決めずメンバー全員グループ全体を愛するタイプのファンを指し、これを侮蔑する意味を込めて「糞DD」と呼ばれているそうです。

 まず個人的にこの「DD」という態度にはものすごく共感を覚えます。それが「糞DD」と侮蔑されることも含めて、なにか奇妙な居心地の良さがありますよね。

 そんなことはともかく、党派性です。つまり、党派性を一つ持つのではなく、一つも持たないのでもなく、いくつも持ってしまえばいいのではないか? 党派性の問題とは要するに偏りの問題ですが、多頭は無頭、複数に平等に偏れば、それはつまり偏りがないのと同じです。

 実際には難しいかもしれません。それはつまり、今持っていない党派性を手に入れるということですから。今敵視している陣営も含めて「誰でも大好き」になることの前には大きなハードルがあることでしょう。

 でもそれが一つの「成熟」ではないでしょうか?

 いい加減個人的な「好き嫌い」は脱却して、好き嫌いを超えて政治を見る目を眼窩にそっと挿し入れるべきではないでしょうか? もちろん「糞DD」よりうまくやれるというならそれに越したことはありません、多党派性ではなく本当に無党派性を手に入れられるなら、「誰でも大好き」ではなく「誰のことも好きではない」になれるなら(そしてその上で「判断」と呼べるものを実行できるなら)そちらの方が好ましいことは確かでしょう。とにかく、無党派か多党派か、どちらかの方が一つの党派性より幾分マシだと思うのです。

 

 最後に、これは意識的に行おうとしなければ行えることではないでしょう。

 とても人工的な操作です。

 こういう人工的な操作によって判断を矯正できるのが人間の理性の強みだと思っています。

 単一の予測ではなく複数の予測を並列に実行してそれぞれを互いに惑乱させ、最後まで共存させること。それは政治に限らず可能性に関する思考一般に適用できるものではないかなと考えています。

 

 

 

(執筆:政治はからきし荻上3)

*1:逆にいえば我々の「判断」の多くは曖昧な予想を判断材料に多く採用した、論理的にはまったく不正なものが大半だと言えるでしょう。